弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2024年7月 1日
森を失ったオランウータン
生物
(霧山昴)
著者 柏倉 陽介 、 出版 A&Fブックス
ボルネオ島には、孤児となったオランウータンを保護し、育てあげて10年たったら森に戻すという施設があります。人間と同じ大型哺乳類なので、オランウータンを森の中の大自然に戻すには10年もかかるというのです。
なんで、ボルネオから森がなくなったのか...。それは人間の都合。アフリカ原産のアブラヤシをボルネオで大々的に栽培するようになった。このアブラヤシからとれるパーム油はお金になるから。森は大々的に伐採され、なくなっていった。
オランウータンは生まれつきの木登りの天才というのではなく、木登りをまず学ぶ必要がある。1~3歳は、木登り。そして、3~6歳は森林の中で生きていくことを学ぶ。
ボルネオの熱帯林の焼失が急速に進んだため、野生のオランウータンは80%も減ってしまった。
1964年に開設されたボルネオ島にあるリハビリセンターでは、これまで750頭以上のオランウータンが保護された。
リハビリセンターで、また森の中で遊んでいる自然な様子のオランウータンの顔を見ていると、オランウータンの保護というのは、それは人類の生存環境の保全にもつながっていると感じさせられます。アマゾンやボルネオの熱帯雨林を次に「開発」と称して消滅させていったら、次は人間の居住する環境も悪化していくことにきっとつながると思います。
ところで、こんなに大々的に森林を植樹されてつくられるパーム油って、いったい何に使われているのでしょうか...。世界の生産量の85%を占めるのは、ボルネオ島を保有するマレーシアとインドネシア。
ともかく、熱帯林をこれ以上減らすのは、ぜひ止めてほしいです。
(2024年3月刊。1980円)
2024年7月 2日
回想録
司法
(霧山昴)
著者 山本 康幸 、 出版 弘文堂
内閣法制局長官から最高裁判事になった著者が自分の人生を振り返っています。
著者は団塊世代の生まれで、私より1学年だけ下になります。東大入試が中止になったので、京都大学に入ったという経歴です。息子は無事に東大法学部を卒業して、東京で大企業を扱うビジネスローヤーとして活躍中のようです。
著者の父親は銀行員だったので、転勤族とのこと。新しい学校に行くと、「おまえのしゃべるのはラジオの言葉だ、生意気だ」と、猛烈ないじめにあったそうです。神戸から敦賀に小学2年生のときに転校したときです。いじめのため待ち伏せされたりしたそうです。それで、通学路を毎日変えたり、相手の裏をかいて校舎にかけ込んだり...。あらゆる手練手管で必死に対抗。おかげで、不条理なものへの反発心、状況を読む力、作戦の構想力、忍耐力と交渉力を人並み以上に身につけた。
なーるほど、災いを転じて福としたのですね、立派です。
そして、こんな田舎での生活ではなくて、東京へ出て、もっと大きな世界で羽ばたこうと決意したのでした。
私も、いじめは受けていませんが、ぜひ東京に出てやろうと考えていました。東京に行ったら、大きく世界が広がるはずだと考えたのです。そして、それは、たしかにそうでした。
著者は幼年期に小児結核にかかったこともあって、外での運動ではなく、家にいて本を読む習慣が身についたとのこと。
私も小学生以来、ともかく本を読んできました。図書館には、よく行きました。
中学生のとき、印象深いのは、山岡壮八の『徳川家康』です。これは、本当に読みふけりました。高校生のときは、図書館で、古典文学体系、つまり古文の原書に体あたりしました。もちろん、注釈に頼っての読書です。それでも、原典にあたっていると、試験問題で断片が切り取られての設問でも、断然有利でした。中学3年生のとき、著者は名古屋市内で1クラス55人で、17クラスあったそうです。私は1クラス50人以上で13クラスあったと思います。1年生のときは増設されたプレハブ教室でした。
著者は名古屋の名門高校(県立旭丘高校)に入学して、中学生のときの丸暗記勉強法が通用しないことを自覚したとのこと。私は丸暗記勉強法というのは、やったことがありません。
高校では、数学、物理、化学が不得意だったそうです。私は、物理も化学も好きでしたが、数学が出来ませんでした。いちおう数Ⅲまでは勉強して分かったのですが、座標軸をつかったり、図形問題になると、思考できなくなるのです。「大学への数学」という雑誌も少しかじってみたのですが、私には数学的才能はないと自覚して、高校2年生の終わる春休みに理系志望を文系志望に変えました。そして長兄にならって東大文Ⅰ一本槍です。塾も予備校も行かず、Z会の通信添削だけでがんばりました。
著者は官僚の世界に入って、たちまち頭角をあらわします。私も官僚志向でしたが、官僚にならなくて本当に良かったと今では思っています。
この本には、著者の先輩の官僚が週に3時間しかとれなかったという話が紹介されています。私には絶対無理ですし、そんなことはしたくありません。私の同期の弁護士(五大事務所のパートナー弁護士になりました)も、同じような状況を経験したそうですが、これまた私は、ご免こうむります。
ただ、著者は、おかげで文章を書くのが早くなったし、仕事を片付けるコツを身につけたそうです。それは私と同じです。
いろいろ参考になることも多い本でした(子育てはマネできませんでしたが...)。
(2024年2月刊。3400円+税)
このコーナーで紹介した岩泉ヨーグルトを天神の「みちのくプラザ」で見つけて買ってきました。普通のヨーグルトと違って、まったく水っぽくありません。プリンほどではありませんが、ヨーグルトの固まりになっていて、食べると、コクがあって舌ざわりも滑らかです。
庭になっているブルーベリーと一緒に美味しくいただきました。腸内細菌を活性化させ、腸の調子が良くなった気がしました。
2024年7月 3日
ナチ親衛隊(SS)
ドイツ
(霧山昴)
著者 バスティアン・ハイン 、 出版 中公新書
最近、たて続けにナチスに関わる映画を2つみました。「関心領域」は、この本にも登場するアウシュヴィッツ収容所のヘス所長の一家を淡々と描いています。この新書によると、ヘスは、回想録のなかで、自分のことを「意思のない、常に礼儀正しい、命令に従うだけの者」としているが、実際には、強制収容所の司令官として無制限の権力を振るい、収容者の生死を左右し、親衛隊であげた「業績」(いかに効率よくユダヤ人を大量殺害したか)を誇りにしていた。
映画では、壁の向こうで大量虐殺が進行しているのに、ヘス一家はプールもある豪勢な家で安穏と過ごしていたのです。ユダヤ人犠牲者から奪った宝石や衣服など身を飾りながら...、です。いかにもおぞましい生活なのですが、壁の向こうで進行中の人道に反する大量虐殺の事実は、見ようとしなければ、まったく見えてこないわけです。
もう一つの映画は「ワン・ライフ」です。こちらは、ナチス・ドイツの侵攻直前のチェコから子どもたちをイギリスに連れ出して救出したという実話を映画にしたものです。一人の証券マンが、事実を知ってやむにやまれぬ思いで現場に行って、600人以上の子どもたちの救出に成功したのです。現在進行形のガザの現実を重ねあわせて、涙の止まらない思いでした。
ヒムラーが最終的に第三帝国のナンバー2になった(なれた)のは、競争相手から繰り返し過小評価されていたこと、外見がぱっとせず、人目を引くことがなかったこと、そして、常にヒトラーに対してへりくだった態度をとっていたから。なーるほど、そういうこともあるのですね。
ヒトラーは、「アーリア人」の厳密な定義づけをむしろ避けた。「アーリア人」とは、「ユダヤ人」とは正反対の存在だと定義するだけだった。人間は、そんなに簡単に定義づけられるものではないということです。
親衛隊の隊員は優秀な人種から選抜されるということだったが、ナチスの医師の多くは「人種検査」を行う能力も動機も欠いていた。「人種検査」は客観的と称していたが、実際は恣意的なものだった。
親衛隊は「エリート集団」のはずだったが、実際にはそうではなかった。隊員の出身の多様性は特徴的だった。
ヒトラーの無二の友人だったエーミール・モリスは、曾祖父がユダヤ人だったが、「名誉アーリア人」として親衛隊に迎え入れられた。
親衛隊員は、自分たちの残忍性を隠すべきこととは思っていなかった。
国防軍の将校になるために必要だったアビトゥーア(大学進学資格試験)は親衛隊の将校には不要だった。
武装親衛隊の「英雄行為」は、軍事上で見込みのない戦争を長引かせた、だけだった。
ユダヤ人大量殺害に手を染めた親衛隊は、心を病んでいった。彼らの目は、海底に横たわって死んでいるタイの目に生き写しだ。彼らの人生は終わった。これで育成される部下は、神経病者か荒くれ者だ。
戦争を生きのびた親衛隊は武装隊員で60万人、一般隊員でも15万人もいた。
1963年から1965年まで続いたアウシュヴィッツ裁判では、刑は軽かったが、アウシュヴィッツ収容所の実態を広く世界に知らせたという点で大きな意義があった。そうなんですね、広く知られてはいなかったわけです。まあ、想像を絶する残酷な世界だったわけですから...。
ナチ親衛隊(SS)の実像を手軽に読んで知ることのできる新書です。戦争が起きると、こんなひどいことがまかり通るのですね...。日本も、自民・公明政権がどんどん戦争準備をすすめていて、かえって戦争を招こうとしているのですが、本当に心配です。軍備増強より教育・福祉を充実させましょう。
(2024年4月刊。1100円)
2024年7月 4日
女性法律家
司法
(霧山昴)
著者 三淵 嘉子 、 出版 有斐閣
1983(昭和58)年5月に刊行された本の復刻版です。もちろん、「虎に翼」(NHK朝ドラ)が好評なので、復刊されたのです。主人公のモデルとなった嘉子さんは紹介を割愛します。
時代を感じさせたのは1965(昭和40)年12月に東京は神田に発足した「婦人総合法律事務所」です。もちろん、今でも「婦人」という言葉は生きていますが、今や男女共同参画の時代ですから、「婦人」というより「女性」のほうが親しみもあって、使われやすいと私は思います。現に、福岡には「女性協同」事務所があります。
「婦人総合」は、女性弁護士6人で結成されました。女性だけの共同法律事務所は全国で初めてだったので新聞、ラジオ、テレビで紹介され、開所初日には数十人の相談者が押しかけてきたそうです。以来、17年間、6人の女性弁護士から成る事務所は存続したそうですが、その後は、どうなったのでしょうか...。
ここの相談料は開所当初は1時間2000円で、17年たった時点では7000円。土曜・日曜は休みの完全週休2日制。私も弁護士生活50年のうち、少なくとも初めの20年間は、土曜日も平日と同じように相談を受けて働いていました。20年以上前から、土曜日は完全に休みで、朝からフランス語の会話練習にあてています。そして午後は、映画をみたり本を読んだりして自由気ままに過ごします。大切にしている私の自由時間です。
女性弁護士は、どうしても家事事件を多く受任し、担当することになります。そして、この家事事件の当事者にはなかなか厄介な人物が少なくないのです。弁護士の側によほどの覚悟とストレス解消の技(わざ)を身につけておく必要があります。
私はいわゆる企業法務を扱ったことはありません。大会社であっても社長や法務担当者に個性の強い人(いわゆるアクの強い人)が少なくないと思うのですが、そんな人たちと少し距離を置いてつきあわないと、こちら(弁護側)の心身がもたないことになってしまうと思います。なにはともあれ、女性法曹が増えたのはいいことです。
この4月から日弁連の会長は女性ですが、ついに検事総長も女性がなるというニュースを先ほど聞きました。いったい、最高裁長官に女性がなるのは、いつのことでしょうか...。
なんだか、当分、実現しそうもありませんよね、残念ながら...。
(2024年6月刊。2300円+税)
2024年7月 5日
四日目の裁判官
司法
(霧山昴)
著者 加藤 新太郎 、 出版 岩波書店
この不思議なタイトルは、この本を読んで氷解しました。
裁判官になって良かったかと訊かれると、著者は、こう答える。
「裁判官はよい仕事で、3日やったら辞められない。でも、4日目には辞めたくなったりして...」
私は弁護士になったことを後悔したことは一度もありません。それどころか、天職と考えています。おかげで日本全国47都道府県、行ってないところがありません。そして、歴史に登場してくる遺跡もかなりのところに足を運ぶことが出来ました。本当にありがたいことです。
著者は裁判官40年、弁護士10年というキャリアです。「自由な精神空間を持つ仕事、それが裁判官」だとします。でも、私にはいささか違和感があります。その「自由」には、「権力からの自由」が含まれていると本当に言えるのでしょうか...。
沖縄の国と県の訴訟は、いつもいつも「国の勝ち」です。それこそ、まともな理由もなく、行政のやることに間違いはないという一刀両断。同じことは、安保法制違憲訴訟についても言えます。まともに証人調べをしない。せっかく学者証人を調べても、その証言を生かすことはない。残念ながら、そんな裁判官ばかりです。たまに良心を守っている(と思える)裁判官にあたると、ほっとしますが...。
青法協会員の裁判官を追放(「ブルーパージ」と呼ばれます)してから、気骨のある裁判官には滅多に出会えません。本当に悲しくなる現実です。
判決次第で、その後の経歴が左右されると裁判官が信じたら、委縮効果が及ぶ可能性がある。
著者は、これをまったくの誤解だと言いたいようです。でも、弁護士生活50年の私に言わせたら、決して誤解なんかではありません。厳然たる事実です。著者のような「主流」を歩いてきた裁判官には「見えない」のか、「自覚がない」だけのことだと私は思います。
私も、30億円というムダづかいをした地方自治体(市長)の責任を追及した住民訴訟で勝訴間違いなしとマスコミともども確信していたのに、敗訴判決をもらったことがあります。住民勝訴の判決を書いたときの反響の大きさに恐れをなして担当裁判官たちは住民を敗訴させたとしか思えませんでした。まあ、それが、至ってフツーの裁判官なんだと思います。
著者は、和解について、こう書いていますが、この点はまったく同感です。
裁判官が自ら案件を解決するという気迫を示せば、代理人・当事者もそれなりに意気を感じてくれる。そうなんです。裁判官が自分の心証を示して、これで解決したらどうかと言えば、かなりの確率で和解は成立するものです。ところが、自分の考えをはっきり言わないまま、「足して二で割る方式」の和解案を示す裁判官が、今も昔も少なくありません。
著者は司法研修所の教官そして事務局長をつとめていますが、その経歴を詳しくみると、高裁長官から最高裁判事という超エリートコースに乗っていたのではないようですね。この点は、裁判官の思考法を知る点でも、勉強になりました。すっかり誤解していました。
裁判官の思考法を知る点でも、勉強になりました。
(2024年4月刊。2300円+税)
2024年7月 6日
関白秀吉の九州一統
日本史(戦国)
(霧山昴)
著者 中野 等 、 出版 吉川弘文館
織田信長が本能寺の変で倒れたあと、天下人となった秀吉はその実力(軍事力)だけで全国を統一したのではなかったことがよく分かる本でした。
九州における戦闘を止めるように秀吉が促すとき、それは「叡慮(えいりょ)」、つまり天皇の意向だからとするのです。
秀吉は、くどいほど天皇の存在に言及する。関白となった羽柴秀吉は、天皇の権威に依拠しつつ、国内静謐(せいひつ)を実現しようとした。
秀吉は、九州において頑強に抵抗する薩摩の島津勢に対して自らが総大将となって九州にやってきて、ついに島津義久の降伏によって、「九州平定」を達した。ところが、これで「九州仕置き」が完了したのではなかった。肥後や日向そして肥前などで反乱や内紛が起きて、それを片付けるのにも苦労した。
そのうえ、秀吉は、その前から「唐(から)入り」を宣言していて、対馬藩を通じて朝鮮国王に服従を迫っていた。国内では、「伴天連追放令」を発し、また、「刀狩り」も発している。
この本では、「九州統一」ではなく「九州一統」となっています。「統一」というと、どこかの国に一つにまとめられたというイメージですが、強固な島津勢がいる一方で、それに反対する大友などの勢力もいるわけなので、「統一」というのはふさわしくないのでしょうね...。
秀吉による「九州平定」作戦が遂行されていくときに見落とせないのが、イエズス会の軍事力と、九州各地のキリシタン大名の動きです。イエズス会は、長崎港と茂木港を大村純忠(バルトロメオ)から寄進を受けました。そして、この二つの港を軍事要塞化していったのです。
この本によると、秀吉は石川数正の調略(引き込み)に成功したあと、家康討伐を決意したとのこと。たしかに、徳川家康にとって、長年の忠臣が突然、秀吉のほうに寝返りするなんて、とても信じられない思いだったと思います。自らの手の内が全部、「敵」に筒抜けになるという恐怖はきわめて大きかったことでしょう。
ところが、秀吉が家康討伐を決意した直後の天正14年11月29日夜、大地震が発生して、それどころではなくなって、信長と家康の激突は避けられたのです。
秀吉は文書を発行するとき、「判物」と「朱印状」とを使い分けている。判物は、大友義統や龍造寺政家そして、上杉景勝や徳川家康など...。そうでない人々は、朱印状ではなく、花押をすえた判物を発給している。私には、この使い分けの意味が理解できませんでした。
秀吉が島津勢を討伐するために九州に大軍を率いて実際にやってきたのを「九州御動座」と呼ぶのですね...。
秀吉は島津勢の領域としては、川内(せんだい)の泰平寺までで、それ以上は南下しませんでした。
秀吉の「伴天連」追放令は、伴天連による仏法・排撃を禁じたもので、無条件に退去せよというものではなかった。
秀吉から肥後をまかされた佐々成政は結局、切腹させられた。
島津勢といっても、決して一枚岩ではなく、秀吉に屈服しないとして抵抗を続けた勢力もいたのです。島津にとっても領国運営は大変だったのです。大変勉強になる本でした。
(2024年3月刊。2500円+税)
2024年7月 7日
大インダス世界への旅
アジア
(霧山昴)
著者 船尾 修 、 出版 彩流社
世界各地を自由気ままに旅行し、写真を撮ってまわっている著者の旅行体験記です。
カン・リンポチェは、日本人はカイラス山と呼び、チベット人仏教徒にとっては、一生に一度は巡礼したいと願う、聖なる山。
今では、チベット旅行は自由には出来なくなっている。寺院の周囲を時計まわりにぐるぐる歩いて巡礼することをコルラという。
チベットの飲むバター茶。バター茶は、バターとタンチャという茶葉を固めたものに熱湯を加えて撹拌(かくはん)した飲みもので、お茶というよりはスープ。初めはそんなにうまいとは思えず、飲み干すのに苦労する。ところが、慣れてくると、こんなにうまい飲みものはないと思うようになる。チベット人は、これを1日に何十杯も飲む。チベットは内陸の高原なため、空気がすごく乾燥している。だから、肌がすぐにガサガサになる。それで、バター茶を飲むことによって、皮膚を保湿する効果がある。そして、栄養価も高い。
チベット人は日本のことを「ニホン」と呼ぶ。「ジャパン」ではなく、「ニホン」と呼ぶのは、世界中、チベット人だけ。
チベット人の数字の読み方は、日本によく似ている。チィ、ニィ、スン、シ、ンゴ、ルック、ドゥン、ゲェ、ク、ヂュウ。いやあ、たしかにこれはよく似ていそうです。
五体投地の方法でカン・リンチュを一周するには3~4週間かかる。
うひゃひゃ、ですよね。とてもそんな気の遠くなるようなことは出来ません。
アルプスでの登山ポーターは割りのいい仕事だ。10日間から14日間ほどの行程で、1万ルピー(万6000円)ほどの収入になる。物価は日本に比べて大変安い。
(2022年11月刊。2700円+税)
2024年7月 8日
チャップリンとアヴァンギャルド
人間
(霧山昴)
著者 大野 裕之 、 出版 青土社
さすがチャップリン研究最高峰の著者だけあります。知識の広さと分析の深さについ、うなり声をあげてしまいました。とても面白く興味深い本です。チャップリンに関心のある人には欠かせない本だと思います。
チャップリンのもっている杖、あのよくしなる杖は日本の竹なんですね...。チャップリンの杖は、滋賀県の根竹。体を支えるためのものではなく、いろんなものの代用品となる。
チャップリンの傑作の一つ、「街の灯」は、戦前の日本で新作の歌舞伎として演じられ、またチャップリンの遺族の了解を得て、最近、再演されたそうです。「街の灯」を歌舞伎で演じるなんて、想像もできませんでした。
映画「街の灯」が日本で初上映されたのは1934(昭和9)年のこと。アメリカでは1931年1月30日に上映された。ところが、日本ではなんとなんと、映画より3年も早く1931年8月に歌舞伎座で上演されたというのです。ただし、タイトルは「蝙蝠(こうもり)の安さん」。
しかも、それより早く、1931年5月には東京の新歌舞伎座で辰巳柳太郎主演の「チャップリン」なる演劇が新国劇として上演されていたのでした。いやあ、すごいです。
映画「移民」に出てくる揺れる船のシーン。実は、カメラに振り子をつけて画面のほうを揺らして撮影したというのです。つまり、船の甲板は水平のままなので、滑ることはない。そこで、チャップリンは、片足で立ったまま小刻みに足を動かして移動して、揺れる甲板の上を滑っているように見せている。いやあ、まいりましたね、そんなことまでチャップリンは出来たし、したのですね。身体能力の高さの極致です。
チャップリンは1932年5月に日本に来ています。危く五・一五事件に巻き込まれそうになったのでした。このとき、チャップリンは歌舞伎座を訪れ、初代の中村吉右衛門とも話しています。チャップリンには日本人秘書(高野虎市)もいて、大の日本びいきでした。
チャップリンは日本では、インテリ層には芸術哲学者として、一般庶民にはドタバタ喜劇の人気スターコメディアンとして幅広い層から圧倒的な人気・支持を受けていたのです。なにしろ、チャップリンが東京駅に来ると分かって、日本人が4万人も押し寄せたというのです。東京駅の入場券がこの日だけで8千枚も売れたというのですから、恐ろしい。
そして、2019年12月、再び国立劇場で『蝙蝠の安さん』が88年ぶりに再演された。それをチャップリンの息子が鑑賞して絶賛したというのです。うれしいことですね。
チャップリンのトレードマークであるよちよち歩きは、両足のかかとをつけたまま、左右の爪先を外側に開いた状態で歩いていくもの。これはバレエの足の形で「1番」のポジションで動いているということ。しかも、歩くとき、上半身を決して左右に揺らさない。体幹をまっすぐに保ったまま歩く。これはバレエに通じるもの。というのも、チャップリンは俳優である前に、9歳のときから舞台に立ったダンサーだった。すごいですよね。
チャップリンの「独裁者」が世界中でヒットしてから、ヒトラーは、大勢の群衆の前での演説をやらなくなった。チャップリンに笑い物にされたことで、ヒトラーの最大の武器が奪われた。いやはや、言葉の力は、スクリーン上の表現とあわせて、かくも偉大なんですね。
チャップリンは反共の嵐の中、アメリカから追い立てられるようにして立ち去ります。その前にチャップリンが言ったコトバは、「私は共産主義者ではありません。平和の扇動者です」というものでした。チャップリンの究極の目的は世界中の人を笑わせること。
私は40年近く、毎年、市民向けの法律講座を開いていますが、初めのころはチャップリンの短編映画を毎回上映していました。ドタバタ喜劇ではありますが、単なるナンセンスものというのでもなく、少しホロリとさせたりして、一味ちがっています。
チャップリンの天才ぶりを改めて認識させられました。
(2024年1月刊。2400円+税)
2024年7月 9日
中国農村の現在
中国
(霧山昴)
著者 田原 文起 、 出版 中公新書
これは面白い本でした。中国については相当数の本も読み、何回か行ったこともありますので、それなりに分かったつもりでいましたが、実はまったく分かっていないことをこの本を読んで、よくよく自覚しました。
韓国の、かの有名な「爆弾酒」ほどではありませんが、中国の宴会には酔いつぶれるまで乾杯を繰り返す儀式があります。私はそんなことはしたくありませんので、そんなときは、全然飲めないことにして逃げます。実は少しは飲みたくても、ガマンするのです。
中国官界の宴会には、表向きの賑(にぎ)やかさの裏に、言外に秘められた意味がある。村幹部を含め、現代の「官場」に生きる人々は腹芸に長(た)けた役者であり、タヌキでもある。つまり派手な宴会にしておいて形式的に歓迎を表明しておくと、相手の本意を察した客人は気持ちよく引き上げてくれるだろうということ。だから、そんな腹芸を知らない、うぶな日本人は宴会の翌日、みんなが歓迎してくれていると思っていると、あわわ、まだここにいたの...という反応に出会うというのです。こんなこと、日本では考えられませんよね...。
農村地帯に住む人々は、大都市の住民と自分たちを比べることはしない。あくまで身近な村人とのあいだで比べて競争する。なので、4階建の家が村のあちこちに次々に建つ。1階は物置きにして、2階に住む。3階と4階は、子どもたちが戻ってきたら、そこに住まわせる。それまでは内装せず、コンクリート打ち放しのまま。
家は巨大であり、勇壮であり、豪華なものでなければいけない。周囲が4階建の家なのに、自分のところは3階建てというのは「面子(めんつ)を失う」ことになる。こうやって、村から大勢の人々が都会に出稼ぎに出ているところでは、次々に4階建の家が立ち並んでいく。
中国で分家になるのは、日本と違って、本家が優位に立つことはない。あくまで兄弟間の徹底的な平等の関係が前提であり、兄弟は親の財産を公平に分配する。
中国では古い古い昔から戦乱の時代が続いたため、非常に流動性の高い社会であった。ここが、日本社会と決定的に違います。日本には地縁的なムラ社会が古くからありましたが、戦乱に明け暮れた中国には、そんなものはありません。では何があるかというと、血縁。安全保障の最後のよりどころは血縁だったのです。すると、どうなるのかというと、血族の中の誰かが出世すると、その人は一族を援助する「道徳的義務」を負うのです。
もちろん、これは日本にもないわけではありません。でも、韓国や中国ほど一族(血縁関係)に尽くすということはないように思います(私個人もそうですし、私の周囲にも見当たりません)。
若い農村出身者にとって、大都市は憧れの対象ではあっても、自身との「引き比べ」の対象ではない。都市は働くだけの場所でしかない。
伝統的な中国の農村には「村八分」はなかった。血縁にもとづく実力関係のほうが大事であり、地縁的な共同体が存在しなかったので、「村八分」というのは村民の行動を制御する力にはなりえなかった。
自分に関係のない人間と付きあうのは面倒くさい。これが家族主義者である中国村民の心情を的確に代弁している。
中国の農村地帯に入り込んで聴き取りすることの難しさがひしひしと伝わってくる本でもありました。
(2024年2月刊。960円+税)
2024年7月10日
なぜ東大は男だらけなのか
社会
(霧山昴)
著者 矢口 祐人 、 出版 集英社新書
私が57年前に東大に入学したとき、私のクラス(50人)の女性は2人でした。ちなみに、司法修習生になったときも、女性はクラス2人しかいませんでした。
2年生のとき、東大闘争が始まり、クラス討論をするなかで2人の女性の志向が判明しました。1人は全共闘支持、もう1人は民青(共産党)支持でした。どちらも都内出身だったような気がします。民青支持の女性とは一緒に行動することも多くて会話もしましたが、全共闘支持の女性とは、ほとんど会話した覚えがありません。大学を卒業して30年ほどしてのクラス同窓会に全共闘支持だった女性は出席していました。東京都庁に就職して、それなりのポストを歴任したのだと思います(なかなかのやり手だったという印象が残っています)。
東大の女子学生の比率は2割。しかし、東大だけではなく、京都大学も同じ。国立大学の女性比率はどこも4割に達していない。学部でみると、女性の比率がもっとも高いのは教育学部で45%。文学部は28%で、法学部は23%。
昔も今も東大に入るのにはお金がかかる。天性の才能だけではなかなか合格できない。テストに向き合う技術、それに関連する情報へのアクセス、両親と教師の理解と支援、それらを支える資金が必要。東大入学の上位高校には中高一貫が多い。そこは年間100万円ほどの学費、このほか寄付金を求められる。
東大は女性の入学を1946年まで認めていなかった。NHK朝ドラの「寅子(ともこ)」が明治大学に入学できたのは昭和のはじめでしたね...。
そして、今、東大は学費を年10万円も値上げしようとしています。とんでもないことです。これは東大がけしからんという前に、国の文教政策が間違っていることによるものです。軍事予算のほうには何兆円も惜し気もなく、湯水のように使うのに、肝心な人間の育成には「お金がない」と称して出し惜しみするから、こうなるのです。
大学生の授業料は無料にし、むしろ生活費を支給(貸与ではなく)すべきなのです。
これは夢物語でもなんでもありません。ヨーロッパでは国の発展のために必要な投資としてやっていることです。いわゆる「人材育成」は自己負担とし、何の役にも立たない軍事予算には権限なくムダづかいする。こんな支出構造は変える必要があります。
それにしても、東大生の政党支持率のトップが自民党だと聞いて、耳を疑いました。なんで、あんなデタラメ放題の政権党を若い人たちが支持するのか、信じられません。
ともかく、東大に限らず、大学ではもっと自由に伸び伸びと研究できる環境を早急につくり上げないと、日本という国の将来は真っ暗ですよ。多様性の確保こそ発展の保障なのです。
(2024年2月刊。1089円)
2024年7月11日
キンダートランスポートの少女
ドイツ
(霧山昴)
著者 ヴェラ・ギッシング 、 出版 未来社
チェコ人の子どもたちが、ナチス・ドイツの侵攻直前に集団でイギリスに疎開して助かったという話の当事者が語った本です。
先日、天神の映画館(KBCではなく、キノ・シネマ)でみた映画「ワン・ライフ」のパンフレットで紹介されていたので、至急とり寄せて読みました。
チェコにいた1万5千人ものユダヤ人の子どもたちがヒトラーのユダヤ人絶滅政策によってホロコーストで殺害され、強制収容所から生還できたのは、わずか100人だけでした。
ところが、ロンドンで村の仲買人をしていた30歳のニコラス・ウィントン(愛称はニッキー。元ユダヤ人)が、チェコに入ってユダヤ人の子どもたちをイギリスに集団疎開させる事業に取り組んだのです。大変な事務手続がいります。輸送費用もかかります。子どもたちを引き受けてくれるイギリス人家庭も探さなくてはいけません。それをニッキーは仲間と一緒にやったのです。
ヒトラー・ナチスがチェコを併合する前の3ヶ月間にニッキーはやり遂げたのです。でも、最後の列車の便に乗っていた子どもたち250人は列車に乗り込んだものの、ついに引きずりおろされ、死に追いやられてしまいました。ニッキーは、自分たちの努力で助けた669人の子どもの存在を誇るというより、むしろ助けられなかった250人の子どもに申し訳なく、罪の意識を感じてしまい、戦後ずっと自分たちの行動とその成果を封印して生きていたのです。
それが、1988年2月にイギリスのテレビ番組で取り上げられ、ついに世の中にニッキーたちの取り組みが知れ渡りました。助かった669人の子どもたちが、先日の映画では子や孫たちが増えて6000人になったとされていました。「シンドラーのリスト」や日本人外交官「センポ・スギウラ」の話とまったく共通します。
私は、ガザに侵攻したイスラエル軍の蛮行は、まさしく「ユダヤ人虐殺」と同じようなもので、立場を変えて「虐殺」が進行していて、今も止まっていないことを思い、涙が止まりませんでした。
この本には、なぜチェコのユダヤ人の子どもを受け入れたのかと問われたイギリス人の答えが紹介されています。
「私は自分が世界を救うことができないことも、戦争を止めさせることができないことも分かっていたけれど、人を一人助けることはできると思ったんだ」
ニッキーはイギリスで棟の仲買人として安楽な生活をしていたのです。しかし、チェコに行って子供たちが危ないと思ったら、救助活動しなくてはいけないと思って行動を開始したのでした。もちろん、一人でやれることではありません。大勢の仲間と一緒にやったことです。
でも、肝心なことは誰かが口火を切って動き出す必要があるということです。
ウクライナもガザも戦火を止める必要があります。尖閣諸島が中国にとられないように日本が軍備を増強するのは仕方がない。そんなことを考えている問題ではないのです。むしろ、日本(政府)の行動こそ戦争を招いている。それを一刻も早く日本人みんなが自覚すべきだと、映画をみて、本を読んで痛切に思いました。
(2008年5月刊。2500円+税)
2024年7月12日
アイヌもやもや
人間
(霧山昴)
著者 北原モコットゥナシ ・ 田房 永子 、 出版 303Books
アイヌ民族と差別について、マンガをふくめて問題点が手際よく紹介されている本です。私自身も読んで大いに反省させられました。
沖縄の人から見ると、九州・四国・本州の人々は「やまとうんちゃ(やまとの人)」です。同じように、アイヌ民族からすると「シサム」と呼びます。初めて知りました。
日本は「単一民族国家」だとか「一民族一国家」という、アイヌ民族という少数民族の存在を無視した言い方をする人が少なくありません。これは、たしかに間違いだと私も思います。
ちなみに、「奄美・琉球民族」という表現は、私には正しいものとは思えませんが...。
在日コリアンを含めて、多数の外国人労働者が現に日本に存在していることも無視してはいけない現実です。私は福岡市内でフランス語を学んでいますが、そのフランス人講師は、フランスの歌手にもサッカー選手にも起源はフランス外の人が驚くほど多数いることを紹介していました。国際交流が進んで世界平和につながっていくことを私は願っています。ところが、今、ヨーロッパでは移民排斥を主張する極右勢力が支持を集めているという悲しい現実があります。
1899年に制定された北海道旧土人保護法は、名称からして「旧土人」といういかにも差別的な法律ですが、アイヌの農耕民化・和風化をすすめるため、アイヌに農地が用意された。しかし、和民族に対しては1人あたり10万坪なのに、アイヌに対しては1戸(1人ではなく)あたり1万5千坪だけ。ケタ違いでした。
1980年代、札幌市の高校で、社会科の教師が、「誤ってアイヌと結婚しないように」と言って、授業でアイヌの「見分け方」を解説した。信じられません。これって偏向教育そのものですよね...。
マイクロインバリデーションとは、相手の感情、経験を排除・否定・無化すること。
「北海道には歴史がない」とか、「開拓」「フロンティア」を礼賛するというのは、アイヌの歴史・被害の否定なのだ。そのとおりですよね。
そもそも平安時代の書物(新撰姓氏録)を見ると、当時の貴族の10人に3人は渡来人だったし、平安京を開いた桓武天皇の実母は、百済(くだら。朝鮮半島にあった古代国家の一つ)の人だった。これは歴史的事実です。
アイヌ人なんていないというのは、見ようとしないから見えないというだけ。なるほど、そのとおりです...。
(2024年6月刊。1760円)
2024年7月13日
忘れられた日本史の現場を歩く
日本史(平安)
(霧山昴)
著者 八木澤 高明 、 出版 辰巳出版
岩手県奥州市の山中に人首丸の墓碑がある。
平安時代に、京都から坂上田村麻呂が大軍を率いて、東北地方を征服しようとやってきた。激しく抵抗していたのは蝦夷(えみし)と呼ばれる人々で、その首領はアテルイそして腹心のモレ。アテルイは地の利を生かして789(延暦8)年に始まった一回目の戦いでは大勝したが、794年に始まった二回戦では、ついに大敗し(801年)、アテルイとモレは投降した。坂上田村麻呂は二人を京都に連れて行き、助命を嘆願したが、アテルイたちの力を恐れる朝廷は、斬首を命じた。大阪の枚方市にある牧野公園にはアテルイとモレの首場が今も残っている。
アテルイたちのあとに朝廷に立ち向かったのが人首丸。
しかし、人首丸も806(大同元)年に朝廷軍によって打ち取られた。年齢は15歳か16歳。はるか遠くに北上川が流れる北上盆地が見渡せる山中に人首丸の墓石がある。
私がアテルイなる人物を初めて知ったのは、高橋克彦の「火怨(かえん)」(上下。講談社)でした。アテルイの「遊撃戦」が生き生きと描かれていて驚きました。その後も、熊谷達也の「まほろばの疾風」(集英社)、樋口知志の「阿弖流為(あてるい)」(ミネルヴァ書房)、久慈力の「蝦夷・アテルイの戦い」(批評社)と続けて読みました。いずれも蝦夷を未開の野蛮人とはみていません。すごい人たちがいたものだと驚嘆しました。
長崎県の上五島の中通島には潜伏キリシタンが建てた教会がある。もちろん、江戸時代に建てられたのではなく、明治になって禁教が解かれてからのこと。
上五島は、私が弁護士になった年(1974年)4月、日教組への刑事弾圧が全国的にあり、まだバッジも届いていなかったので、先輩からバッジを借りて出かけたという、思い出深いところです。
著者は、日本史に登場してくるけれど、忘れ去られたような場所を訪ねて歩いたのでした。
(2024年6月刊。1760円)
2024年7月14日
彰義隊、敗れて末のたいこもち
日本史(明治)
(霧山昴)
著者 目時 美穂 、 出版 文学通信
明治に松廼家(まつのや)露八(ろはち)という有名な幇間(ほうかん。たいこもち)がいました。その数奇な人生を明らかにした本です。
松廼家は本名を土肥(どひ)庄次郎頼富といい、一橋家の家臣だった。家格もお目見(めみえ)以上という、れっきとした武士。ところが、若いころに放蕩(ほうとう)がたたって、廃嫡(はいちゃく)された。それで幇間になって暮らしていたが、36歳のとき徳川政府が瓦解したあと、彰義隊に加わって官軍(新政府軍)と戦った。彰義隊が敗走したとき、なんとか生きのびて再び幇間に戻った。
吉川英治が小説として「松のや露八」を書いた。また、芝居にもなった。
幇間は、たいこもち、たぬき、男芸者と呼ばれる。遊廓(ゆうかく)に来た客をすこぶる楽しく遊ばせるのを仕事とする。一見すると気楽そうだが、知れば知るほど大変な商売。
客は遠慮も容赦もない。ただの道楽者につとまるような生半可なものではない。
吉原に客としてやって来る男たちは、吉原の女たちが貧困のため、家族がした借金のため客をとらされている悲惨な境遇であることを知っている。知ってはいるけれど、それを真剣に考え、心底から女たちを哀れと思ってほったら、もはや吉原を美しい夢の国として享受することが出来なくなる。そこで、夢を維持するため、夢の国の女たちは、世間の貧しさも苦労も知らない、およそ巷(ちまた)の労苦からかけ離れた存在としていた。そして、遊女たちに同情するより、世間知らずを笑いものにする。
彰義隊に対して、江戸の庶民は江戸っ子の思いを背負って死に花を咲かせようとしている武士たちだと受けとめて、熱烈に肩入れした。それで、彰義隊が無惨に敗走したあとも、江戸の町民はひそかに彰義隊の志士たちを大切に扱っていたようです。
彰義隊は戦闘が始まってから4時間ほど、午前10時ころまでは優勢だった。しかし、政府軍が新式のアームストロング砲を活用するようになってからは敗色が濃くなり、午後2時に彰義隊の敗走が始まった。
松廼家はなんとか生きのびて、明治4年ころから再び幇間を始めた。
吉原につとめる女性は30歳を過ぎて遊女のままという人はまずいなかった。年季の明けた元遊女が、幇間や芸人など、廓内で働く男と結ばれるのはよくあることだった。
幇間芸は、お座敷で、客の気分に従って即興で演じられるもの。あらかじめ小道具を準備しておくようなことはしない。その場にあるもの、手拭いと扇子、せいせいお膳に並べられた皿や徳利を使って、当意即妙の芸をしなければならなかった。
露八は相当の苦労もして愛想もふりまいて復帰した吉原に受け入れてもらった。そして、なかなか受け入れてはもらえなかった老幇間の露八は、ついには、名物幇間として明治の世に通用した。明治36(1903)年11月、露八は71歳で死亡した。まさしく数奇な人生ですね...。
(2024年2月刊。2500円+税)
2024年7月15日
大邱の敵産家屋
韓国
(霧山昴)
著者 松井 理恵 、 出版 共和国
詩人の森崎和江が生まれたことでも知られる韓国第3の拠点都市・大邱(テグ)の歴史を追いかけた本です。
森崎和江は、1927年、日本による植民地支配下の朝鮮慶尚北道大邱府三笠町に生まれた。日本人町だった三笠町は、今では三徳洞と地名を変えている。
朝鮮戦争が始まったあと、人民軍(北朝鮮軍)に大邱は占領されなかったので、全国から多くの避難民が集まってきた。
植民地時代に都市計画にもとづいて開発された日本人の居住地は、交通機関や公共施設から近くて利便性が高く、古くからある市街地に比べて安全かつ衛生的だったので、高級住宅街とされていた。
日本の宅地開発では、道路に沿って住宅が建てられ、その玄関も道路との関係によって位置が決まる。これに対して、伝統的な韓国の住宅は南からの出入りをもっとも重視する。
日本敗戦後、日本式家屋は「敵産家屋」と呼ばれた。
大邱は今日では保守的な都市というイメージが非常に強い。しかし、軍事クーデターによって朴正煕(パクチョンヒ)が政権を握るまでの大邱は「朝鮮のモスクワ」と呼ばれるほど革新勢力が強い都市だった。ところが、大邱出身の朴正煕は、自らの地盤を固めるため、この地域の左派勢力を残忍かつ執拗に弾圧して、反共と地域縁故主義の二本柱とする保守的な都市につくり変えた。
日本敗戦前の大邱には最大3万人の日本人が居住していて、人口割合としても3割ほどを占めた。そして日本敗戦後、大邱には、町工場の並ぶ工業都市となった。
そして、今やタワーマンション(49階建)6棟、800世帯が生活する地域となっている。すっかり変わってしまったようですね。町工場時代の助けあいの状況が詳しく紹介されているところに大変興味をもちました。東京の太田区の町工場街も同じようなものだったと聞いたことがあります。今はどうなのでしょうか...。
(2024年3月刊。2700円+税)
2024年7月16日
生き物の「居場所」はどう決まるか
生物
(霧山昴)
著者 大崎 直太 、 出版 中公新書
ニッチ(居場所)をめぐる新書です。ニッチとは、天敵からの被害を最小限に抑えることのできる「天敵不在空間」。
モンシロチョウ属の最大の天敵は、アオムシサムライコマユバチという寄生バチ。モンシロチョウ属の幼虫の体内に産卵し、孵化(ふか)したハチの幼虫はチョウの幼虫の体内で寄生生活を送る。ハチの幼虫が十分に育つと、チョウの幼虫の体内から脱出して蛹(さなぎ)になり、残されたチョウの幼虫は死んでしまう。
この天敵から逃れるため、3種のチョウは異なる天敵回避法を獲得している。モンシロチョウは新たに栽培されるキャベツを求めて移動し、コマユバチのいない世界に「逃げる」。ヤマトスジグロシロチョウは、ハタザオ属という他の植物の下草として覆われるように生える植物を利用してコマユバチから「隠れる」生活をしている。スジグロシロチョウは幼虫の体内でコマユバチの卵を殺してしまうという「攻める」生活をしている。
モンシロチョウ属のチョウは、カラシ油配糖体を含む、一度も経験したことのない新奇な植物に出会うと常に産卵する。そして、チョウは産卵できる植物の葉の形を学習して記憶し、離れた場所から視覚的に産卵植物を探し出す。
北海道の北半分にはエゾスジグロシロチョウ(エゾ)が棲んでいて、本州にはヤマト(ヤマト)スジグロシロチョウが棲んでいる。
学者ってすごいね、偉いなと思うのは、このエゾとヤマトのとてもよく似た卵と幼虫を見ただけで識別するのです。もちろん、それには年月がかかります。
ヤマトの幼虫の体色は緑色っぽくて、エゾの幼虫のそれは青っぽい。この体色の違いを識別できるようになるまで、2年間を要した。すごいことですよね、2年間もじっと見つめて観察していたのですから...。
さらに、蛹の重さはキレハ(黄色い花の帰化植物)で育てると平均184mg、コンロンで育てると132mgだった。つまり、キレハで育てたときのほうが重く大きな蛹になった。
すごいですね、体色で見分けるだけでなく、体重が184mgなのか、132mgなのか、計測までするということです。これって「ミリグラム」の世界ですからね、本当に根気のいる、大変な仕事だと思います。しかも、実験や観察で得られたデータを数式をつくって予測し、分析するのです。私のような凡人にはとてもまね出来ません。
前半は、私としては少し難しすぎでしたが、後半に具体的なチョウの知られざる生活のところは大変興味深く読み通しました。
私は、アサギマダラ(チョウ)が来てくれることを願って、フジバカマを大切に育てています。今では、フジバカマは20株ほど植えてアサギマダラを待ちかまえているのですが、まだまだ、やってきてくれません。それこそ、今年の秋には、ぜひ来てほしいと願っているのですが...。
(2024年1月刊。1050円+税)
2024年7月17日
日ソ戦争
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 麻田 雅文 、 出版 中公新書
ソ連が日本敗戦の直前に突如として満州に侵攻してきたことを卑怯だという日本人が今なお少なくありません。でも、それはアメリカが願っていたことであり、アメリカはソ連の日本侵攻のために莫大な物資(トラックや兵器、ガソリンなど)を無償で提供していたのです。ソ連のスターリンは何度もアメリカの軍需援助を求め、アメリカはそれに応じていました。なぜか...。アメリカ兵の死傷者を少しでも減らしたかったからです。アメリカ軍は日本本土に侵攻したら、100万人のアメリカ兵が死傷すると予測していました。実際には、「捨て石」にされた沖縄の犠牲の下、本土決戦はなかったので、「100万人」どころか本土では死者が「ゼロ」だったわけです。(「ゼロ」というのは、本土決戦によるものとしては、というだけです)。
この本を読んで驚いたのは、スターリンは、日本が無条件降伏しても、すぐにドイツのように軍事強国として日本はよみがえるだろうと予測していたというところです。一般のソ連国民にとって、ナチス・ドイツからは大勢の近親者を殺されたことから発奮したが、4年も中立を守った日本が相手では切迫感がなく、日ソ戦争はソ連国民が奮り立つ戦争ではなかった。ソ連国民は厭戦(えんせん)気分にあった。そこで、スターリンはソ連国民の士気を鼓舞するため日露戦争で敗れた復讐に見せるよう演出した。
スターリンは日本の復讐を恐れて4つの手を打った。第1は、日本の民主化の推進、第2は対日同盟網の構築、第3に南樺太(カラフト)と千島列島の併合、第4に元日本兵のシベリア抑留。
スターリンは北海道を占領しようとしたのをアメリカに阻止されたことからシベリア抑留を始めたという説がありますが、それはないと私は考えています。ソ連は独ソ戦で2700万人もの国民を失って、労働力が不足していたのです。荒れ果てた国土の復興にドイツ兵捕虜を使いはじめ、それに味をしめて日本兵も使いはじめたというのが、もっともありうるところだと私は思います。
ただ、そのとき、ポーランドの将校3万人をスターリンのソ連軍が虐殺した「カチンの森事件」のように、元日本兵の将校たちも抹殺される危険があったのです。スターリンがその気にならなかったのは幸いでした。まあ、それほど、復興のニーズが差し迫っていたのでしょう。
スターリンは満州にあった工場の機械やあらゆる機材をソ連領に運び去りました。そして、この本では、武器は中国共産党に渡したとされていますが、実はスターリンは中国共産党を信用しておらず、むしろ蔣介石の国民党を信頼して、武器もこちらに渡そうとしていたのです。ところが、腐敗した国民党軍がやる気もなくモタモタしているうちに、ハツラツとした中国共産党軍(「八路」、パーロ)が先に「満州」を占領してしまったことから、日本軍の武器の大半は八路軍(パーロ)に渡ったということです。
大変興味深い内容で一杯の新書でした。
(2024年5月刊。980円+税)
2024年7月18日
三井大坂両替店
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 萬代 悠 、 出版 中公新書
私の住む街は明治時代から三井の「城下町」として歩んできました。まさしく三井が君臨していたのです。反対派は三井が飼い慣らしていた暴力団に脅されることもありました。
三井系企業が集まる会合によって市政の方向が決まり、市議会にも三井を代表する人物が送り込まれていました。
この本は三井銀行の前身、三井大坂(江戸時代は大阪とは言いません)両替店(「りょうがえだな」と読みます)の内情を当時の資料をもとに詳しく明らかにしています。
この三井大坂両替店の当初の業務は江戸幕府に委託された送金だったが、その役得を活かし民間相手の金貸しとして成長する。
大坂町奉行所が受理した訴訟(民事訴訟)は、18世紀前半に1万件だったが、18世紀末に2万件に達した。刑事事件で奉行所から入牢を命じられた者は18世紀末には年間400~500人いた。
三井は呉服業と両替業を主力事業とし、1730年代前半には、京都・江戸・大坂における呉服店の奉公人は合計473人、両替店には51人いた。
鴻池屋と加島屋は大名相手に金貸し業をしていて、民間を相手にしなかった。これに対して、三井大坂両替店は家法で大名への直接融資が原則として禁止されていたこともあり、民間を相手とし、小口取引もおこなっていた。商人の運転賃金需要に対応するもので、業態としては商業金融。
三井は預かった幕府公金を融資に回して莫大な利益を得た。これは送金業務の完遂を条件として黙認されたもので、幕府公金を期日までに江戸に送金することが最優先だった。
大坂から江戸へは為替(かわせ)手形で送金した。現金を輸送することはなかった。18世紀中頃にこの方法が広く普及した。現金輸送は盗難の危険をともなったからである。
為替手形の売買には、為替本替を間にはさんだ。ここが大坂商人の信用調査をした。
万一、不渡りとなったとき、大坂町奉行所は一般的な給付訴訟よりも20日も早く、発行者(売却者)に返済命令を下した。今日と同じように手形訴訟の特例があったというわけです。
集団生活に不適格な奉公人には退職を促し、長く勤務した適格者には高給で報いる昇給制度を三井はとっていた。つまり、奉公人を定着させたいが、不適格な奉公人は淘汰し、重役になるような勤勉な奉公人は残したいというのが、三井の人材育成方針だった。
三井大坂両替店には顧客の信用度を調査する「聴合(ききあわせ)」業務があった。
これを原則として20代の若手の手代だった。その結果の信用調査書を「聴合(ききあわせ)帳」という。若手の手代が役づき手代に顧客の信用情報を報告する形態がとられていた。
耐火性の高い土蔵は大きな価値があるとみられており、土蔵の有無と、その状態に気を配っている。顧客の人柄については、「実体(じってい)」が重視された。真面目で正直なこと、つまり誠実な人柄であることがもっとも望ましい。素行が悪いと判定されたりして借入を断られた顧客は、他の金利の高い金貸し業者に借入を希望し、そこでもダメなときには、場末の高利貸ししか借りるところはなかった。
ただし、そもそも信用調査の対象外とされた人々もいた。三井の関連の人々や豪商や豪農たちだ。
しかし、経営を拡大するためには、「見ず知らず」の顧客とも契約する必要があり、そのときには信用調査は欠かせない。
三井銀行が日本最初の私立銀行として開業したのは明治9(1876)年のこと。
すごいことですよね、町人の信用調査の結果を書いた書面が残っているというのは...。
(2024年3月刊。1100円)
先日受験したフランス語検定試験(1級)の結果を知らせるハガキが届きました。もちろん不合格でしたが、問題は点数です。64点でした。150点満点ですから、4割になります。
「目指せ4割」と言っていましたので、それは突破しましたが、実は自己採点は74点だったのです。なんという「自己甘」でしょうか、トホホ...です。これは作文とか日本文で答えるところの主観と客観の違いです。
まあ、それでもボケ防止のつもりで、引き続きがんばります。
2024年7月19日
エチオピアの季節
アフリカ
(霧山昴)
著者 ヴァンサン・ドゥフェ 、 カリム・ルブール 、 出版 花伝社
マンガ(レオ・トリニダード絵)によってエチオピアの現実、その光と影がよく分かります。
国境なき記者団による報道の自由度において、エチオピアは180ヶ国のうち最下位の143位。日本もNHKの現状など、ひどいものだと思いますが...。
中国はアフリカに大変な勢いで進出していて、エチオピアも例外ではない。中国はアフリカから原材料を運び出し、逆に中国製品を大量にアフリカに運び込んでいる。中国人はエチオピアの首都アジスアベバの街中に高速道路をつくった。
エチオピアは、ものすごいスピードで変わっている。
エチオピアのメリットは、トラブルの多い地域のなかで、唯一安定していること。隣国のエリトリアはエチオピアと潜在的戦争状態にあり、アフリカ版「北朝鮮」とされている。
エチオピア政権は、批判の封じ込めを経済発展にかけている。
エチオピアの出稼ぎ労働者の大半は、中東かアフリカの他の国へ行く。そして若者はヨーロッパを目ざす。エチオピアのたくさんの人々が出国したがっているが、他方、アフリカの角から多くの難民を受け入れている。
エチオピアは海に面していないので、たいていの輸入品は、ジブチから800キロ、トラックで運ばれてくる。
2019年のノーベル平和賞はエチオピアのアビィ・アハメドが受賞した。エリトリアとの和平を実現したことによる。ところが、まもなくアビィ・アハメドは変身し、強硬策に転じた。2020年11月のこと。
中国はエチオピアの借金の半分を握っている。中国はエチオピアを「伝存関係」に引きずり込んだとみられている。 「債務のわな」だ。それでも、中国経済の低迷もあって、中国のアフリカ全体への融資額は2016年にピークの285億ドルで、2022年には3割ほどの9億9千万ドルに激減した。
2016年にエチオピアには13万人の中国人がいた。日本人はわずか200人。
2000年から2010年までの10年間で100万人の中国人がアフリカに移住した。
エチオピアの様子を初めて少し詳しく知りました。
(2024年3月刊。1800円+税)
今年、わが家の庭はブルーベリーが大豊作です。梅の実はさっぱり採れませんでしたが、ブルーベリーは次から次に実が黒く色づきます。かの岩泉ヨーグルトにたっぷり入れて、美味しく味わっています。
人間ドッグに入ったら、医師から「やせなさい」と3回も言われてしまいました。糖質制限しろというのです。野菜中心の食生活をしているつもりなのですが、もっと野菜を食べなくてはいけないようです。
2024年7月20日
イーグル・クロー作戦
アメリカ
(霧山昴)
著者 ジャスティン・ウィリアムソン 、 出版 鳥影社
1979年11月、イスラム革命の真っ只中にいたイラン国民は、その怒りの矛先をテヘランのアメリカ大使館に向けた。
アメリカは、それまで何十年もイランとは友好的な関係にあった。しかし、イスラム革命によって、パーレビ国王を追放したイラン革命は、ホメイニー師が帰国してクライマックスを迎えた。イランを脱出したパーレビ国王は、病気治療名目でアメリカに入国することができた。そのことでイラン国民のアメリカへの怒りは頂点に達した。
1979年11月4日、アメリカ大使館がイラン人に古拠され、66人のアメリカ人が人質となった。アメリカは直ちに人質救出作戦を立案した。そして、アメリカの砂漠で救出訓練を開始した。1980年4月24日、アメリカ軍の救出部隊がイーグル・クロー作戦を開始した。
しかし、ヘリコプターの1機が機械的不具合で不時着し、作戦から離脱。ハブーブ(砂嵐)のため、ヘリコプターの操縦士たちは空間識失調となった。そして、アメリカのヘリコプター同士が接触して炎上した。アメリカ軍将兵が現場から離脱するに際して、ヘリコプターを破壊する余裕はなかったので、すべての情報が置き去りにされた。ジミー・カーター大統領は4月25日の朝、国民に対して救出作戦の失敗を報告した。
その結果、カーター大統領の支持率は60%から30%未満へと急落した。
この救出作戦には沖縄を拠点とする第1特殊作戦飛行隊も参加していた。そのことを知って沖縄と日本でアメリカ軍基地への反対運動が強まった。
アメリカ人の人質は1979年11月17日にまず13人が、そして1981年1月20日に残る52人が解放された。444日間も拘束されていた。
失敗した救出作戦のとき、8人のアメリカ兵が死亡した。
この作戦が失敗した要因の一つは、情報の漏洩を警戒しすぎたこと、敵を欺騙することを優先させたことから、ヘリコプターの安全確認が十分できず、友好国の特殊部隊からの支援を受けられず、結果として、全部隊をまとまりのある組織につくり上げることができなかったことにある。
アメリカは、ベトナム戦争のときにもハノイにある捕虜収容所からの救出作戦にも失敗しています。それほど、救出作戦って、難しいのですね...。
(2024年2月刊。2200円)
2024年7月21日
東大寺大仏になった銅、長登銅山跡
日本史(奈良)
(霧山昴)
著者 池田義文 、 出版 新泉社
1988年2月、奈良の東大寺の発掘調査の結果、大仏をつくった銅に、山口県美祢市にある長登(ながのぼり)銅山産の銅がわれていることが判明し、大きなニュースとなった。
東大寺大仏をつくるのに使われた銅は500トン近い(496トン)。その銅は長登銅山の産だけではないだろう。
しかし、大仏の近くの奈良時代の地層から発掘された銅のカタマリは、長登銅山、跡から出土したカラミ(製錬時に出るカス、鉱滓、金クソ)と比較し、砒素(ひそ)の含有率が高く、銀を多く含み、鉛同位対比の値が近いことから、同じ産地だと特定された。
この長登銅山には、古くから「奈良の大仏の銅を産出した」という伝説があった。しかし、他に確証はなく、単なる伝説とされてきた。長登銅山の古代の採鉱跡には露天堀跡がある。
鍾乳洞の空間を利用した坑道では、照明のため、煙の少ないヒノキ材を束にして松明(たいまつ)としていた。
銅鉱石は炉に入れて木炭とともに燃焼させて溶かし、金属としての銅を取り出した。
製錬の過程で、大量の木炭を消費する。一般には「白炭」と「黒炭」があった。白炭は焼成途中で、木炭をかき出し、砂などをかけて消した硬い生焼けの炭。炭素の残存量がなく、持続力に優れている。黒炭のほうは、古代には「和炭」(ニコズミ)と呼ばれ、軟質で着火力に優れていた。
長登銅山跡から831点の木簡が出土している。この出土した木簡から88人もの逃亡者がいたことが判明した。
銅製練の現場には匠丁(しょうてい。工人、技術者)を中心として、役夫や仕丁、雑徭(ぞうよう)などの力仕事に動員された人々がグループで作業していた。銅を都まで運んだのは、駄馬10頭で、103キロの銅。
山口県にある銅山の話です。やはり、こうやって、判明したことを活字にすると、みんながもう一歩深く認識できます。
(2024年2月刊。1700円+税)
2024年7月22日
宇宙と物質の起源
宇宙
(霧山昴)
著者 素粒子原子核研究所 、 出版 講談社 ブルーバックス新書
もう、いつのことだったか忘れてしまいましたが、恐らく長野県の山中にあるホテルに泊まったときのことです。大きな天体望遠鏡がありましたので、夜の空を眺めることができました。天の河というのが、本当に無数の星々で構成されていることを実感しました。また、土星でしたか木星でしたか、その周囲を廻っている小さな衛星を見ることも出来ました。
どうして夜は空が暗いのか、無数に星があるのなら、空は一面の星で覆われていて、暗いどころか、明るく輝いているのではないのか...。そんな疑問をタイトルにした本(『夜空の星はなぜ見える』田中一)を読んで、びっくり驚天しました。もうずいぶん前のことです。まさしく夜空にまつわるパラドックスです。
宇宙に始まりがあるのか、宇宙に果てはあるのか、今なお私のぜひ知りたいことです。宇宙にビックバンがあったとしたら、その前は何があったのか、無から有が生じたというのか、果てがあるとして、その外には何があるのか...、疑問は果てしがありません。
宇宙の年齢は138億歳だということになっています。
天の川銀河の大きさは10万光年。このなかに太陽を含む1兆個の恒星がいます。天の川銀河を含めて50個から100個集まった銀河団は1000万光年の大きさ。
この銀河団を含んだ超銀河団は「ラニアケア超銀河団」と呼ばれ、その直径は5億2千万光年。宇宙原理というのは、地球も太陽系も、銀河、銀河団そして超銀河団も、すべてが特別な場所ではなく、宇宙にありふれている場所であるというもの。
そうでしたら、私たちの地球と同じように生命体、それも会話する、通信する生命体がどこかにいても不思議ではありませんよね...。
宇宙の地平線問題とは...。宇宙の年齢は138億歳。宇宙の端と反対側の端から138億年かけて飛んできた光の温度は絶対温度3度の電波がやってきている。ええっ、そ、そんなことがどうやって分かるのかしらん...。
私は宇宙と星の話が大好きです。ちまちました人間同士の争いに関わって日々の生活を営んでいる身ではありますが、たまにはでっかいスケールの話をして、ちまちましたトラブルをいっとき忘れ去りたいのです。そんな思いにもってこいの、新書でした。もっとも、この新書に書かれていることの大半は理解できませんでしたが...。
(2024年3月刊。1200円+税)
2024年7月23日
ルポ・低賃金
社会
(霧山昴)
著者 東海林 智 、 出版 地平社
私が弁護士になったころは、偽装請負は職安法違反で告発することができましたし、私も労基署に告発してやめさせたことがありました。でも、今はできません。派遣制度が合法化されたからです。
私の周囲にも「ハケン」で働く人はゴロゴロいます。職場では「ハケンさん」と呼ばれ、名前では呼ばれない、職場の懇親会には参加できない。まさしく「モノ」と同じように使い捨ての存在でしかありません。その結果、どうなったか...。日本の企業の「モノづくり」の力は年々、衰えるばかりです。今では経営トップの報酬は1億円をこえるのも珍しいことではなくなりました。トヨタの会長は16億円、株の配当を加えると34億円の年収だそうです。日本もアメリカ並みの超格差社会になっています。一方、多くの労働者の賃金は正規も非正規も上がらないどころか、相対的には下がっています。
昔は、企業(会社)にも労働組合にも社会人として人を育てるという意識があったけれど、今はない。
百貨店のストライキが久しぶりにあって、ビックニュースになりました。そごう・西武労組は2023年8月に24時間ストライキを敢行しました。私を含め、大勢の人々がこのストライキに賛同し、支援しました。冷たかったのは、連合の芳野友子会長です。現場に足を運ぶこともせず、共闘をアピールすることもなく、見殺してしまいました。
ストライキは「迷惑」なものという「神話」にとらわれているのは、大企業の労働組合と連合幹部(芳野会長)くらいのもの。本当に残念ながら、そのとおりです。
2008年の年末から2009年の年始にかけて東京の日比谷公園で年越派遣材が開設されたのは当時のビッグニュースでした。このとき、当時の連合会長だった高木剛は恐る恐るながら現場に行って状況を確認したとのこと。それなりの見識があったことを私は評価します。
今の芳野・連合会長は自民党との連携に熱心、そして共産党を非難するばかりで、何ひとつ労働者を守るための労働組合らしい行動をしません。いったい恥ずかしさというのがあるのか、この人物が会長として君臨するのが労働組合の連合体だというのに、不思議でなりません。
「子ども食堂」や「大人食堂」などのフードバンクに対する食料の寄付量は、アメリカは739万トン、フランス12万トンに対して、日本は2850トン、アメリカの0.4%だけ。しかも、アメリカやフランスのフードバンクが集める食料の3割は政府が提供したもの。日本政府は何もしない。恐るべき「貧困」なのです。
2008~2009年の年越し派遣材のとき505人がやってきたが、そのうち女性はわずか5人のみ(1%)。コロナ禍の1年目(2020年末)は3日間に344人が来て、そのうち女性は62人(18%)、2021年末には418人のうち89人が女性(21%)。今や、女性がどこでも2割を占めている。
労働者の平均年間賃金は、1991年を100として、2019年に、アメリカ141、イギリス148、ドイツとフランスは134に対して、日本105でしかない。つまり、30年たっても賃金はほとんど上がっていない。この間の物価上昇を考えたら、実質賃金は下がっているということ。
ところが、超大企業の現預金は48.8兆円から90.4兆円へ85%増加し、経常利益は91%増の37兆円に、また株主配当のほうは483%増の20.2兆円となっている。これに対して、人件費は、0.4%のマイナス。うひゃあ、恐ろしい現実です。いったい芳野・連合は何をしているのでしょうか...。
経営者も御用組合(連合幹部)も、「人を大事にしなくなった」のですね。日本企業が目先の利益のみを追い求めるようになって、世界的な競争力をうしなってしまったのです。本当に残念です。今、多くの人に広く読まれるべき本です。ぜひ、あなたも読んでみてください。
(2024年6月刊。1800円+税)
2024年7月24日
白い拷問
中東
(霧山昴)
著者 ナルゲス・モハンマディ 、 出版 講談社
自由のために闘うイラン女性の記録です。すさまじい弾圧の叙述に読んで圧倒されます。
著者は2023年のノーベル平和賞を受賞しています。それだけ国際的な意義があるということです。
巻頭言によると、著者は2021年11月に12回目の逮捕を経験し、人生で4回目の独房拘禁を言い渡された。今回の逮捕は、この本、『白い拷問』が原因で、この本はイランを世界中の前で汚したからだという。
著者は、8年2カ月の禁固刑と74回の鞭(むち)打ち刑を科された。あとで禁固刑のほうは6年に短縮されたが、これまでの刑と全部あわせると30年もの禁固刑になる。うひゃあ、恐ろしいことです。
著者は1972年4月の生まれですから現在52歳。イランの大学では物理学を専攻し、卒業後は検査技師としても働いていますが、一貫して人権擁護の活動を展開していきました。ノーベル平和賞の受賞は獄中にいたので、代わりに10代になった双子の子どもたちが代理で出席した。
著者は28年ものあいだ、イラン国内の11のNGO団体の創設者ないしメンバーとして活動してきたそうです。
イランのイスラム体制は、法律や強硬手段を用いて、女性や民族的・宗教的マイノリティの移動の自由や、教育を受ける権利、就業の権利を制限する社会をつくり出した。政治結社をつくったり、国に反論したり、声を上げようとすれば鞭打ち刑になり、拘禁され、処刑される。
白い拷問は長い時間をかけて、囚人のすべての外部刺激を奪い去る。その手法は独房監禁と尋問で、主に思想犯や政治犯に対して使われる。
囚人は裁判なしで拘禁されているので、上訴できる裁判所はない。裁判を経ない拘禁は、イランでは拷問と抑圧の武器として使われてきた。
囚人は独房の照明を操作されて昼夜の感覚を失い、睡眠パターンを妨げられる。
白い拷問は根本的に身体のあり方を狂わせ、健康をむしばむ。心の傷だけではなく、神経疾患、心臓発作までも引き起こす。
独房拘禁が長引くと、身体的、精神的ダメージは深刻。孤立は人の感覚を鈍らせ、心のバランスを狂わせる。先の見通しを立てることができなくなる。思考回路が支離滅裂で、途切れがちになる。
刑務所の生活は人間としてのすべての自然な欲求を全否定されることから始まる。
人間の基礎は、社会生活。この大前提の上に成り立っている。それが独房で、すべて奪われる。なにしろ独房では、話すことも音を聞くこともない。
イランの女性刑務所のなかに今も入っている人権活動家の手記、これまで同じように刑務所での生活を余儀なくされた人々の手記からなる告発の本です。思わず目をそむけたくなる内容ですが、真実から目はそらしてはいけないと思って、読み通しました。
(2024年4月刊。2200円+税)
2024年7月25日
死の工場
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 シェルダン・H・ハリス 、 出版 柏書房
戦前の日本軍の犯した悪悪・最凶の戦争犯罪の一つが、七三一部隊による人体実験そして大量虐殺だと私は思います。
死刑囚を人体実験して殺したというのではありません(もちろん、それも許されないことです)。日本軍に反抗した、あるいは反抗しそうな人を、勝手に、何の法的手続をとることもなく、七三一部隊に送って、「マルタ(丸太)」と称して、あたかも人格をもたない物体かのように扱って、殺りくしていったのです。こんな極悪非道なことが許されるはずはありません。ところが、その凶悪犯罪をした医学者たちはまったく刑事訴追されることなく、それどころか戦後の日本の医学界そして製薬業界に君臨していたというのです。
そして、この凶悪犯罪は、当時の軍部当局だけでなく、皇族も知悉していました。皇族たちは七三一部隊の施設の現地を何度も訪問し、部隊長の石井四郎の講演をありがたく拝聴しています。だから、七三一部隊の犯した戦争犯罪が天皇の責任に直結しないはずがなかったのです。
それを止めたのが、なんとアメリカ軍トップでした。アメリカ軍は七三一部隊にいた石井四郎はじめとする幹部連中と取引したのです。つまり、戦争犯罪を免責してやるからといって、人体実験のデータを要求して手に入れたのでした。
それと同時に、七三一部隊の人体実験被害者のなかに、中国人やロシア人だけでなくアメリカ人もいたという告発を握りつぶしてしまいました。もしも、七三一部隊によって殺された被害者のなかに連合軍捕虜としてアメリカ人がいたとしたら、それをアメリカ国内に知られたら、七三一部隊幹部との闇(ヤミ)取引なんか、すぐに吹き飛んでしまったはずです。
有力な皇族であった東久邇(ひがしくに)は、七三一部隊の本拠地(平房の施設)を訪問しているし、天皇の弟の秩父宮は石井四郎の講演を聞いていて、もう一人の弟の三笠宮も平房を訪問している。また、竹田宮恒徳は主計官として、平房に頻繁に訪れている。
昭和天皇自身も石井四郎と少なくとも公式に2回は会っている。
日本軍による連合軍の捕虜収容所は満州の奉天にあったのです。この捕虜収容所は11942年11月から1945年8月までありました。
日本軍がフィリピンを占領して、「バターン、死の行進」で有名な捕虜の一部を奉天に送ったのです。この収容所に2000人以上を収容し、全部で19の兵舎がありました。悪い食糧事情、不潔な宿舎そして厳しい寒さのなかで、次々に収容者は死んでいきました。直接の死因は栄養不足、ビタミン不足による死亡のようです。
この本では、結局、アメリカとイギリス、オランダの将兵あわせて1671人が生き残ったのに、誰も日本の細菌戦の被害にあったと訴えなかったとしています。
日本軍と石井四郎たちが、アメリカ人、イギリス人、オランダ人だけは決して手をつけなかったというのは今の私にはとても信じがたいのですが...。「厳密に統制された高度の国家機密である」とFBIがコメントしていたというのですから、やはり疑わしいこと限りありません。アメリカの公文書館のどこかに、隠された文書が埋もれたままになっているのではないでしょうか...。
(1999年7月刊。3800円+税)
2024年7月26日
tsmc、世界を動かすヒミツ
社会
(霧山昴)
著者 林 宏文 、 出版 cccメディアハウス
半導体産業には莫大なお金がかかるのですね。
著者は日本が半導体産業の復活のために国の投じる3500億円では、TSMCの研究開発費の3分の2にもならないので、世界に追いつくのは無理だと断じています。
日本は、かつて半導体産業で世界をリードしていたが、今では見るかげもない。それは、設計と製造の分離という業界トレンドに乗り遅れてしまったから。日本は、過去・独自路線を歩み、産業も垂直統合型だったが、世界は分業制へと向かった。
日本の半導体産業が出遅れてしまった4つの原因。
その1は、財閥系企業の意思決定が非常に遅い。その2は、グローバル市場で戦える人脈と能力を経営者が持っていない。その3は、強烈な閉鎖主義で、独自技術に固執し、買収や合併を嫌がった。その4は、技術偏重で、マーケティングを軽視した。
それでも、長期的に取り組む必要のある半導体の精密機器や設備、光学、材料の分野では、日本は目覚ましい成果をあげている。たとえば、シリコンウェハー業界では、日本の信越化学工場が1位とのこと。日本も、まったくダメというのではなさそうです...。
この本を読んで驚いたことの一つが、TSMCは研究開発部門を年中無休の24時間体制で動かしているというのです。技術者は、2日出勤したら、2日休む、「2勤2休」制で仕事をするのです。製造部門で三交代制は珍しくありませんが、研究開発で三交代制を導入して、24時間ノンストップで研究開発を続けているというのです。これは、すごいことですね...。
TSMCの会議では、何も発言しなかった人は、次の会議からは出なくてよいとされる。ということは、会議に出席するためには意味のある発言を1回はしなくてはいけないというわけです。
台湾のIC設計会社上位10社のうち、台湾企業が4社を占めている。
TSMCは国営企業ではない。しかし、台湾政府が出資して設立し、手厚く支援した企業。
台湾は世界の半導体の7割を生産する力があり、そのなかでもハイエンドなプロセス技術(半導体の製造技術)の9割を独占している。
熊本にTSMCの工場が出来ることになって、地価が上昇し、マンションが次々に建っているようです。しかし、他方で、地下水汚染を心配する地元の声が上がっています。私も大丈夫なのか、不安なんです...。IC産業なしでは世界がまわらないことは分かりますが...。TSMCのヨイショ本です。
(2024年3月刊。2700円+税)
2024年7月27日
かくれ里
社会
(霧山昴)
著者 白洲 正子 、 出版 新潮社
1971年に初版が刊行された本の新装版です。なので、「ゲバ棒を持った学生」という表現も出てきます。私の大学生時代のころ、大学を暴力で支配しようとした全共闘の学生を指しているのです。彼らのなかの多くは、今は立派に社会に貢献していますが、なかには暴力賛美を今も唱えている人がいたりします。残念です。
著者は1910年生まれで、1998年に亡くなりました。女性として初めて能舞台に立ったそうです。ええっ、能って男だけの世界だったのですか...。
この本は著者が1970年から71年にかけて2年間、「芸術新潮」に連載した随筆をまとめたものです。京都や奈良、北陸など、各地をまわってそこで得た見聞記が主体ですので、そのころの各地の風情がよく伝わってきます。
岐阜県可児(かに)町の山中に住む陶芸家(荒川豊蔵氏)の自宅を訪問して山菜尽くしの夕食をごちそうになっています。いろり端のある荒川氏宅は見事な茅葺(かやぶ)きの田舎家です。今も残っているのでしょうか。思わず見とれてしまうほど、堂々たる古民家です。
古い農村の行事には公開をはばかるものが多い。豊穣の祭りには、必ず性の身振りがつきまとう。それは神聖な行為であり、おまじないでもあった。だから、ふだんは厳しい男女の仲も、祭りの日は大目に見られた。要するに、性の開放があったということです。
日本全国の木地師には筒井、小椋(おぐら。小倉、大倉)が多い。木地師の本拠は近江の愛知郡小椋谷。木地師は椀をつくるかたわらで、能面も製作していたようです。
金勝(こんぜ)族は金属、丹生(にう)族は水銀、木地師は木材を扱っていた。そこへ大陸からの帰化人(今は渡来人と言います)が入ってきて、加工の技術を教え、器用な日本人は、たちまちそれを自分のものとした。
日本の仮面は、おそらく神像の代用品としてつくられ、神事から次第に芸能の世界へ移って行った。
丹は朱砂とか辰砂を意味し、その鉱脈のあるところに「丹生」(にう)の名前がついている。朱砂は煮詰めると水銀になる。古墳の内部に朱を塗るのは、悪魔よけと防腐剤をかねている。
丹生神社は全国に138ヶ所あり、半分以上が和歌山県に集中している。
僧侶と稚児の関係。戦国時代の武将が男色、同性愛にふけっていたのは有名です。たとえば、織田信長と森蘭丸です。最澄と空海は、泰範という弟子を争ったとのこと。知りませんでした。
「稚児灌頂」という文書には、一種の儀式にまで発展した、男色の秘戯が記してあるという。うひゃあ、そうなんですか...。師弟の間柄も、肉体関係を結ぶことによって、本当に血の通った伝授が行われたのだろうとのことです。
見事なカラー写真があって、目と心を洗い流してくれます。
残念なのは、頻繁に「にも関わらず」と書かれていることです。もちろん「関」は間違いで「拘」です。校正段階で正すべきでした。生前の著者の間違いをそのまま残すべきではありません。
(2021年4月刊。3400円+税)
2024年7月28日
水族館飼育係だけが見られる世界
生物
(霧山昴)
著者 下村 実 、 出版 ナツメ社
これは面白くて楽しい本でした。水族館だからもちろん魚を扱うわけです。でも、ジンベエザメって、これも魚なんですかね...。最大全身14メートルという、最大の魚類。イルカやクジラはもっと大きいわけです。こうなると、魚って何者なのか...という疑問も湧いてきます。
ジンベエザメの「ハナコ」さん。立ち泳ぎして、1ヶ所にとどまって餌を食べるそうです。慣れてくると、頭をなでさせてくれ、背ビレにつかまっても悠々と泳いでいく。いやあ、ここまで慣れるのですね...。
ただし、頭をなでられて喜ぶのは犬と一部の哺乳類だけ。多くの生き物にとって頭頂部は急所なので、触られるのは嫌なこと。
ジンベエザメは24時間、泳いでいる。寝ているあいだも泳ぐ。これって、マグロと同じですよね。
水族館の飼育係になるのに、特別な免許は必要ない。ただ、潜水士の資格はもっていたら都合がよいし、潜水経験があって、泳げたら、うれしい。
ただし、飼育係も接客業なので、コミュニケーション力は重要。人間同士で話し合うコミュニケ―ション能力がないと、生物たちと通じ合うのは無理。なーるほど、ですね。意思伝達は必要なのですね、相手が魚であっても...。
マンボウの体表についていた寄生虫を指でこすって取ってやると、1回しただけなのに、マンボウはそれを覚えていて、著者を見ると、近寄ってくるようになったそうです。ちゃんと人間を見分けているのです。
毒をもつ生物は多いので、要注意。アカエイは痛い。カラスエイは激痛。マダラトビエイも激痛。ハオコゼは痛い。ゴンズイも痛い。カカクラゲは激痛。アンドンクラゲも同じく激痛。オオスズメバチは熱い痛い、苦しい。そしてミノカサゴは激痛かつ苦しい。
ヤモリは、「チーチー」と鳴くそうです。わが家の台所の窓にはヤモリが夜になると貼りつきます。でも、「チーチー」なんて鳴き声を聞いたことはありません。本当に鳴くのでしょうか...。
同じ水槽に小さい魚と大きな魚を入れて共存させるための秘訣(ポイント)は、小さい魚を先に入れて優先権を与え、小さい魚が逃げ隠れできるようにする。大きな魚には適正に餌を与えて、極力空腹にならないようにする(もっとも肥満にも気をつけるとのこと)。
水族館で魚を飼うときに気をつけないといけないのは、「衝突死」が多いこと。つまり、水槽のアクリルガラスに衝突して死んでしまう個体が少なくないそうです。
日本は水族館大国と言われるほど、水族館が多く、100館もあるとのことです。
鹿児島の水族館も大きな水族館ですけれど、沖縄の「美ら海(ちゅらうみ)水族館」のスケールの大きさにはど肝を抜かれました。スカイツリーにも「すみだ水族館」があるそうです。
著者は「さかなクン」と同じで、幼いころから「魚、大好き少年」だったようです。それを一生の仕事にしたというのです。すばらしいことですよね、尊敬します。
(2024年5月刊。1540円)
2024年7月29日
バッタを倒すぜアフリカで
アフリカ
(霧山昴)
著者 前野ウルド浩太郎 、 出版 光文社新書
前の本(「バッタを倒しにアフリカへ」)は、なんと25万部も売れたそうです。モノカキ志向の私には、なんとも妬(ねた)ましい部数です。その印税で、助手の男性にプレゼントをする話も登場して、泣かせます。
この本は、前の本の続編ですが、新書版なのに、なんと600頁を超えていて、読みこなすのに一苦労しました。いえ、読みにくいというのではありません。著者の身近雑記が延々と語られていて、それはそれで面白いので、つい読みふけってしまうのです。
ともかく、バッタの婚活の研究をしている著者は、ネットその他を通じて本気で婚活しているのに、なぜかゴールインしないというのです。ええっ、いったいどういうことなんでしょうか...。ひょっとして選り好みが意外に激しかったりして...。
それにしても好きでバッタ博士になったはずの著者が、バッタアレルギーにかかっているとは、悲劇ですよね...。
著者がアフリカでバッタ研究を始めて、もう13年になるそうです。アフリカの西岸にあるモーリタニアの砂漠にすむ、サバクトビバッタの繁殖行動をずっと研究しています。
バッタは移動能力が高い。バッタは暑さに強い。
バッタは、フェロモンを利用した独特の交尾システムを有している。
バッタは多同交尾し、最後に交尾したオスの精子が受精に使われる。
バッタの産卵期間は脆弱(ぜいじゃく)である。
サバクトビバッタのメスは、オスと交尾しなくても単為生殖でも産卵し、子孫を残せる。ただし、うまれてくる幼虫はすべてメスであり、ふ化率は低い。
著者は、長く長く粘り続けたおかげで、その論文がなんとか、ようやく高級な雑誌に掲載され、ついに学者の仲間入りができたのでした。
それを著者は、がんばり、運が良ければ、どんな良いことが待ち受けているのか...と、表現しています。それまでの長く、苦しい研究がついに結実したのでした。2021年10月のことです。
著者は、今やFBに60万人ものフォロワーがいるとのこと。たいしたものです。「ありえないほどの超有名人」になったのです。
この本には、ロシアの女性(農民)が27回の出産で69人を出産したという、嘘のような本当の話が紹介されています。双子を16回も産み、また三つ子まで7回、さらに四つ子も4回産んだというのです。とても信じられない話です。
ちょっとボリュームがあり過ぎて、読みくたびれてしまいましたが、語り口の面白さにぐいぐいと最後まで読み通してしまいました。さすが、5万部も売れている新書です。
(2024年6月刊。1500円+税)
2024年7月30日
ジェーンの物語
アメリカ
(霧山昴)
著者 ローラ・カプラン 、 出版 書肆侃侃房
映画のほうは見損なってしまいましたので、本を読みました。アメリカの1970年代初め、まだ妊娠中絶が違法とされていたころ、シカゴの女性たちが「ジェーン」と名づけられた非合法の組織をつくって、中絶を援助した実話を掘り起こして紹介した感動的な本です。
4年あまりの活動期間に1万1000人の女性を援助して中絶を成功させたとのことです。そして、この「ジェーン」に関わった女性は100人超です。本当に大変なことだったと思います。警察に摘発されてブタ箱(警察署の留置場)に入れられた女性も7人いますが、結局、裁判にはなりませんでした。アメリカの連邦最高裁のほうが、中絶を違法とする州法を無効と判断したからです。
4年あまり活動して「ジェーン」は解散したのですが、中絶は違法とされていたので、記録は意図的に残していない。捜査の手が入ったときに芋づる式に検挙されることを恐れたから。それを著者がインタビューして明らかにしていったのです。
当初の中絶費用は600ドル。1ドル100円としたら6万円です。けっこうな値段ですが、それは、ともかく、安全に中絶してくれる医師を確保するのは大変でした。
「ジェーン」が依頼していた「医師」は、実は医師免許をもっていないというのが、途中で判明しました。それでも、腕はいいので、続行しました。そして、やがて、その「医師」から中絶技法を学んで、「ジェーン」の女性たち自身が中絶手術をするようになったのです。
中絶を依頼してくるのは、若い人から年輩まで、そして白人も黒人も、いろいろ、裕福な女性も貧困層もいました。なかには、妻や娘を送り込んでくる警官たちもいたのです。決してオトリ捜査ではありませんでした。
中絶反対派は、「赤ちゃん殺し」と叫びますが、「ジェーン」に関わった女性は、「胎児は人間ではない」と考えました。それより、目の前の女性を助けることにしたのです。
「ジェーン」は決して中絶を推奨したのではありません。
中絶の最初の段階として、過剰出血を防ぐため、エルゴトレートを筋肉注射する。スペキュラムを膣に挿入し、子宮の入口を筋肉でできた子宮頸部を露出させ、膣と子宮頸部を殺菌剤のベタジンでぬぐう。次に、子宮頚管の周囲に麻酔薬のキシロカインを注射して子宮の拡張がもたらす痛みを鈍らせる。子宮頚管の硬く締まった筋肉を拡張させ、柔軟な金属でできているゾンデで子宮頚管の向きを確認してから、拡張器を子宮の開口部である子宮頚管に挿し込み、子宮内に器具を挿入できるようになるまでゆっくりと拡張する。いずれも注意深く慎重にやる。拡張が終わったら、小さなスポンジ鉗子を子宮に入れ、胎児と胎盤を少しずつ取り出す。取り除けるものを取り除いてから、中空のスプーン状のキュレットを使って、子宮内膜をきれいに掻き出す。鉗子とキュレットを代わるがわる用いて、この手順を繰り返す。子宮壁がきれいになって中絶が完了すると、キュレットが子宮膜をこする音は、親指で口蓋をこするのと同じような音になる。
この中絶のプロセスで痛みを伴うのは、ほぼ空になった子宮が収縮して器具にあたる最後だけ。中絶には魔法のようなものはなにもない。その手法は非常にシンプルなもの。
中絶したあと、出産後と同じように、ホルモンレベルの急激な変化がうつ病の引き金になる可能性があるようです。でも、それ自体が生命の危険をもたらすわけではありません。
この本の「ジェーン」に関わった女性は、どうやら私とほとんど同世代(戦後生まれの団塊世代)か、少しだけ上の女性たちのようです。その勇気と行動力に圧倒されました。
いったい、日本はどうなっているのでしょうか。そう言えば、ごく最近、フランスでは、憲法に女性は中絶できる自由のあることが明記されたのですよね。すばらしいことですね。
自民党や公明党はいまだに選択的夫婦別姓すら認めようとしませんし、憲法改正に躍起になっていて、国民の権利を制限する方向の議論しかしません。本当に残念です。
読んで勇気の出る、いい本です。ご一読をおすすめします。
(2024年4月刊。2500円+税)
2024年7月31日
ノルマンディ戦の6ヶ国軍
ヨーロッパ
(霧山昴)
著者 ジョン・キーガン 、 出版 中央公論新社
映画「史上最大の作戦」をみたのは、私が高校生のころだったでしょう。圧倒的なスケールの戦闘場面には、まったく度肝を抜かれました。最近では、映画「プライベート・ライアン」です。あたかも観客にすぎない私自身が戦場の真っ只中に置かれているかのような迫真性がありました。
ナチス・ドイツ軍を率いる砂漠の鬼・ロンメル将軍が鉄壁の陣地で待ち構えているところに突撃・突進していく連合軍兵士はどんなに心細かったことでしょう。そして、部下を死地に追いやった総司令官のアイゼンハワー将軍は万一、敗れたときに備えて早々に挨拶原稿まで用意していたそうです。
ところが、「鉄壁の陣地」のはずのドイツ軍は、実はそれほどでもなかったのです。「軍事の天才」を自称するヒトラーがノルマンディーではなく、もっと東側に上陸してくると思わされていたことにもよります。ヒトラーは「天才」でもなんでもなく、ただの狂人でしかなかったのです。
それにしても、当時は天候の予測はかなり難しく、まさかこんな悪天候の日に上陸はないと確信してロンメル将軍をはじめ、何人もの高級司令官たちが現場を離れていました。
そして、現地からの報告を受けたドイツ軍司令部は「陽動作戦」だと信じていたので、対処が遅れたのでした。
この本を読んで、連合軍のグライダー部隊が「お粗末」だったことも知りました。敵(ドイツ軍)の背後、奥深いところに連合軍兵士を大勢送り込むはずだったのです。でも、現地上空で厚い雲に覆われて、目標を見逃します。そのうえ、グライダー操縦も機材も、不十分だったのです。1590機の兵員輸送機のうち、440機が大破したか撃墜されました。これはひどい損耗率ですね...。
ドイツ軍のレーダー探知を逃れるため、高度150メートルを30分間も飛び、いったん高度460メートルに上昇して目標地を視認し、さらに高度120メートルで目的に接近していったのです。
パラシュートが故障したら、どうなるのか...。その恐怖心に備えて、アメリカ軍は予備のパラシュートをもっていたが、イギリス軍にはなかった。
降下員たちの4分の1は、捻挫か骨折をしていた。各師団で、3000人以上の兵士が行方不明または死亡した。これまた、すごい高い損耗率ですよね...。
ノルマンディー上陸作戦に参加したカナダ兵5千人のうち、生存者は4割の2千人しかいなかった。1900人近くがドイツ軍の捕虜になった。交戦したカナダ兵の65%が損耗した。いやはや、これはひどい結果です...。
カナダの将兵が上陸したとき、連合軍の艦隊による艦砲射撃は、ドイツ兵をまったく殺傷していないことが判明した。あの艦砲射撃って、見るからに威力がありそうなんですけどね...。
1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の翌月、フランスでドイツ軍がまだ連合軍と戦闘していた7月20日、森の中の総統大本営(「狼の巣」)で、ヒトラー暗殺計画の爆発が起こり、未遂に終わった。ワルキューレ作戦の遂行と失敗です。ドイツ国防軍のなかにはヒトラーを亡きものにしようという確固としたグループがあったわけです。ところが、悪運の強いヒトラーは生きのびてしまいました...。
8月19日、パリ解放のため、フランス(パリ)警察の3つのレジスタンス組織が共同行動をとることで一致して、パリ警視庁の屋上に三食旗を掲げた。このとき、共産党主導のレジスタンスは一歩出遅れてしまい、ドゴール将軍がリードすることになったのでした。
ノルマンディー上陸作戦の前と後を、アメリカとイギリス軍だけでなく、連合軍に加盟していたカナダ軍、ポーランド軍、フランス軍などについても丹念にフォローしていて、画期的な本だと思いました。
(2024年3月刊。3600円+税)