弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年8月11日

検証・川中島の戦い

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 村石 正行 、 出版 吉川弘文館

 川中島の現地には、私も一度だけ行ったことがあります。とは言っても、タクシーを飛ばして行ったというだけですので、現地ガイドの説明でも聞けたら良かったとは思いますが、まったく全体状況は何も分からず、残念でした。
 関ヶ原合戦上には2度行きましたが、このときは史料館にも行きましたので、少しは理解できました。次には、武田勝頼の率いる武田軍が織田・徳川軍の鉄砲「三段撃ち」で惨敗したという長篠(ながしの)合戦場の現地に行ってみたいと考えています。
 川中島の戦いとは、甲斐国(山梨県)の武田信玄(晴信)と越後国(新潟県)の上杉謙信(長尾景虎)が信濃国川中島(長野市川中島町)で、北信濃(長野県北部)の領有をめぐって、何回か対戦した合戦をさします。
 この戦いは、1553(天文22)年から1564(永禄7)年までの12年間にあり、主な対戦だけでも5回あったとされている。そのうち、もっとも激しい合戦は「5度目」の1561(永禄4)年9月10日に、両雄が一騎打ちしたというもの。現地には、この「両雄の一騎打ち」が銅像になって「再現」されています。ところが、実は、合戦が何回あったのか、今に至るまで確定していないというのです。驚きました。
 永禄(1560年)ころは、今より寒冷で、大飢饉(ききん)で人々が苦しんでいたらしいのです。甲斐は作物が不作で、戦争は食糧獲得のためだったとのこと。なるほど、それだったら、切実ですよね...。生き抜くためには戦かわねばならないというのですからね。
 古文書(「甲陽文書」)によると、武田軍八頭が敵方と対戦したとなっている(天文22(1553)年)。頭とは士(さむらい)大将のこと。騎馬武者5隊で小組、これが5小組で一組の単位となる。2組で「備(そなえ)」となって、士大将の指揮下に置いた。「備」の編成を500人ほどだとすると、八頭で4000人前後になる。
 武田信玄(晴信)の隣国への出兵は春から夏にかけてが多い。異常気象による食糧不足を、他国での乱取り(略奪)、人取りによって補う目的があったのだろう。武田信玄は調略(切り崩し)をすすめた。
 「和与」とは、当事者間の紛争解決の方法の一つ。もともとは、親族以外への贈与を意味する中世の法律用語である。
 長尾景虎にとっても、長期の在陣は越後の国衆の負担となり、また統制を乱された。自立性の高い国衆とのあいだの「あつれき」に悩まされ続けていた。永禄4年の合戦では、短期的戦術としては、上杉側の優勢だった。上杉側の名だたる武将の戦死はない。
 そして、武田家内紛も始まったうえ、双方ともに、大きな代償を払った(永禄4(1561)年)。
(2024年5月刊。1870円)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー