弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2024年5月24日
「穂積重遠」
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 大村 敦志 、 出版 ミネルヴァ書房
NHKの朝ドラ「寅に翼」が話題を呼んでいますね。穂積重遠のモデルも登場していますが、穂積重遠は帝大セツルに深く関わっていました。
東京帝大セツルは、1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災のときに活躍した学生救護団を母体として、1928(昭和37)年に発足した。
高名な東大教授である末弘厳太郎と穂積重遠教授が発足以来、関わっている。二人とも東京帝大法学部長を重任するほどの大物。
セツルメントは、下層庶民社会の矛盾を法的紛争を通じてつかみうる貴重な観察と究明の場として設立が呼びかけられた。法学部生による法律相談部だけではなく、労働学校(講座)や幼児を対象とする活動なども展開した。
法律相談部で扱うのは、借地借家事件をはじめとする民事相談が大部分を占める。
セツルメントハウスのあるあたりは大雨が降ると道路と溝の区別がつかなくなるほど一面、水に覆われてしまうので危ない。雨が降ったときは両教授ともゴム長靴をはいてセツルメントハウスに通ったが、あまりの大雨のため途中で教授が引き返したということもある。
法律相談の日は週に2回、夜にある。穂積教授が火曜日、我妻教授が金曜日と分担していた。
法律相談に関わった学者には、川島武宜、舟橋諄一、杉之原舜一などの助教授たちもいる。また、学生セツラーのなかには、馬場義続(戦後、検事総長)など、官側で出世した人も少なくない。さらに、原嘉道弁護士や小野清一郎教授なども帝大セツルの顧問だった。
宮内府や東京府・市そして三井報恩会からも帝大セツルは経済的に支援されていたが、これには穂積重遠男爵の関与が大きい。
この柳島地区は、まさしく貧民衛であり、世帯の平均年収は、月に46円から42円、そして37円と、年々低下していった欠食児童や栄養不良児童も多い。お金に余裕がないため、毎日の飯米も1升買いする家庭が多い。男たちのほうは、3日に1度しか仕事にありつけないということもしばしばだった。
セツルメント法律相談部は、①知識の分与と困難の救済、②生きた法の姿の認識、③事態の分析・整理・法律適用の実地演習を目標として掲げた。
セツルメントの学生のなかには共産主義思想に共鳴する者も少なくなく、1931年7月、セツルメントハウスに「帝国主義戦争反対」と書いた大きな垂れ幕が掲げられた。
そんなこともあって、セツルはアカではないか、アカの巣窟(そうくつ)になっているのではないかという、疑いの目で見る当局の目は厳しくなるばかりだった。
1932年、鳩山一郎・法務大臣が自ら柳島のセツルメントハウスを非公式に訪問した。このときは穂積教授がつきっきりで案内した。また、1934年2月には我妻教授が妻とともにセツルメントを参観した。いずれも、セツルメントの「安全性」をアピールするためのものだった。
ついに1938年5月、帝大セツルメントの責任者に警視庁特高部が出頭を命じ、安倍源基特高部長が直々に取り調べた。そして、同年4月、帝大セツルメントは閉鎖された。
穂積教授は帝大セツルメントが解散したとき、セツラーとして活動してきた学生に向かって、「自分が上に立っていながら、潰してしまうとは、何とも申し訳ない」と頭を下げた。そして、「セツルメントは永久に生きている」と付け足した。
閉鎖にあたって、法律相談部に保管されていた貴重な相談記録は、我妻教授の所有するダットサン(車)に積み込まれ、穂積邸に届けられた。今も、製本された記録が東大法学部の教授室に保管されている。
私も戦後に再建された学生セツルメントのセツラーでした(川崎市幸区古市場)。
(2013年4月刊。3500円)