弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年6月27日

魔都上海に生きた女間諜

中国


(霧山昴)
著者 高橋 信也 、 出版 平凡社新書

 上海には、20年以上も前に2度ほど行ったことがあります。当時もビル建設ラッシュでしたが、外壁づくりの足場が竹製だったのには驚きました。そして、まさしく人海戦術で高層ビルがつくられていました。ともかく上海は巨大都市、しかも超近代的なビルが林立していました。ここは社会主義でも共産主義でもなく、まごうことなき資本主義の国だと実感したものです。
 この新書は、戦前の上海で母を日本人とする若い女性がスパイとして活躍していて、ついには日本軍によって処刑されてしまうという悲劇の人生を浮き彫りにしています。
 当時、心ある中国人の青年は日本軍の横暴さを許せなかったと思います。でも、それを表立って言ったりは出来ません。それで、人知れずスパイ活動をする青年男女も少なくなかったのだと思います。
 戦後、日本の国会議員にまでなった李香蘭こと山口淑子は、両親とも日本人ですが、父親と親交のあった中国人(藩陽銀行の頭取の李際春)の養女となって、「李香蘭」として歌手・映画俳優になったのでした。
 本書の主人公は、李香蘭より6年ほど早く生まれています。父親は日本に留学中に日本人女性と親しくなり、女性を中国に連れて行き、娘は当時の中国人女性として珍しい高等教育を受け、その美しさから上海では有名な女性となったのでした。日本語もできて、社交的で聡明なことから、国民党CC団のスパイとして活動するようになります。
 当時の上海は日本が全面的に支配することのできない大都会でした。租界として、欧米各国の勢力も無視できなかったのです。
鄭蘋如がスパイとして活動したのは、わずか2年半あまりという短い期間です。そして、その間に、ときの日本首相・近衛文麿の息子・近衛文隆と恋愛関係になったのでした。そして、このことを日本側が知ると、無理矢理、文隆を日本に引き戻してしまったのでした。双方にとっての悲劇だったようです。文隆は、その後、シベリアに抑留され、そこで病死したように思います・・・。
 当時の上海には10万人もの日本人が生活していた。そして、鄭蘋如は、和平派の日本人グループと深く交流していた。
彼女の処刑に至るまでには、日本軍の判断が深くかかわっていた。
当時、上海は、常に中国の政治の象徴的存在だった。1930年代の上海の人口は360万人。ユダヤ人も2万人が住んでいた。フランス租界の警察署長は青幇(チンパン)のボスであり、租界の影の実力者だった。
父親は、日本留学から戻ると、一貫して国民党員であり、抗日意識をもった法務官僚だった。
 鄭蘋如は、上海法政学院に入学し、23歳のとき、上海のグラフ雑誌の表紙を、その顔写真が飾った。なるほど、いかにも近代的な美人です。知的雰囲気にみちています。
 日本軍が設立した放送局のアナウンサーとしても働いたことがあります。
 鄭蘋如を「コミンテルンのスパイ」とした本もあり、当時の上海の混沌とした状況をうかがわせています。
1940年2月半ば、鄭蘋如は日本軍によって、上海郊外で処刑された。
母親は台湾に去り、そこで死亡。妹はアメリカへ移住。
ここにも悲劇の一つがありました。
(2011年7月刊。860円+税)

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