弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2024年6月19日
世界史の中の戦国大名
日本史(戦国)
(霧山昴)
著者 鹿毛 敏夫 、 出版 講談社現代新書
知らないことがたくさん書かれていました。
日本の西国大名の姿勢は、表裏を使い分け、形式より実刑を追い求める二枚舌外交だった。たしかに少なくない大名が切支丹になったのも、純粋に信仰にして、というより貿易の利益を確実にするためだったとも言われていますよね...。
16世紀半ば、日本にポルトガル人が鉄砲を伝えたこと自体は事実。しかし、ポルトガル船に乗って来たのではなく、戦国大名が派遣した遣明船と結んだ中国人倭寇・王直のジャンクに乗って日本にたどり着いた。ええっ、そうだったのですか...。
日本は、当時、膨大な量の日本銅を海外に輸出していた。同時に、硫黄も大量に輸出していた。
宋の中国では、火薬を兵器として利用していて、黒色火薬の原料として、硫黄、硝石、木炭の需要が急増していた。
豊後や薩摩の日本産硫黄は、10世紀から17世紀初めまでの長いあいだ、主要な輸出品目だった。そして、豊後(大分)の遺構から出土した鉛玉(鉄砲の弾丸)は30%がタイ南部のソントー鉱山産だった。
日本から銀や硫黄を輸出し、東南アジア諸国からは壺を容器として硝石や鉛、そして蜂ろう(ロウソクや口紅の原料)を輸出していた。
肥後国伊倉(玉名市)には、17世紀はじめころに活動していた「唐人」の痕跡が唐人墓として残っている。そして伊倉には、現在も「唐人町」の地名がある。福岡の地下鉄の駅名にもなっていますよね。
文禄1年(1592年)ころ、久留米周辺のキリシタンは300人だった。それが慶長5(1600)年ころになると、久留米にレジデンシアが開設され、パードレとイルマンが常駐して、教会堂と寺院が建てられた。1900人が集団受洗した。久留米では、最盛期に7000人の信者がいて、パードレ1人、イルマン2人が駐在した。関ヶ原合戦に敗北したあと、毛利秀包(ひでかね)・引地夫妻は撤退し、キリシタンも離散してしまった。
天正年間には、商人仲屋宗越は、カンボジア交易を手がける明の貿易商人と取引関係を結び、東南アジア方面の物資を入手していた。
戦国大名たちは実利を求めて、東南アジアの国々と積極に交易を進めていたことがよく分かりました。
やはり、視線は外に、昔も今も国際的な視野をもつことの大切さを教えられました。
(2023年10月刊。1100円+税)