弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年7月18日

三井大坂両替店

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 萬代 悠 、 出版 中公新書

 私の住む街は明治時代から三井の「城下町」として歩んできました。まさしく三井が君臨していたのです。反対派は三井が飼い慣らしていた暴力団に脅されることもありました。
 三井系企業が集まる会合によって市政の方向が決まり、市議会にも三井を代表する人物が送り込まれていました。
 この本は三井銀行の前身、三井大坂(江戸時代は大阪とは言いません)両替店(「りょうがえだな」と読みます)の内情を当時の資料をもとに詳しく明らかにしています。
 この三井大坂両替店の当初の業務は江戸幕府に委託された送金だったが、その役得を活かし民間相手の金貸しとして成長する。
 大坂町奉行所が受理した訴訟(民事訴訟)は、18世紀前半に1万件だったが、18世紀末に2万件に達した。刑事事件で奉行所から入牢を命じられた者は18世紀末には年間400~500人いた。
三井は呉服業と両替業を主力事業とし、1730年代前半には、京都・江戸・大坂における呉服店の奉公人は合計473人、両替店には51人いた。
 鴻池屋と加島屋は大名相手に金貸し業をしていて、民間を相手にしなかった。これに対して、三井大坂両替店は家法で大名への直接融資が原則として禁止されていたこともあり、民間を相手とし、小口取引もおこなっていた。商人の運転賃金需要に対応するもので、業態としては商業金融。
三井は預かった幕府公金を融資に回して莫大な利益を得た。これは送金業務の完遂を条件として黙認されたもので、幕府公金を期日までに江戸に送金することが最優先だった。
 大坂から江戸へは為替(かわせ)手形で送金した。現金を輸送することはなかった。18世紀中頃にこの方法が広く普及した。現金輸送は盗難の危険をともなったからである。
 為替手形の売買には、為替本替を間にはさんだ。ここが大坂商人の信用調査をした。
 万一、不渡りとなったとき、大坂町奉行所は一般的な給付訴訟よりも20日も早く、発行者(売却者)に返済命令を下した。今日と同じように手形訴訟の特例があったというわけです。
 集団生活に不適格な奉公人には退職を促し、長く勤務した適格者には高給で報いる昇給制度を三井はとっていた。つまり、奉公人を定着させたいが、不適格な奉公人は淘汰し、重役になるような勤勉な奉公人は残したいというのが、三井の人材育成方針だった。
三井大坂両替店には顧客の信用度を調査する「聴合(ききあわせ)」業務があった。
 これを原則として20代の若手の手代だった。その結果の信用調査書を「聴合(ききあわせ)帳」という。若手の手代が役づき手代に顧客の信用情報を報告する形態がとられていた。
 耐火性の高い土蔵は大きな価値があるとみられており、土蔵の有無と、その状態に気を配っている。顧客の人柄については、「実体(じってい)」が重視された。真面目で正直なこと、つまり誠実な人柄であることがもっとも望ましい。素行が悪いと判定されたりして借入を断られた顧客は、他の金利の高い金貸し業者に借入を希望し、そこでもダメなときには、場末の高利貸ししか借りるところはなかった。
 ただし、そもそも信用調査の対象外とされた人々もいた。三井の関連の人々や豪商や豪農たちだ。
 しかし、経営を拡大するためには、「見ず知らず」の顧客とも契約する必要があり、そのときには信用調査は欠かせない。
三井銀行が日本最初の私立銀行として開業したのは明治9(1876)年のこと。
 すごいことですよね、町人の信用調査の結果を書いた書面が残っているというのは...。
(2024年3月刊。1100円)

 先日受験したフランス語検定試験(1級)の結果を知らせるハガキが届きました。もちろん不合格でしたが、問題は点数です。64点でした。150点満点ですから、4割になります。
 「目指せ4割」と言っていましたので、それは突破しましたが、実は自己採点は74点だったのです。なんという「自己甘」でしょうか、トホホ...です。これは作文とか日本文で答えるところの主観と客観の違いです。
 まあ、それでもボケ防止のつもりで、引き続きがんばります。

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