弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年8月18日

永遠の都6(炎都)

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 加賀 乙彦  、 出版 新潮文庫

 戦前の帝大セツルメントが紹介されています。著者はセツルメント活動をしていたのです。
 帝大セツルメントは関東大震災後に生まれた学生救護団を母体にして、大正13年に帝大セツルメントのハウスが柳島元町に落成して始まった。次第に、託児所、診療所、法律相談部、市民教育部、図書部、調査部と活動範囲を広げていった。
東大本郷の五月祭のセツルメント展示場に制服の女学生が数人立ち止まった。いずれも良家のお嬢さんらしく、アイロンの掛かった白の上着に、紺のスカートを着て、作りたての人形のような、ほつれ毛一本ない三つ編みを垂れている。聖心女学院の学生たちだった。
 まさか来るとは思わず誘ったら、そのうちの一人が本当にセツルのハウスにやって来た。
ハウスは2階建ての洋館で、下に医務室、託児所、図書室、食堂、台所、小使室、浴室があり、上は法律相談室、調査室、教室、物置、そして10のレジデント室があった。
この法律相談室には、民法の大家としてあまりにも著名な末弘厳太郎そして我妻栄も週に1回やってきて、市民からの相談を学生と一緒に対応していました。
 聖心の女学生は、ハウス付近のスラム街を案内された。戸口がなく、すだれを垂らしただけで内部がまる見えのあばら屋では、病人が臥(ふ)せっているそばで赤ん坊が泣いている。軒が傾いた屋では、破れ障子の奥で老婆たちが手内職をしている。運河の岸に鋳物や紡績の町工場が並び、排水で水は黒く、酒瓶、紙屑、猫の死骸、野菜屑が悪臭を立てている。吾嬬(あずま)町の皮革工場に近づくと特有の糞臭が漂い、ドブ川は何とも形容できない醜悪な色をなして、淀んでいる。そして、このスラム街の向こうには、赤い連子窓の並ぶ色町がある。
それを全部見てまわったあと、聖心の女学生はセツルに入りたいと言って、セツラーの一人になった。
私も大学に入った4月に川崎セツルメントに入りました。幸区古市場です。そこはスラム街ではなく、大小町工場で働く労働者の街です。いわゆる民間アパートが至るところにありました。
まだまだ娯楽の少ない時代でしたから、青年労働者たちと早朝ボーリング大会、オールナイト、スケートそしてハイキングやキャンプを企画すると参加してくれました。もちろん、アカ攻撃もかかってきました。大企業の労務管理としてZD運動などが盛んなころのことです。女子学生もいろんな大学から参加していました。津田塾大学、東京学芸大学、栄養短大などです。
 日本が戦争に近づこうとしているころ、日本に長く住む神父がこう言った。
 「これから日本がどうなるかは分からない。しかし、満州事変以来、軍部が武力拡張政策で国を引っぱって行く方向では平和な未来は来ないだろう。戦争というのは、一度、火がつくと、どんどん燃え広がって、収拾がつかなくなる。そうならないことを祈るより仕方がない」
いやあ、まるで、いまの日本にぴったりあてはまる言葉ではありませんか...。「台湾危機」などをあおり立てて、軍備大拡張、そして敗戦記念日に広島で臆面もなく、「核抑止力」をふりかざす日本の首相。狂っています。声を大にして批判することが必要なときです。
(1997年7月刊。629円+税)

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