弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2024年6月25日
銀座ハイカラ女性史
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 野口 孝一 、 出版 平凡社
亡父は1927(昭和2)年に17歳のとき上京し、逓信省で働きながら法政大学(夜間)に学び、やがて昼の法文学部法律学科に入って、1933(昭和8)年に高文司法科試験を受けました(不合格)。NHK朝ドラ「虎に翼」の寅子が合格したのは5年後(1938年)です。
亡父の7年あまりの東京での生活がどんなものだったのかを調べ、文章化しているところなので、銀座で女性がどんな仕事をし、服装をしていたのかを知りたくて、本書を読みすすめました。
まずは服装です。昭和の初めは、洋装よりも和服姿のほうが多かったのでした。1929(昭和4)年7月の銀座を歩いている女性は和服の女性10人に対して洋装が5人でした。すると、これは髪型にもつながります。女性が断髪するというのには、当時、大変な勇気が必要でした。1929(昭和4)年ころは過渡期です。路上で「亡国の髪」だとして水をかけられたり、髪を勝手にほぐされたりしました。とんでもない状況ですよね...。
1927(昭和2)年、銀座に「ハリウッド美容室」がオープンし、1930(昭和5)年には、「吉行あぐり美容室」が開設されました。1928(昭和3)年3月号の雑誌「女性」は「断髪物語」として断髪している各界の女性の経験談を特集した。
銀座といえば「銀ブラ」にはカフェーが欠かせません。銀座のカフェーの全盛期は1930(昭和5)年ころ。インテリや文士向けの「サロン春」は1929(昭和4)年11月に文士の社交場である交詢社ビルの1階に開店。この「サロン春」には1932年5月に起きた五・一五事件で危く青年将校たちに襲われかねなかったチャーリー・チャップリンが大相撲を見物したあと、夜にやって来ています。そして、1930年から1931年にかけて、関西系の大衆的カフェーが銀座に相次いでオープンしたのです。美人座、ゴンドラ、日輪、そして赤玉などです。
カフェーにつとめる女給は主としてチップを収入源としていて、業界一の稼ぎ頭(サイセリヤの大川京子)は、なんと月に580円を稼いだとのこと。すべてチップ収入。平均200円が相場だったので、破格の稼ぎです。
銀座の一角には花柳街(花街)があった。私は、その場所がどこかは分かりません。
政府高官は新橋芸妓を妻としたり、妾としていた。
伊藤博文と梅子、山県有朋と貞子、陸奥宗光とおりゅう、原敬と朝子、板垣退助と子清(しせい)、西園寺公望と房子、桂太郎とお鯉です。
銀座に生きる女性たちの生きざまを少しばかり知ることができました。
(2024年3月刊。3600円+税)