弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年6月 2日

芥川龍之介

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 関口 安義(編集) 、 出版 新潮社

 新潮日本文学アルバムの1冊です。前から本棚にあったものを引っぱり出しました。
 さすがの天才です。早くも小学生のとき、同級生とともに回覧雑誌を始めています。たいしたものです。そのころ、漢詩・漢文も学んでいて、素読に励んでいました。10歳のころからは、英語と漢学を学んでいます。英語はナショナル・リーダーを、漢学は日本外史をテキストにしています。いやはや、とんでもない早熟さですよね。
中学生のときも回覧雑誌を発行していて、「我輩も犬である」を書いたというのです。そして、「義仲論」を書いて活字になっています。
 「彼の一生は失敗の一生也...。しかれども彼の生涯は男らしき生涯なり」
 芥川龍之介が「鼻」を発表すると、それを読んだ夏目漱石から激賞されます。
 「大変面白いと思います」
 「上品な趣があります」
 「文章が要領を得て、よく整っています」
 ところが、若くして文壇に出現した芥川龍之介をねたんで、酷評・妄評、そして嫉妬評につきまとわれ、「芥川を批判したら一流」とまでの風評があったのでした。
 どこの世界でも、出る杭は打たれるというのですね。しかし、芥川の偉いところは、そんな評言を読むたびに次作で彼らを見返そうと、厖大な執筆エネルギーを得て、さらに小説を書き上げていったことです。すごいものです。
 芥川龍之介は、「桃太郎」伝説を読み替えました。
 「鬼」たちは平和を愛し、安穏に島で暮らしていたのです。誰に迷惑をかけるでもなく、踊りを踊ったり、古代詩人の詩を歌ったりして、妻や娘たちと一緒に平和に生活していました。
 そこへ、何の理由もなく桃太郎たちは攻め入り、「進め、進め。鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ」と、日の丸の扇を打ち握り、犬猿雉の3匹を引き連れて鬼を殺してまわったのでした。
 これは、まさしく帝国主義日本の戯画です。芥川龍之介は、戦前の日本で桃太郎に軍国主義の権化を見たのです。この芥川による「桃太郎」は、1924年7月1日号の「サンデー毎日」に発表されたものです。まさしく大正末期ですが、軍国主義が強まっている状況でもありました。芥川の状況認識(歴史認識)は、見事に的確なものでした。いやあ、さすがですよね。
 1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災のとき、31歳の芥川龍之介は田端の自宅付近で自警団に加わり、朝鮮人狩りを目撃しました。そして、「侏儒の言葉」のなかに、「我々は互に憐(あわれ)まなければならない。いはんや殺戮(さつりく)を喜ぶなどは...。相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」と書いています。芥川龍之介は朝鮮人迫害を厳しく告発しているのです。
芥川龍之介は1927(昭和2)年7月に大量の睡眠薬を飲んで自殺しました(35歳)が、その3ヶ月前にも妻の友人と帝国ホテルで心中しようとしたというのです。驚きました。
 「唯ぼんやりした不安」と遺書に書いて自死を選んだ天才作家の心中は、なかなか理解しがたいものがあります。いま、昭和初期の日本の状況を調べていますので、そのなかで登場する芥川龍之介について、少し紹介しました。
(1983年10月刊。980円)

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