弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年8月 9日

三淵嘉子

司法


(霧山昴)
著者 神野 潔 、 出版 日本能率協会マネジメントセンター

 NHKの朝ドラ「虎に翼」は大好評のようですね。弁護士のFBにもこのドラムの意義がひんぱんに取りあげられています。世の中には、あまりにも理不尽なことが堂々とはびこっていますが寅子(とらちゃん、こと、ともこ)が「ハテ」と首をかしげて抗(あらが)う姿が共感を呼んでいるようです。
戦前、日本敗戦時まで日本の女性には参政権がありませんでした。なので、女性が弁護士になれなかったのも、ある意味、当然のことです。女性は一人前とは見られていなかったのですから...。
寅子たちが大学に入れたのも明治大学が受け入れたからです。そして、その次に司法科試験を女性も受験できるようになりました。
 寅子(嘉子)が高等文官(高文)司法科試験を受験したのは1938(昭和13)年のこと。女性が受験できるようになったのは2年前の1936年でしたが、合格者はいませんでした。そして、この1938年に初めて3人の女性が司法科試験に合格したのです。
実は、私の亡父も法政大学の法文学部の学生として、5年前の1933(昭和8)年に司法科試験を受験しています。残念ながら合格できませんでした。この年、有名な民法の教授である川島武宜が合格しています。
 父が受けた司法科試験って、どんなものだったのか気になって調べてみました。今はインターネットで国立国会図書館の蔵書にアクセスできて、コピーサービスも受けられます。本当に便利な世の中です。すると、「國家試験」という受験雑誌があることが判明しました。私の受験生のころの「受験新報」みたいなものです。試験問題も分かりましたし、試験スケジュールも判明しました。残念なのは試験会場が法務省の会議室らしいというくらいで、確定はできませんでした。
この年の合格者は240人ほどで、その前年は356人、翌年は331人で、なぜかこの年だけ少なかったのです。ただし、寅子のときも合格者242人と、ほぼ同数でした。
亡父の生前、司法科試験に合格したら、何になるつもりだったのか尋ねると、その答えは意外なことに検察官でした。
 治安維持法があり、その目的遂行罪というとんでもない悪法・恣意的条文によって法廷で共産党員を弁護したら、それ自体が罪となり、弁護士が次に逮捕され、実刑になっていた時代でした。弁護士になっても、それこそ夢も希望もなかったのです。
寅子が弁護士になろうとした動機は、弱い女性を救うためではなく、困っている人間の力になるため。これには、まったく同感です。男も女も関係なく、困っている弱者の救済こそが法律家の任務です。
 そして、寅子は女性だから家庭裁判所で働くという固定概念を打破しようとしたのです。これも、すごいことですよね、なんでも、ワンパターンで決めつけてはいけないのですよね。
(2024年3月刊。1550円+税)

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