弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年7月21日

東大寺大仏になった銅、長登銅山跡

日本史(奈良)


(霧山昴)
著者 池田義文 、 出版 新泉社

 1988年2月、奈良の東大寺の発掘調査の結果、大仏をつくった銅に、山口県美祢市にある長登(ながのぼり)銅山産の銅がわれていることが判明し、大きなニュースとなった。
 東大寺大仏をつくるのに使われた銅は500トン近い(496トン)。その銅は長登銅山の産だけではないだろう。
 しかし、大仏の近くの奈良時代の地層から発掘された銅のカタマリは、長登銅山、跡から出土したカラミ(製錬時に出るカス、鉱滓、金クソ)と比較し、砒素(ひそ)の含有率が高く、銀を多く含み、鉛同位対比の値が近いことから、同じ産地だと特定された。
この長登銅山には、古くから「奈良の大仏の銅を産出した」という伝説があった。しかし、他に確証はなく、単なる伝説とされてきた。長登銅山の古代の採鉱跡には露天堀跡がある。
 鍾乳洞の空間を利用した坑道では、照明のため、煙の少ないヒノキ材を束にして松明(たいまつ)としていた。
 銅鉱石は炉に入れて木炭とともに燃焼させて溶かし、金属としての銅を取り出した。
 製錬の過程で、大量の木炭を消費する。一般には「白炭」と「黒炭」があった。白炭は焼成途中で、木炭をかき出し、砂などをかけて消した硬い生焼けの炭。炭素の残存量がなく、持続力に優れている。黒炭のほうは、古代には「和炭」(ニコズミ)と呼ばれ、軟質で着火力に優れていた。
 長登銅山跡から831点の木簡が出土している。この出土した木簡から88人もの逃亡者がいたことが判明した。
 銅製練の現場には匠丁(しょうてい。工人、技術者)を中心として、役夫や仕丁、雑徭(ぞうよう)などの力仕事に動員された人々がグループで作業していた。銅を都まで運んだのは、駄馬10頭で、103キロの銅。
 山口県にある銅山の話です。やはり、こうやって、判明したことを活字にすると、みんながもう一歩深く認識できます。
(2024年2月刊。1700円+税)

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