弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年5月19日

「伊賀越之」

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 小林 正信 、 出版 淡交社

 本能寺の変が起きたのは1582(天正10年)6月2日未明のこと。そのとき、徳川家康たちは堺で何をしていたのか、何のためにこのとき堺にいたのか...。もちろん、このとき秀吉は毛利勢と対峙して岡山あたりにいたのです。
 家康は織田信長の死を知ると、一時は自分も京都に行って光秀と戦って死のうとしたそうです。それは止めてと家来が必死に止めたのでした。そこで、家康主従250人は堺を出て伊賀越えして尾張・岡崎の自分の領地に戻ることにします。
 でも、途中で光秀の軍勢に襲われたら、ひとたまりもありません。なにしろ総勢わずか250人、そして、ろくな武器も持っていないからです。どのルートを通るのか、250人が一団となって逃げるのか、いろいろと考えなくてはいけませんでした。
 この本は、現在の京都府京田辺市で「草内(くさじ)・飯岡の戦い」があったという新説を提起しています。
 完全武装の明智軍1000人ほどと、弓も鉄砲も持たない徳川の兵200人が戦い、徳川方はほぼ全滅したというのです。でも、この戦いによって徳川家康たち50人は無事に岡崎に帰りつくことができたとしています。
 全滅した200人を率いていたのは穴山梅雪など。明智軍がこのとき徳川方に勝利できなかったのは、総大将が行方不明になっていたから。その総大将とは誰のことか...。
 家康が安土に参勤し、京都へ上洛した真の目的は、「織田・徳川同盟」の正常化と修復にあった。
 家康主従が上洛するにあたっての安土城での接待について、信長と光秀の間に軋轢(あつれき)があったという話は有名ですが、それは一体どれほどのものだったのでしょうか...。
 著者は、光秀について、織田政権の畿内統治の要だとみています。
 そして、織田政権の畿内統治は、直接統治ではなく、あくまで光秀を主体とする間接統治だというのです。それほど織田信長は光秀の存在を重くみていたのです。
 信長は、秀吉の注進を受けて、「西国出陣」に明智軍を動員して厄介払いすることにした。信長にとっての意外は反乱が起きないようにしながら起きてしまったこと。
 光秀は、当初から、その間隙(かんげき)を狙っていた。
 この本では、本能寺への襲撃と同時に家康主従へも襲撃するというのが光秀の作戦だったとしています。そして、この家康主従への襲撃部隊の総大将を長岡(細川)藤孝だとするのです。
 徳川主従と別行動をとった200人はオトリの役目を果たして明智軍からたちまちせん滅されてしまいました。この200人を率いていた穴山梅雪は家康のふりをしていたというのです。したがって、穴山梅雪の犠牲なくして徳川幕府は成立しなかった。それで、家康は影武者を引き受けた穴山梅雪の遺族を丁重に扱った。
 穴山梅雪が家康の影武者の役割を果たしたなどという新説を裏付ける資料が、本書のなかに今ひとつ見えてきませんでした。
 そして、信長と同時に光秀が家康も倒そうとしたという点についても、資料による裏付が足りない気がしました。
それでも、新説ですし、従来の通説とは明らかに異なっていますので、面白く読み通しました。
 ところで、「かかわらず」を「関わらず」とする初歩的な誤りが再三目について困りました。「関」ではなく、「拘」です。編集者の校正段階で是正されなかったのが残念です。
 著者より贈呈いただきました。ありがとうございます。
(2024年5月刊。2500円+税)

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