弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年8月16日

明治維新という時代

日本史(明治)


(霧山昴)
著者 深草 徹 、 出版 花伝社

 明治維新の大立て者の西郷隆盛とは、いったい、いかなる人物だったのか...。大変興味深いテーマです。
 西郷隆盛は一般に征韓論を唱えて、それが敗れて下野したとされています。それが事実だとすると、帝国主義的野望をもった政治家だったことになります。
 本書で、著者は西郷は武力で朝鮮を威嚇し、また屈服させるという征韓論をとっていなかったとしています。朝鮮に行く使節は兵を率いることなく、烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)の正装を着し、礼を厚くして行くべきだと主張しました。自ら朝鮮に行く使節になると名乗り出たのも、軍事制圧をしようとしている副島種臣を使節にしないための方策だったというのです。つまり、西郷の唱えた使節派遣論は、無用な戦争を防ぐことを目的としたものだとしています。
岩倉具視や伊藤博文らの欧州視察団が出かけていって日本を留守したあいだ、日本政府は西郷や江藤新平(佐賀)が牛耳っていた。その江藤は長洲藩出身者を厳しく追及していた。帰国してきた伊藤博文は長州藩出身者たちの復権を目ざし、江藤そして、それを支えている西郷に対して激しい敵愾(てきがい)心をもって追い落としを図った。その結果、江藤新平は佐賀の乱(佐賀戦争)で敗死し、大久保利通から即座に処刑されてしまいました。
 このとき岩倉具視が江藤や西郷の正論を問答無用と切り捨てたと著者はしています。いったい、なぜ岩倉にそれほどの力があったのか、その背景にはどんな状況があったというのか...、私は疑問を感じました。いずれにしても、明治6年の政変によって、西郷や江藤政権から遂われ、有司専制と言われる大久保政権が確立します。
 そして、この政変からまもなく、日本は朝鮮ではなく台湾に出兵して、そこを支配するのです。それまで大久保や伊藤たちは、「内治優先・戦争回避」を唱えていたはずなのに...。
 そして、著者は、西郷が西南戦争に踏み切ったころ、「護衛」という名の監視下に置かれていた、つまり決起した鹿児島士族の虜囚にしか過ぎなかったとしています。この点は、果たしてどうなのでしょうか...。西南戦争が西郷の真意ではなかったというのは本当なのでしょうか。
 著者は私と同じ団塊世代(私より少し年長)ですが、今から6年も前に早々に弁護士をリタイアして歴史研究にいそしんでいるようです。いかにも刺激的な本でした。
(2024年5月刊。2200円+税)

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