弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年5月 1日

八路軍(パーロ)とともに

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 永尾 広久 、 出版 花伝社

 ようやく改訂、増刷できました。
 モノカキとして書くのは楽しみですし、一冊の本にまとめるのは喜びです。でも、出来あがった本を売るのは大変です。書いているときは一人の作業ですが、本にまとめ、売るとなると、大勢の人の手を借り、たすけてもらわないといけません。もちろん、それが嫌やだというのではありません。本にするのは形として見えますが、売るとなると、まったく見えてこない作業になります。ベストセラーになれば、形が見えてくるのかもしれませんが、そんな状況は期待できませんので、ひたすら各方面に送りつけ、人の噂を高めてもらおうとするしかありません。
 その意味で、本書がなんとかかんとか増刷にこぎつけることが出来たのは、思いがけない人の助けがいくつもあったからです。ありがとうございます。
 なんとかして増刷したかったのは、いくつかの誤記はともかくとして、付加・訂正したいところがあちこちあったからです。その一つが、帝銀事件と七三一部隊の関わりです。
 青酸カリ化合物を扱う手慣れた様子から「犯人」とされた平沢貞通氏のような画家がやれるはずはないと思うのですが、GHQの圧力で、七三一部隊員の方面の捜査は中止させられました。平沢氏は長く獄中について、ついに無念の死を迎えてしまいました。
 この本の主人公の久は関東軍の一兵士として敗戦時、鉄嶺にいましたが、のちに柳川市長をつとめた古賀杉夫氏も満州国の高級官僚として鉄嶺にいたことを本人の著書で知りましたので、そのことを付加しました。
 八路軍から逮捕命令が出たのを知って、満鉄の掃除夫になりすまし、機関車のうしろの石炭車の上に腹ばいになって逃げたというのです。逃げ遅れた日本人の高級官僚13人は河原で銃殺され、その遺体は無惨にも野犬に食い荒されたとのこと。
 古賀杉夫元市長の息子は古賀一成元代議士であり、大学の同級生でもあります。
主人公の久たちは八路軍とともに満州各地を転戦しますが、そのとき、「西の蒙古方面行きのワンヤメヨウ線」に乗ったとしました。「ワンヤメヨウ」とは何か分からなかったのです。満州に詳しい人に照会して、「王爺廟」と漢字で書くことが分かり、白温線という路線だということも判明しました。何事にも先達がいるものです。
 八路軍の百団大戦によって日本軍の拠点が次々に撃破され、両親を亡くした4歳の女の子が八路軍に救出され、日本軍に送り届けたというエピソードを紹介しています。その女の子(栫美穂子)が郷里の宮崎で無事に成人していたのが探し出され、救出した八路軍司令の聶(じょう)栄瑧(えいしん)将軍(80歳になっていました)と北京の人民大会堂で再会したという話です。この女の子の父親がつとめていたのは、井陘(せいけい)炭鉱駅でした。
 満州(中国東北部)をめぐる国共内戦の最終段階にあった錦州改防戦のとき、圧倒的不利を悟った国民党軍の司令官が八路軍に投降してきたとき、八路軍はどうしたか...。八路軍は捕虜に温かく接し、場合によっては旅費まで与えて釈放していたのですが、この司令官と家族を大八車で荷物とともに護衛つきで北京まで送り届けたというのです。このことが広く知れ渡ると、北京・天津にいた国民党軍は戦意喪失・投降する将兵が続出し、双方の死傷者が少なくして決着ついたというのです。
歴史の真偽を知るのはなかなか容易なことではありませんが、こんなエピソードをまじえて生きた歴史をもっともっと学び、生かしていきたいものです。
 ぜひ、この改訂・増刷分を購入してお読みください。ご協力をお願いします。
(2024年4月刊。1650円)

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2024年5月 2日

徳川幕閣

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 藤野 保 、 出版 吉川弘文館

 江戸幕府は一見すると盤石(ばんじゃく)のようにみえて、その内情は武功派と官僚派の抗争、そして、先代に仕えていた人たちと新しい主(あるじ)の周辺との抗争が絶えることはなかったようです。まあ、当然といえば当然の現象です。
 私は、当初の内部抗争といえば、なんといっても石川数正の出奔を思い出します。家康を支えていた両組頭の1人(もう1人は酒井忠次)が、いわば敵方の秀吉の下に逃げ込んだのですから、家康のショックはきわめて大きかったと思います。それにしても、石川数正も、よくよくの決断だったことでしょう。
 石川数正が家康の下から秀吉方へ出奔したのは1585年11月のこと。関ヶ原の合戦(1500年)のわずか15年前のことです。徳川氏の軍制の機密が秀吉にもれてしまうことを家康は心配したといいますが、当然でしょう。家康は直ちに徳川軍政を改革しました。
 家康は、石川数正と並ぶもう一人の酒井忠次に対して、「お前でも子どもが可愛いか」と最大の皮肉を言ったということが紹介されています。
 家康が長男の信康を妻の築山殿とあわせて殺さなければならなくなったとき、酒井忠次が織田信長を恐れて、2人の助命のために動いてくれなかったことを恨んでの皮肉だったというのです。なるほど戦国から江戸時代にも、そんな意識があったのですね...。
 この本では家康の側近には4つのグループがあったとされています。
 第1は、武士たちのグループ、第2は僧侶と学者のグループ、第3は豪商と代官頭のグループ、そして、第4グループとして、外国人のグループがあったとしています。外国人とは、イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)と、オランダ人のヤン・ヨーステンです。
 第1グループのうち、本多正信と子・正純の親子に対して秀忠側近は反感を抱き、ついには対立したというのです。いつの世も変わりませんね...。
 本多正信と大久保忠隣の対立のなかで、正信が勝利したのは、門閥譜代に対する「帰り新参」譜代の勝利、そして武功派に対する吏僚派の勝利を意味した。これによって武功派は、幕政の中枢からまったく姿を消してしまった。
 二代将軍の秀忠はその晩年までに41人もの大名を改易(かいえき)した。外様(とざま)大名が25人、徳川一門、譜代大名16人。また、大名改易と並んで大名転封を強力におしすすめた。
 三代将軍の家光は、外様大名の「優遇」をきっぱりやめると宣言し、強力な大名統制を始めた。ライバルだった弟の忠長を改易し、ついに自害させた(忠長は27歳)。家光もまた秀忠と同じく大名の改易をすすめた。晩年までに49人の大名を改易した。外様大名29人、徳川一門、譜代大名20人である。
 鎖国は、諸大名を世界市場からひき離し、幕閣新首脳のめざす幕藩体制の仕上げに大きな役割を果たした。
 徳川幕府の骨組みを深く認識することのできる本でした。
(2024年2月刊。2200円+税)

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2024年5月 3日

考える粘菌

生物


(霧山昴)
著者 中垣 俊之 、 出版 ヤマケイ文庫

 タンパク質分子は、ブラウン運動によって常に激しく小刻みに揺れ動いていて、細胞の端(はし)から端まで数十秒ほどかけて移動する。これは、小ホールの中に満たされたおびただしい数のグリーンピースがすべて振動しながら、数十秒で端から端まで移動する様子を思い浮かべる、そんなイメージ。いやあ、そんなイメージはちょっと出来ませんよね...。
 単細胞には脳がない。だからどうやって情報処理をしているのか...。一般に、生物の情報処理は自律分散的。
 この本のテーマは粘菌。粘菌は数百種類もいる。アメーバには性がある。そして接合する。ところが、性は2つ以上ある。うぬぬ、性が2つ以上あるとは、一体、どういうこと...??
 粘菌にオートミールを餌(えさ)として与えたとき、絶食させたあとと満腹してからでは、食いつき方がまるで違う。なので、単細胞だって人間と同じ生き物だということが分かる。
 そして、粘菌にも歴然とした好みがある。最も好むのは、有機栽培の、オーガニックのもの。タバコの煙も好まない。
 粘菌は紫外線を浴びると危ないので、すぐに逃げ出す。
 生きものの賢さの根源的な性質を調べるためには、粘菌という生物は、またとない、すぐれたモデル生物。
粘菌を迷路実験すると、粘菌には迷路の最短経路を求める能力のあることが判明する。
 人間の脳のなかにも司令官のようなものは存在しない。誰かが全体を見張っていて、それぞれの管に指令を出しているわけではない。
 粘菌は、決して人のようには考えていないにもかかわらず、結果だけ見れば、あたかも考えたかのように見える。考えていないのに、粘菌は考えている、と言える。うむむ、なんだか分かったようで、分からない表現です。
 いやはや、生物の世界も不思議に満ちていますね...。
(2024年1月刊。880円)

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2024年5月 4日

洞窟壁画考

フランス


(霧山昴)
著者 五十嵐 ジャンヌ 、 出版 青土社

 フランスには久しく行っていませんが、それでも何回も行きました。残念なことにラスコー洞窟には行っていません。といっても、現物は現地でも見れないようです。
 洞窟壁画を保存するのは大変難しいようで、人間(見物客)を近づけないのが一番らしいです。まあ、仕方ありません。それにしても素晴らしい絵ですよね。カラー図版が見事です。
 いったい、誰がいつごろ、どうやって何のために、洞窟の奥(天井など)にこんな絵を描いたのでしょうか...。著者はその謎に挑みます。
 著者は1990年代から2020年まで、フランスとスペインで60ヶ所以上の壁画遺跡を訪れ、のべ150回は調査・見学したという経験を持っています。たいしたものです。
 洞窟壁画で描かれている最多動物はウマ。次がバイソン。
 洞窟からトナカイの骨が多く出土しているので、当時の人はトナカイをよく食べていたのだろう。
 洞窟にはサカナの姿も描かれていて、人間の手形もある。
彩色画は赤と黒がほとんど。赤は赤鉄鉱や酸化鉄を含む粘土であるオーカー、黒は酸化マンガン鉄物か木炭。
 ラスコー洞窟だけでランプが130点も発見されている。その明かりをたよりにして即興で描いたのではなく、かなりの準備をしてから、調合ずみの絵具を持って、足場なども準備して洞窟に入って描いたのだろう。
なぜ、なんのために壁画を描いたのかについては、いろんな説があり、まだ定説はない。必ずしも一つの動機からではないのではないか...。
 たとえば、ラスコー洞窟には7つの空間があり、洞窟空間は同質ではない。空間ごとに描かれる動物、描き方、技法が異なっている。
 いつ描いたかは、炭を放射性炭素年代測定法で調べてみるとか、ウラン系列法とか最新研究を生かしている。すると、従来の定説が間違っていたりしている。
 壁画を描いたのは、現生人類の先祖であって、ネアンデルタール人は描いていないとされてきました。でも、今ではネアンデルタール人も壁画を描いたのではないかと著者はみています。
 洞窟壁画について466頁もの大作をまとめた著者に敬意を表します。それにしても1万年以上も、よく消滅することなく、よくぞ絵画が暗い洞窟内に残っていたものです。
(2023年11月刊。4500円+税)

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2024年5月 5日

武士の衣服から歴史を読む

日本史(中世)


(霧山昴)
著者 佐多 芳彦 、 出版 吉川弘文館

 武士の衣服は、絵画に図像化されているので、その図像をイラストにもしたうえで解説している本です。
 有名な『信貴山(しきざん)緑起絵巻』『伴大納言絵巻』『男衾(おぶすま)三郎絵詞(えことば)』『一遍上人(いっぺんしょうにん)絵伝』などに描かれた武士の衣服を対象として解説されています。
 「直垂」は「ひたたれ」と読みます。武家の代表的な衣服です。鎌倉時代に武家の幕府出仕の服となり、近世は侍従以上の礼服とされ、風折(かざおり)烏帽子(えぼし)や長袴(ながばかま)とともに着用されました。
 袖細(そでほそ)直垂は、袖が現在の和服のような袂(たもと)をもたず、細めの筒状のもの。袖は、現代人の洋服のように細い。
 鎌倉時代、武士相互のヒエラルキーの視覚指標化が進んだ。
 鎌倉時代の直垂は、絹製のものと布製のものが使い分けられた。
 室町時代は、直垂といえば絹製の裏地のある袷(あわせ)の仕立てのものをさす。そして、これが礼装として、武家服制の頂点にすえられた。直垂が礼装に格上げされたことから、本来の日常着・労働者の面、そして平時の正装を担う大紋や素襖が生まれた。
 足利将軍の家礼を貴族が武士の身なりをして勤めた。
江戸時代には、利便性を優先した肩衣(かたぎぬ)や武士個人の自由な選択が保証された胴服のような衣服が生み出された。
 江戸幕府の服制は、鎌倉幕府以来の武家服制、室町幕府末期から戦国期の衣服と服装習慣を一つにまとめ、そこに朝廷遺族社会の身分秩序である位階制度を組み合わせた。武家の官位の目的や意図を服制を用いて視覚化したのだ。
 木綿(もめん)が日本に伝わったのは、中世の、応仁年間(1467~69)の頃のこと。つまり戦国時代に広まった。したがって、その前の中世前半期にはまだ木綿は存在していなかった。
 『蒙古襲来絵巻』をみると、鎌倉時代の武家社会では、上位者は直垂、下位者は袖細というヒエラルキ
ーが見てとれる。
 源頼朝は、威儀を正す必要のあるときは、必ず水干(すいかん)を着た。鎌倉幕府の家人たちの射芸のおりの正装は水干だった。鎌倉幕府の実権を握っていた執権たちも水干を着た。頼朝は公的な場では水干を好んで着たが、日常生活や通常の政務などでは、狩衣や布衣(ほい)を着たり、ときに直垂を着ていた。
 たくさんの図があり、解説されていますが、残念なことに私には違いがよく分かりませんでした。でも、それなりに分かったこともありましたので、ここに紹介します。
(2023年10月刊。2200円+税)

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2024年5月 6日

謎の平安前期

日本史(平安)


(霧山昴)
著者 榎村 寛之 、 出版 中公新書

 平安時代は400年間続いた(794年から1192年まで...)。この本は、前半の200年は何事も起きていない平穏・無事な世の中だったという世間の強い誤解を払拭しようとする意欲にあふれています。
 藤原道長や紫式部が生きた、『光る君』の時代は、平安時代の後半の200年間。その前の200年間の実相を明らかにする本なのです。としても刺激的な内容でした。
 平安前期の200年間は、「巨大な転換期」であり、「面白く変化に富んだ時代」だというのが著者の考えです。
 墾田永年私財法は、崩壊寸前だった民政に民活を導入し、地域の再生を図る「雇用の創出」だった。
 地方に赴任した国守(こくしゅ)を受領(ずりょう)といい、受領は、五位程度の下級貴族にとってのもうけ口だった。
平安京をつくった桓武天皇は律令国家の王としては、変わった天皇だった。その生母は、倭新笠(やまとのにいがさ)、つまり渡来系氏族の出身だった。
桓武天皇は、天皇になれる皇族の条件をほとんどクリアにしていないまま即位した。奈良時代以前なら、天皇には、まずなれなかった。
 桓武天皇は、大学で教える漢語の発音を、伝統的な呉音(長江周辺の発音)から、漢音(長安周辺の発音であり、唐の標準発音)に切り替えた。
 日本でも、中国の科挙システムにならった、官人登用試験は8世紀以来やられていた。
 ただし、対象は大学を修了した者に限られる。大学は国家による教育機関。
8世紀から9世紀にかけて行われていた高等文官試験は、重箱の隅をつくような試験ではなく、現場の課題を解決するために必要な秀才を確保するという性格を明確にもっていた。
たとえば、その設問は、「新羅(しらぎ)に対する軍事行動の是非について、戦わずに服属させる方向で意見を述べなさい」というもの。これって、北朝鮮と戦争しないで平和共存する方策を述べよといわんばかりの設問ではありませんか...。
 平安時代前期には、一介の庶民が天皇や皇太子に学問を教えるまでに成り上がることを可能としていた。秀才たちをストックするのが「博士職」だった。うむむ、これはすごいことです。学者が優遇されていたわけですね。
 9世紀の前半までは、女官の身分は高く、自立性が高かった。
8世紀の日本は、貴族も庶民も、好きになれば婚姻し、飽きたら自然に切れる(離婚)というもの。実に規制のゆるい時代だった。なので、不倫を働くという観念自体がなかったのでしょう。『源氏物語』も、言ってみれば、「不倫」が不倫として非難されていませんよね。
 奈良時代には、宮廷に勤める男女は奔放に恋をしていた。その実例が何人もあげられています。
平安時代には社交界というものがなかったとしています。宮廷で仕事をしていない限り、貴族の男女が公的に出会う機会はなかった。歌会などは社交界じゃないかと勝手にイメージしていたのですが...。
 以上のことをしっかり認識するだけでも、本書を読んだ甲斐があるというものです。弁護士を50年してきた私の実感でもあります。日本人は古来、性におおらかなのです。
 統一協会に汚染された自民党政治家の主張の誤りは明白です。
(2024年2月刊。1100円)

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2024年5月 7日

奄美でハブを40年研究してきました

生物


(霧山昴)
著者 服部 正策 、 出版 新潮社

 ハブ捕り名人がいるそうですし、1匹4000円(今は3000円)でハブを地方自治体が買い取ってくれるそうですから、今やハブは絶滅危惧種の一つだと勝手に思い込んでいました。
 ところが、なんと奄美にハブは7万匹、徳之島にも4万匹はいるそうです。奄美大島の人口6万人弱よりも多いのです。なあんだ、絶滅を心配する必要なんてないのですね。
 ちなみに、奄美のマングース退治は成功し、ほぼ絶滅状態になったそうです。
それでも、今でもハブに咬まれる人が年に30~50人はいるとのこと。かつては年に300人以上だったそうですから、減ってはいます。
 そして、ハブに咬まれて死ぬ人は、明治時代は2割ほどだったが、今では10年ぶりに1人亡くなったという程度。
 ハブに咬まれたら、ともかく患部を吸い出したらいいそうです。そして、ハブ毒は飲み込んでも、それで死ぬことはないとのこと。
 ハブは神経質で臆病な生き物なので、人間を恐れている。ハブがいきなり襲ってくることはまずない。
 といっても、家の中に侵入してきて、就寝中にハブに咬まれる人がいるそうです。ともかく、油断しないこと、油断した人が、どんなにベテランであってもハブに咬まれるそうです。楽天的で大雑把な人ほどハブに咬まれる。
 ハブの毒は、ヤマカガシやマムシより弱い。ええーっ、そ、そうなんですか...。これも、イメージと違いますね。
 わが家の庭にも昔からヘビが棲みついていますが、マムシではなく、ヤマカガシではないかと心配しているのです。黒っぽい身体に毒々しい黄色なのです...。
 ハブに咬まれたら、体を温めて、すぐに病行に行くこと。咬まれたところを切開し、毒を洗い出し(吸い出し)、血清を注射すれば、まず生命は助かる。
 ハブは7月に産卵し、8月から9月にかけて孵化(ふか)する。
子ハブも大きいハブも木の上にいることが多い。ハブの寿命は最長30年ほど。
 ハブは寝たふりをして人間をやり過ごすことが基本だが、産卵後だけはピリピリしていて攻撃的。
ハブは気まぐれで、人に飼われてもなつかない。ハブは飛ばない(飛べない)し、いきなり飛びかかってくることもない。
 著者は、今では島根の山あいの田舎で農業をしているそうです。お元気にお過ごしください。面白い本でした。
(2024年3月刊。1600円+税)

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2024年5月 8日

コスタリカ

アメリカ


(霧山昴)
著者 伊藤 千尋 、 出版 高文研

 中米にある小さな国、コスタリカから日本は学ぶべきところが本当にたくさんあると実感させられる本です。著者は前は朝日新聞の記者で、今は国際ジャーナリストとして活躍しています。コスタリカ訪問ツアーのコンダクターとして、最近もコスタリカに行って帰ってきたばかりです(私はFB仲間なのです)。
 早朝というより夜中の3時に出発して、2時間かけて森の中のケツァールを見に行くというのです。極彩色の見事な小鳥なんですが、このスケジュールには私なんか恐れをなしてしまいます。
 コスタリカの人口520万人は、北海道の6割ほどの広さに住む。コーヒーやバナナを生産する農業国。
 コスタリカには軍隊がない。ええっ、それでどうやって国土を守っているのか。近くには、内戦が絶えなかったニカラグアやパナマそしてコロンビアなどがあるのに...。
国境警備隊と警察はある。しかし、両方あわせても1万人にみたない。戦車も軍艦も、戦闘機だって持っていない。自動小銃と迫撃砲しかない。
 でも、まず軍事予算の支出がないため、教育と福祉が充実している。教育費も医療費もタダ。
 こんな問いかけを受けたとき、あなたはどちらを選択しますか?
 兵士になりたいのか、いい教育を受けたいのか。兵隊になって上官から怒鳴られ人殺しをやらされるのを選ぶのか、人生で自分のモチベーション(動機)を見出すのか、どちらを選びますか...。
 いやあ、決まっていますよね。私は隣の韓国はすごいと日頃から思っていますが、一つだけ見習いたくないのは、韓国には徴兵制があるということです。有名な歌手の若者たちも、いろいろ騒がれながら、とうとう軍隊に入りましたよね。日本ではそれがないのを本当に私は良かった、すばらしいことだと確信しています。だって、人殺しの訓練なんか受けたくないし、朝から晩までしごかれるなんてまっぴらごめんですよ。
 病気になっても、コスタリカでは、薬も治療も、さらに手術代までも医療費は無料です。これだと安心して病院にかかれますよね。日本では、いくらか身体の具合が悪くても我慢している人が信じられないほど多い人です。医療費が高いからです。
 もっとも良い防衛手段は、何も防衛手段を持たないこと。本当にそのとおりです。
「抑止力」を持つといって、相手国が手を出したくないほどの軍備を持っていたら戦争が起きないっていう考えは明らかに間違いです。中国の軍事力を上回る軍事力を日本がもつなんて不可能ですし、もし本気で軍事力を増強したら国の経済は破綻し、国民生活は成り立たなくなってしまいます。
コスタリカの教科書には、政治家を信じるな、政府に批判的な目を持てと書かれている。
日本では、政府にモノ言わない、従順な生徒づくりがますます強まっていますよね。
自民党の政治家のあの無恥、厚顔ぶりを毎日のように見せつけられたら、政治家は信じられないと子どもたちは思うでしょう。でも、その次の行動が違います。
コスタリカでは子どもたちも選挙に積極的に関わります。選挙運動もするし、模擬投票もして、選挙はいつだって身近なものであり、大切なものだと実感しています。
ところが、日本では、「あなたまかせ」、投票所に足を運ぶことの大切さをまったく理解していません。残念です。
コスタリカでは国会議員は連続再選できない。選挙のたびに国会の構成が変わるのです。そして、完全比例代表制。いやあ、これはぜひ日本でも取り入れてほしいものです。日本では連続どころか、二世、三世の議員の議員だって珍しくないのです。おかしいと思います。政治家を職業とし、父子相伝にするなんて、私は間違っていると考えています。
そして、コスタリカの国会議員は男女ほぼ平等です。というのも、名簿の順番は男女を交互にするように定められているのです。うらやましい限りです。
コスタリカのツアーに参加した日本人が、現地に行って、道路はでこぼこ、学校の校舎はみすぼらしい、ホームレスが町にいる...といって、がっかりするそうです。そうなんです。コスタリカは天国ではないのです。それでも、人々は親切で、優しく、生きています。難民だって受け入れているのです。
どうでしょうか、こんな小さい国でやれることが日本で出来ないってことはないのではないでしょうか。読んで元気の出てくる本です。ぜひ、あなたもご一読ください。
(2024年3月刊。1800円+税)

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2024年5月 9日

腐敗する「法の番人」

司法


(霧山昴)
著者 鮎川 潤 、 出版 平凡社新書

 日頃、気になりながら、つい忘れかけていたことをいろいろ思い出させてくれる新書でした。
 まずは警察とマスコミの関係です。新聞・テレビを漫然とみていると、なんだか日本の社会は凶悪犯罪が次々に起こり、犯罪が増えて治安が悪くなっていると思わされます。
 ところが、実際には、以前は毎月1件以上は国選弁護事件を担当していましたが、このところ、年に1回あるかないか、です。被疑者弁護事件はときどき担当していますが、ともかく犯罪が圧倒的に激減しました。これは全国共通の現象です。
 殺人事件は戦後最低件数を更新しています。犯罪の認知件数はピーク時の3分の1にまで減っているのです。ところが、その事実を多くの国民が知ったら、警察の人員や予算を減らせという声が湧きおこりかねず、また、警察幹部の天下り先の確保が難しくなってしまいます。それで、「日本の治安はこんなに悪くなっている」と日本人に思わせるよう、警察はマスコミを操作しているのです。
 警察白書を発表するとき、警察は見出しの文句まで用意しておくそうです。いやはや、それをそのまま垂れ流すマスコミも、どうかと思ってしまいます...。
 今、高齢者の犯罪はたしかに増えています。それはスーパーやコンビニでの万引事件です。そこには病的な面もあるわけです。万引を繰り返していると、確実に実刑になります。コンビニで100円ほどのおにぎりを万引きして、常習累犯(るいはん)窃盗として、1年間も刑務所に入れておくことになるのが、珍しくありません。いったい、それにどれだけ意味があるでしょうか。なにしろ、1人を1年のあいだ刑務所に入れて国が面倒みると300万円もかかるのです。まるで費用対効果にあいません。
 刑務所の収容者は急速に高齢化しています。65歳以上の人が男性で1.4%(1990年)だったのが、13%(2020年)、女性は1.7%(1990年)だったのが、19%(2020年)に激増しているのです。そして、重罰化・長期刑化のなかで、刑務所の医療は、病気治療だけでなく、終末医療まで求められているといいます。だから、介護・福祉だけでなく、終末医療も必要というのです。驚くべき現実です。
 万引事件が増えたのは、防犯カメラの設置が増えたことにもよるといいます。コンピューター・システムの発達は「犯罪増加」にもつながっているのですね...。
 警察の裏金が大きな社会問題となりました。今ではまったくなくなったのでしょうか。とてもそうは思えません。勇気ある現職警察官による内部告発によって明るみに出たことでしたが、今もひそかにやられていないと果たして断言できるでしょうか...。
 ともかく、警察の裏金は図体がでかいために、ケタ違いでした。検察庁でも裁判所でも裏金づくりはやられていました。それはカラ出張によって旅費を浮かせているのが主流でした。しかし、公安警察ではスパイへの報償金という仕掛けがあります。スパイですから氏名を秘匿した人に支払うわけなので、それを担当刑事が着服していないか、誰もチェックできないのです。この手法を使えば、いくらでも裏金をつくり出すことができます。
 警察がスパイをつかっていないはずはなく、その報償金が明朗会計になっているはずもないのですから、今でも警察では裏金が公然と横行していると私は考えています。でも、よく考えてください。それって、業務上横領事件です。しかも、税金ですから、被害者は国民、つまり私たちなのですよ...。犯罪を取り締まるはずの役所が自ら犯罪しているとしたら、大問題です。
 検察、そして裁判所についても、その「腐敗」を鋭く暴いている真面目な新書でした。
(2024年2月刊。980円+税)

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2024年5月10日

死なないノウハウ

社会


(霧山昴)
著者 雨宮 処凛 、 出版 光文社新書

 軍事予算ばかりが際限なく増大していっています。そのときは財源のことは誰も(マスコミも!)問題としません。政府(自民党も公明党)も財源がないとは絶対に言いません。年金やら教育そして司法予算のときは、財源がないから難しいというくせに...。
 そして、生活が苦しい人はますます増えています。そして、その多くが、残念なことに投票所に足を運びません。あきらめきっているのです。悪循環の典型です。
 みんなが今の悪政への怒りを投票所に行って投票で意思を表明したら、この日本だって劇的に変わるのですが...。
 先日の衆院補選で「自民党全敗」は、それを裏づけています。それでも、投票率は5割を切っていましたよね。長年の自民党支持者が怒りのあまり自民党に投票しなかったというのであれば、それは許せるのですが...。
 日本では年間150万人が死亡し、そのうち10万6千人が、誰も弔(とむら)う人がいない。うち「無縁遺骨」は6万柱。
1人暮らしの65歳以上の5割近く(46.1%)が貧困ライン以下の生活を強(し)いられている。
 著者は、50歳台を目前にした独り身、そしてフリーランスの文筆業。なるほど、生活は大変だろうと推察します。著者は19歳から24歳までフリーターでした(1994年から1999年まで)。よくぞ生きのびましたね...。
 著者の人生初の海外旅行先が北朝鮮というのには驚きました。また、サダム・フセインの長男ウダイ氏と会談したなんて、珍しい体験をしています。
 日本では、「何か」があれば、生活が根こそぎ破壊される層が膨大に存在する。これは弁護士生活50年、そして地方の小都市でしょぼしょぼと弁護士をしてきた私の実感でもあります。タワーマンションなんて、はるか彼方の遠い別世界の話です。
 日本は、メニューを1字1句まちがえずに正確に、しかも正しい窓口で「注文」できた人だけが利用できる制度が提供されるというシステムの国。なるほど、そうなんですよね...。
 初め「ムテイ」というコトバを聞いたとき、何のことか分かりませんでした。
 本当にお金がない人が病気にかかったとき、「無料低額診療」を受けられるシステムが日本にはあるのです。そんなことを知らない人がほとんどだと思います。もっと知られていいシステムだと私は思います。根本的には、そんなシステムなんか必要ないほうがもちろんいいとは思いますが...。
 生活保護は、持ち家があっても受給できます。これは、実際、私も何件も体験しています。東京都内だと3千万円以下の持ち家なら、そこに住みながら生活保護を受けられるのです。年金を受けとっていたら、その差額ということにはなりますが、それでも医療保護で自己負担なくというのは強い味方になります。
 この本には、入居時に6千万円を支払ったうえ、毎月35万円を支払うという高級な老人マンションに入居した人の話が紹介されています。トータルで1億円とか1億5千万円もかかるそうです。とてもとても、そんなところには住めませんよね。ところで、そんなところに入って、いい景色を毎日ずっと眺めていたら、刺激が乏しくて、認知症に早くなってしまわないか、心配します。著者が話を聞いた人は、結局、そんなマンションから早々に脱出したそうです。やはり実社会でもまれてきたほうが、生きているという実感がありますからね。
 私は、やはり、人間と人間の関わり、多少わずらわしいくらいの関わりがあることを大切にしたいです。生き抜くためのヒントがたくさんある本です。
(2024年4月刊。990円)

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2024年5月11日

怪物に出会った日

人間


(霧山昴)
著者 森合 正範 、 出版 講談社

 私はボクシングなるものには全然関心がありませんし、見ようとも思いません。なので、井上尚弥というボクサーが「怪物」とか「モンスター」と呼ばれているなんてこと自体知りませんでした。という私ですが、大学生のころは、マンガ「あしたのジョー」は熱心に読んでいました。寮生活をしていましたので、誰かが買って読んだものがまわってくるのです。ですからタダ読みです。自分で週刊マンガ(「ジャンプ」とか「サンデー」)を買って読んだことはありません。寮にいるかぎり、買う必要がありませんでした。
 「あしたのジョー」は、たしかにカッコ良かったです。「力石徹」という敵役のボクサーと文字どおり死闘をくり広げる最終盤は、次の週が待ち遠しかったです。
 さて、この本は、モンスターの井上尚弥とたたかって負けたボクサーを取材し、なぜ井上尚弥は強いのか、どうして負けたのかを探ったものです。
 敗軍の将、兵を語らずと言いますが、負けたボクサーがどんな試合だったのか、取材に応じて語ってくれるのか、取材の前、大いなる不安がありました。でも、取材してみると、大半のボクサーが自分の生い立ちをふくめて、実に生々しく対井上戦の詳細を語ってくれ、わざわざ取材しにきてくれてありがとうと感謝するのです。これには驚きました。それほど、対井上戦の衝撃は大きかったというわけです。
 この本を読んで、まず第一に驚いたのは、著者がボクシングが好きで、その魅力を広く伝えたいと思って記者になったと明かした記述です。いやあ、世の中は広いですね。ボクシングの魅力を広く世間に知ってもらいたくて記者になったなんていう人が、世の中には存在するのですね...、信じられません。
 後楽園ホールでアルバイトするために大学に入ったというのです。大学に入ったら、好きな格闘技を会場で、生で、ずっと見ていられる。夢のような話を実現するため、急に勉強しだしたのでした。押し入れから中学1年の英語の教科書を探し出して、その日から勉強を始めたのです。そんな人生もあるのですね...。
 井上尚弥と闘った対戦相手はこう思った。
 開始して1分あまりで「動きを読まれている」と体感した。
 井上はすぐに距離感をつかみ、瞬時に相手の動きを見抜く、類いまれな能力がある。井上は、パワー、スピード、距離感、技術、柔軟性、目の良さ、全部すばらしい。でも、一番すごいのは、心だ。格好をつけることもなく自然体。ボクシングで一番大事なことは、気持ちで負けないこと。
 メキシコでボクサーとして成功するためにもっとも必要なものは「規律」。規律を守らなければ、毎日毎日のプロセスを踏めないし、計画どおり進めることができない。すべての土台になるのが規律だ。
 毎日毎日、動きが身体になじむまで繰り返す。強くなるのに秘密や秘訣はない。ただ練習するだけ。
 井上はすごい。本当にしっかり練習している。練習していないと、あのスピードは出ないし、足も使いきれない。地面をけって、そのエネルギーが拳の先まできちんと伝わっている。それを繰り返し、しかも、そのスピードが速い。打つときには最後しっかり拳を握っているので、強いパンチになる。
 うむむ、これってまったくの門外漢にもなんとなく実感で分かりますよね...。
井上尚弥は小学1年生のときにボクシングを始めた。15歳以下の全国大会で優勝。高校生時代は1年生のときに三冠を達成した。いやあ、さすがにすごいですね。
 大切なのは、お金ではない。ボクサーとしてのプライドであり、信念。自分を待ち続けること。リング上で敵と2人だけで対決する。レフェリーは、もちろん何も手助けしてくれない。
 いやあ、ボクサーたちの生き様はすさまじいものがありました。発売して3ヶ月間で、早くも5刷というのも見事です。
(2024年1月刊。1900円+税)

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2024年5月12日

あっぱれ!日本の新発明

社会


(霧山昴)
著者 ブルーバックス探検隊 、 出版 講談社新書

 日本のものづくりの力が最近いちだんと低下しています。企業がアメリカ流の労務管理で目先の利益ばかり追い、非正規社員を増やして若い人を使い捨てる企業風土から斬新なイデアが生まれるはずもありません。
大学もそうです。営利本位の大学運営は日本の発展を妨げるものです。一見すると役に立ちそうもない研究だって、やりたい人がいる限り自由にやらせたらいいのです。それくらいの包容力のない社会からは新奇(珍奇)な発明・工夫が生まれることがないでしょう。
でも、この本を読むと、そんな日本の現状ではありますが、まだまだ捨てたものではないと思わせてくれます。少しばかり安心もしました。
 いろいろすごい新発明が紹介されていますが、身近なところでは「地中熱」の利用というアイデアには驚かされました。竪穴(たてあな)式住居は私も復元家屋を見たことがありますが、その床は地面より低くなっています。
季節を問わず、深さ1メートル以下の地中の温度は15度ほどで一定(安定)している。これを利用した冷暖房にすると、CO2の排出量を大きく減らすことができる。東京スカイツリーの冷暖房ですでに利用されているそうです。
 地中熱を利用した冷暖房によってハウス内の温度を15度以上にキープし、福島県広野町では、皮ごと食べられる甘い高級バナナを育成中といいます。
 次は、ブラックホールならぬ「暗黒シート」。暗黒シートは光を反射しないので、黒々としている。ビロードのような不思議な感触。ザラザラではなく、ツルツルでもない。表面は、円錐状の穴で埋め尽くされた状態。光がこの穴に入ると、吸収されて出れなくなるので、暗黒になる。
 暗黒シートの現在の光吸収率は99.5%。つまり、0.5%はまだ光を反射している。水深200メートルの深海だと0.1%の反射率なので、そのレベルまで、あと少しのところ。
 暗黒シートはゴム製で、カーボン(炭素)を混ぜた黒いシリコンゴムを鋳型(いがた)に流し込んでつくっている。
 日本の学者の自由闊達な研究、そしてそれを支える企業の伸び伸びと働くだけの資金力の保証、ぜひとも応援したいです。
(2024年1月刊。1100円+税)

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2024年5月13日

生きものたちの眠りの国へ

生物


(霧山昴)
著者 森 由民 、 出版 緑書房

 依頼人と話しているとき、不眠症の人が意外に多いことに驚かされます。
ベッドに入るのは10時ころ、眠るのは午前3時で、朝の7時には目が覚める。なので、毎日の睡眠時間は4時間。これは30代の男性の話です。いやあ、大変ですよね・・・。ぐっすり眠れないと疲れがどんどんたまっていき、病気になってしまいます。
 「眠りは、優しい母と美しい姉が一体になったものだから、なかなか僕の寝室には恥ずかしくて来てもらえないのだ」(中井英夫「眠り」)
 睡眠は非常に効果的に脳の機能を回復させる。
私は徹夜したことは高校生時代に1回、そして大学生のときに1回だけあります。弁護士になってから徹夜したことは1回もありませんし、30代のころ午前2時まで起きて書面作成したことが1回ありましたが、回らなくなった頭ではどうしようもありませんでした。高校生のときは、実験的に徹夜してみたのですが、まるで効率が悪いことをして1回でやめました。大学生のときは、サークルの夏合宿のときに彼女と話し込んで夜が明けたというわけですが、これまた次の日は散々でした。
 ともかく夜の12時を過ぎたら頭が回転しなくなります。身体全体が明らかに機能不全になっていることが分かります。なので、最近は夜11時までに寝るよう心がけています(それでも、ときどきは12時近くになってしまいます。でも12時過ぎまで起きていることは絶対にありません)。
レム睡眠とノンレム睡眠と、はっきりしているのは、ほ乳類と鳥類だけ。ちなみに、鳥類については、「ここまでが恐竜で、ここからが鳥」という客観的な区分はできないので、恐竜そのものの延長線で考えられている。レム睡眠のあいだに、記憶の重みづけが行われると考えられている。
水族館のイルカは、泳ぎながらの「遊泳睡眠」、プールに浮いて眠る「浮上睡眠」、沈んで眠る「着床睡眠」の3つがある。
オランウータンは、ベッドに入ると、体の上に枝葉をかけぶとんのようにかぶる。雨が降ると、枝葉を傘のように使う。
オランウータンは、毎日夕方の5時から6時くらいに数分間でベッドをつくる。ゴリラは、夜でも地上で眠ることが多い。
犬は平均して30~40分を1単位とする睡眠をとっている。1回のレム睡眠は10分以内。動物園のゾウは、ひと晩に4~6.5時間しか眠らない。
カイメン類の祖先は6億年以上前からすでに存在していた。もっとも原始的な多細胞動物の姿を受け継いでいるようです。このカイメンには、全身をつなぎ合わせてコントロールする神経は存在しない。それどころか、ばらばらの細胞にされても、また細胞が寄り集まって再生する。
睡眠が大切なことを改めて認識させられる本でした。
(2023年12月刊。2200円+税)

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2024年5月14日

続・農家の法律相談

司法


(霧山昴)
著者 馬奈木 昭雄 、 出版 農文協

 私は読んだことがありませんが、『現代農業』という雑誌があるそうです。全国の農家を対象とする業界誌なのでしょう。
 そこで著者は、32年の長きにわたって農家から届くトラブル・悩み事に対し、誌上で回答しているのです。その長さに驚かされます。
 もっとも、私も民商(民主商工会)の全国機関紙である「全国商工新聞」に月1回の法律相談のコーナーを1989年7月から担当して35年になります。新聞のコーナーですから、短い文章で、いかに分かりやすく回答するか、いつもない知恵をふりしぼっています。
 この本は15年前に同旨の本を著者は刊行していますので、その続編になります。最近は民法も次々に改正されていますので、回答した時点では正しくても現在の出版時では間違いになったりもします。そこは若手の吉田星一弁護士がチェックしていますので、安心です。
 さて、内容です。さすがに農家からの質問ですから、農地、生育環境と農薬にかかわるもの、農事組合法人や土地改良区をめぐる問題など、農家をめぐる諸問題についての百科全書みたいに、かなり網羅的な内容になっていて助かります。
 手元に1冊置いておくと、農家の皆さんはきっと安心されることでしょう。
 私がまず関心をもったのは農薬です。自家消費の野菜のほうは無ないし低農薬にしているけれど、商品として出荷するものは、許される限度までふんだんに農薬を使用しているというのはよく聞く恐ろしい現実です。
 隣の農家がネオニコチノイド系の殺虫剤(スタークル)を散布したためミツバチが死んで、生物栽培に影響が出ているので損害賠償を請求したい...。当然に請求できるわけです。
 同じように、隣人が勝手に畑の法面(のりめん)に除草剤をまいたというのも違法行為として賠償請求できます。
 この本で厄介な問題だ、難しいという回答が多いのは、村落共同体の一員として今後も生活していかなければならないときです。馬奈木弁護士も「法的解決」では解決しないと回答しているのがあります。
 問題点を周囲の人に具体的に説明して、仲間を増やすという「努力を地道に続けるしかない、そんなことも世の中では多いと私も考えています。
土地改良地域内に農用地を所有していたら土地改良区は法律によって、強制的に加入させられる。うひょお...、そうなんですか、ちっとも知りませんでした。
 農家には、専業か兼業かを問わず、役に立つ1冊であることを私が保証します。ぜひ買って読んでみてください。おすすめします。
(2024年2月刊。2200円)

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2024年5月15日

人道の弁護士・布施辰治を語り継ぐ

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 森 正 ・ 黒田 大介 、 出版 旬報社

 戦前の日本で人権擁護のために大奮闘した布施辰治弁護士について書かれた本です。
布施辰治自身が治安維持法違反で警察に逮捕されて留置場に放り込まれたときの驚くべき話を紹介します。なにしろ当時は、弁護士が法廷で共産党員の弁護人として弁論すると、それ自体が「目的遂行罪」にあたるとして特高によって検挙されたという時代です。
 1933(昭和8)年11月、両国警察署に布施辰治はまわされてやって来ました。すると、それを知った人たちが、監房で歓迎会をやったというのです。勝目テル(当時38歳)という、同じく治安維持法違反で検挙されていた人が体験記を書き残しています。
 11月7日はロシア革命が成功した記念日だ。何かお祝いをしようと勝目が考えていると、なんと有名な布施辰治弁護士がまわされて入ってくるという。それでは歓迎会を兼ねて革命記念祝賀会をしよう。勝目は親しく話せるようになっていた看守長に話を持ちかけた。すると、看守長は布施弁護士について関東大銘を受けていたらしく、「わしは首になっても賛成する」と即決賛成してくれた。最古参の看守長が賛成というなら、残る3人の看守ももはや異議は言えない。もちろん、上にばれないようにしなければいけない。1日3回、夜の9時が最後だ。それから祝賀・歓迎会をやることになった。
 このとき留置場には、1929年2月に捕まった説教強盗として名を売った30歳すぎの男、神兵隊事件で検挙された右翼もいたが、歓迎会には全員が協力してくれることになった。みな面白いことに飢えている。
 看守4人が手分けして見張ってくれて始まった。各房から代表として選ばれた人が布施弁護士の入っている房の前に立って、それぞれの持ち芸を披露する。説教強盗は物真似を始めた。見事な、本職はだしの物真似だ。自称スリの名人は浪花節(なにわぶし)をうなる。浅草公園の主(女性)はこれまた驚くほど見事なダンスを披露して、拍手喝采だ。やんややんやの拍手で大いに盛り上がっていく。最後に、勝目たち活動家11人が、それぞれの房の格子戸の前に立ち、「インターナショナル」を合唱する。
 歓迎会の終わりに、布施辰治は房の中から感激のあまり声が震えながら、お礼の言葉を述べた。
 「私も、ながいあいだ、不当な勾留に閉じ込められて、あちこち留置場をまわってきましたが、こんなに楽しいところはありませんでした。諸君の今夜の温かい贈り物を私は生涯、心に留めて、諸君とともに闘っていくことを、ここに誓います」
 そして、次に緊張した顔つきの看守たちに笑顔を向けて、こう言った。
 「諸君の予想外の御支持に対して厚くお礼を申します」。軽く頭を下げて「こういう居心地の良いところなら、いつまで居てもいいと思うくらいです」と結んだ。それを聞いて、看守をふくめて思わずみんな手を叩き、大爆笑となった。
 勝目は胸が熱くなり、看守長に対して、「ありがとう、ありがとう」と何度も頭を下げたが、それ以上は言葉にならなかった。あとで、この看守長は、この歓迎会のことがバレて、早期退職に追い込まれたという。
 どうでしょう。信じられない話ですよね。でも、実話だというのです。私は、これを読んで、思わず胸が熱くなりました。本書で紹介されているところに少し付加しています。ぜひお読みください。
(2023年12月刊。1800円+税)

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2024年5月16日

ずっと、ずっと帰りを待っていました

日本史(戦後)


(霧山昴)
著者 浜田 哲二・律子 、 出版 新潮社

 1945年4月から5月にかけて、沖縄で日本軍はアメリカ軍の大軍と文字どおりの死闘を展開しました。それは、東京の大本営からアメリカ軍の本土上陸を少しでも遅らせよという命令にもとづくもの。つまり、沖縄の日本軍は全滅してよいから、アメリカ軍と必死に戦い、その前進を少しでも遅らせろというものです。そこでは日本軍が勝利することなんて、ハナから期待されていませんでした。
 アメリカ側で戦史を研究している学者のなかにも、日本軍の頑強な抵抗を乗りこえ、それを踏みつぶすような苛烈な戦いをする意味はなかったとして、アメリカ軍の強引な戦法を厳しく批判している人がいます。沖縄なんかとり残して日本本土の上陸作戦を敢行したほうがアメリカ軍将兵の犠牲はよほど少なかったはずだというのです。それほど、沖縄におけるアメリカ軍の将兵の犠牲は大きかったのです。寸土を争う激闘にどれだけの意味があったのか、アメリカ側からも批判があるわけです。
 そのことは本書を読むと、よく分かります。日本軍の戦い方は、まったく特攻精神そのもの、生還を期さない戦法です。なので、この本の一方の主人公、伊東孝一という、当時24歳の若さで第一大隊長(大尉)として1000人もの部下を率いて戦い、アメリカ軍から陣地(高地)を奪還し、それでも生き残ったというのは奇跡としか言いようがありません。部下の9割は死亡したけれど、大隊長は生き残ったのでした。そして、この生き残った大隊長は、戦後、死んだ部下の遺族600人に手紙を送ったというのです。
 そして、手紙を受け取った遺族から返信がありました。その返信356通を著者夫婦は伊東孝一元大隊長(当時95歳)から預かったのです。著者夫婦は、この356通の返信を発信した遺族(さらに、その遺族)に面談して手渡すのを始めたのでした。
この返信された手紙の8割は北海道在住。というのも、部隊の将兵の所属が北海道だったから。
 1946(昭和21)年ころに発信された遺族を探し出すのは困難をきわめます。当然です。70年以上たっているのですから...。それでもなんとか探し出していきました。
 「どうして、あんなに早く、(アメリカ軍の)上陸直後にやられたとは思いませんでした。少しでも、奮戦した後だったらと、それのみ残念でなりません。過去のことは考えても何にもならず、将来の生活に身を固めて、父の顔も知らない一子、隆を一人前に育てあげ、故人の意思を生かせるべく、決心いたしました」
 その隆さんは、「驚いたなあ、お袋が親父をこんなにも思っとったとは...」と語りました。
 「承(うけたまわ)れば、主人の最期は壮烈なるものにして、その功績、その殊勲は至高なり、ということですが、それは空(むな)しき生命だったとあきらめる道しかありません」
 その子たちは、「私ら兄弟は、青森名物のねぶた祭が大嫌いでした。同級生たちが両親と楽しそうにしているのを見たくなかったのです。運動会の弁当は、近くの畑に落ちている未成熟のリンゴ、校庭から抜け出し...捨てられている実をかじって昼ご飯にしていました」と語ったのです。これを読んで、私はついつい涙があふれ出してしまいました。戦争のむごさは子どもに及ぶのですよね。
 「礎(いしずえ)とは肩書きだけ、犬猫よりおとる有り様ではありませんか。村長も二言目には犬死にだとしか申されません」
大切な息子が戦死したというのに、その代償となる遺族年金は雀の涙だった。これが庶民にとっての戦争の現実です。
「死に水くらいは飲めましたか。遺品など何もありませんでしたか。追撃砲の集中砲火を浴びたとか。肉一切れも残さずで飛び散ってしまったのですか」
アメリカ軍の土砂降りのような猛攻撃の下で、まさしく肉一片も残さず、将兵の肉体は跡形もなく飛び散って死んでいったのでした。本当にむごい戦争の現実がありました。その状況をなんとか遺族に伝えようとした伊東元大隊長の心境を推測するしかありません。
「今は淋しく一人残され、自親もなく子どももなければ、お金もなく、暗黒な遭遇、並みの社会生活から一人淋しく投げ出されたように、国を通じての敗国の惨めさ、路途に迷い、気力を一時は失わんばかりでした」
「赤裸々に申し上げますならば、本当は後を追いたい心で一杯なのでございます。すべてを死とともに葬り去ったなら、どんなに幸福かしれません。されど、残されし、三人のいとし子を思うとき、それは許されないことです。かつては歓呼の嵐に送った人々の心も今は荒(すさ)みにすさんで、敗戦国の哀れさ、ひとしお深うございます。でも、私は強く生き抜いて参ります。すべてを子らに捧げて、それがせめてもの、散りにし人への妻の誠ですもの」
伊東元大隊長は、2020年2月、99歳で死亡。
その生前、戦争は二度と起こしてはならないと語っていたとのこと。
著者夫妻は、356通の手帳の4分の1を遺族へ返還したそうです。大切なことを、よくぞ成し遂げられました。そして、その過程をふくめて本書にまとめ上げられたことに心より敬意を表します。
(2024年2月刊。1600円+税)

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2024年5月17日

シン・中国人

中国


(霧山昴)
著者 斎藤 淳子 、 出版 ちくま新書

 今の日本では、「中国脅威論」なるものが大手を振るって通用し、自民・公明がすすめている途方もない大軍拡予算を支えています。
 でも、それって思い込みでしょう。自民・公明そして維新などの政治家、さらには軍事産業でもうけようとしている人たちによる世論操作に乗せられているだけです。私はそう思います。戦争のないようにするのが政治家の役目なのに、今にも戦争が起こりそうだと危機をあおって、自分たちはひそかに金もうけにいそしむ。それが自民・公明の政治家たちの正体ではありませんか...。
 この本は「脅威」の対象となっている中国の若者たちの実情の一端を伝えています。
 まず私が驚いたのは、中国には離婚にあたってクーリングオフ(「冷静期」)があるというのです。離婚手続申請後の30日間は、手続きをいったん凍結するのです。日本でも、「共同親権」なんて実情にあわない馬鹿げた、しかも怖い手続を導入するより、よほどいいかもしれません。
 さらに驚いたことは、恋愛中の(そして結婚している)男性は、女性にスマホのパスワードを開示する習慣があり、男性は断れないというのです。カップル間では一切の秘密があってはならないというわけですが、果たして現実的なのでしょうか...。
 そして、結婚するとき、男性側は新婦側に結納金を贈る必要があり、今では、その相場が18万元(360万円)になっているというのです。この結納金を新郎側から新婦の家に贈る習慣は2千年以上の歴史があるそうですが、昔はこんなに高額ではなかったのです。
 ところが、一人っ子政策、そして男性が女性より圧倒的に多くなってしまった結果、結婚したければ高額の結納金を支払えということで、年々、高額化していったのです。
 さらに、今では、結婚したいなら、男はマンションを準備しなければいけないという「新しい常識」が定着しているというのです。しかもそのマンションたるや、1億円だったら安かったよね...というほど値上がりしています。マンション購入はカップルではなく、新郎側のファミリー全体のプロジェクト化しているのです。いやはや、お金がなかったら、結婚できないというわけなので、これも恐ろしい社会だというしかありません。
 北京在住26年という日本人女性が、中国人の生活の変貌ぶりを生き生きと伝えていて、驚きながら一気に読み通しました。
(2023年2月刊。860円+税)

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2024年5月18日

治安維持法と特高警察

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 松尾 洋 、 出版 教育者歴史新書

 1928年の「3.15事件」、つまり日本共産党の一斉大量検挙が行われ、小林多喜二が当事者への取材をもとにして小説『1928.3.15』を書いた事件のあと、すべての県に特高課が設けられ、警察署には特高主任か特高係事務がおかれた。
 特高警察は、内務省が人事の任免権を握っていた。各道府県の特高課長は、指定課長、指定警視と呼ばれ、内務省が府県知事に任命すべき人物を指定していた。特高警察の活動費である機密費は中央から直接手渡された。
 各地で収集された情報は内務省の警保局に集中され、中央集権機構が確立されていた。警察制度そのものが中央集権的だったが、特高警察はさらに中央集権的であり、特高警察官は一般警察官のなかでの最高のエリートだった。
警視庁の特高部には最多600人、大阪府警察部に150人、大きい警察署で7.8人、小さい署で2.3人いた。在外公館勤務員をふくめ5000人ほどいた。
特高警察の「武器」となったのが治安維持法、なかでも「目的遂行罪」が大いに威力を発揮した。
 目的意識がなくても、当局が「結社の目的遂行のためにする行為をなしたる者」と認定すれば犯罪が成立するというものです。カンパに応じたり、一夜の夜を提供しただけであっても、犯罪として検挙されることになったのです。
 まさしく暗黒日本としか言いようのないひどい治安維持法の怖さを再認識しました。
(1979年4月刊。600円)

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2024年5月19日

「伊賀越之」

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 小林 正信 、 出版 淡交社

 本能寺の変が起きたのは1582(天正10年)6月2日未明のこと。そのとき、徳川家康たちは堺で何をしていたのか、何のためにこのとき堺にいたのか...。もちろん、このとき秀吉は毛利勢と対峙して岡山あたりにいたのです。
 家康は織田信長の死を知ると、一時は自分も京都に行って光秀と戦って死のうとしたそうです。それは止めてと家来が必死に止めたのでした。そこで、家康主従250人は堺を出て伊賀越えして尾張・岡崎の自分の領地に戻ることにします。
 でも、途中で光秀の軍勢に襲われたら、ひとたまりもありません。なにしろ総勢わずか250人、そして、ろくな武器も持っていないからです。どのルートを通るのか、250人が一団となって逃げるのか、いろいろと考えなくてはいけませんでした。
 この本は、現在の京都府京田辺市で「草内(くさじ)・飯岡の戦い」があったという新説を提起しています。
 完全武装の明智軍1000人ほどと、弓も鉄砲も持たない徳川の兵200人が戦い、徳川方はほぼ全滅したというのです。でも、この戦いによって徳川家康たち50人は無事に岡崎に帰りつくことができたとしています。
 全滅した200人を率いていたのは穴山梅雪など。明智軍がこのとき徳川方に勝利できなかったのは、総大将が行方不明になっていたから。その総大将とは誰のことか...。
 家康が安土に参勤し、京都へ上洛した真の目的は、「織田・徳川同盟」の正常化と修復にあった。
 家康主従が上洛するにあたっての安土城での接待について、信長と光秀の間に軋轢(あつれき)があったという話は有名ですが、それは一体どれほどのものだったのでしょうか...。
 著者は、光秀について、織田政権の畿内統治の要だとみています。
 そして、織田政権の畿内統治は、直接統治ではなく、あくまで光秀を主体とする間接統治だというのです。それほど織田信長は光秀の存在を重くみていたのです。
 信長は、秀吉の注進を受けて、「西国出陣」に明智軍を動員して厄介払いすることにした。信長にとっての意外は反乱が起きないようにしながら起きてしまったこと。
 光秀は、当初から、その間隙(かんげき)を狙っていた。
 この本では、本能寺への襲撃と同時に家康主従へも襲撃するというのが光秀の作戦だったとしています。そして、この家康主従への襲撃部隊の総大将を長岡(細川)藤孝だとするのです。
 徳川主従と別行動をとった200人はオトリの役目を果たして明智軍からたちまちせん滅されてしまいました。この200人を率いていた穴山梅雪は家康のふりをしていたというのです。したがって、穴山梅雪の犠牲なくして徳川幕府は成立しなかった。それで、家康は影武者を引き受けた穴山梅雪の遺族を丁重に扱った。
 穴山梅雪が家康の影武者の役割を果たしたなどという新説を裏付ける資料が、本書のなかに今ひとつ見えてきませんでした。
 そして、信長と同時に光秀が家康も倒そうとしたという点についても、資料による裏付が足りない気がしました。
それでも、新説ですし、従来の通説とは明らかに異なっていますので、面白く読み通しました。
 ところで、「かかわらず」を「関わらず」とする初歩的な誤りが再三目について困りました。「関」ではなく、「拘」です。編集者の校正段階で是正されなかったのが残念です。
 著者より贈呈いただきました。ありがとうございます。
(2024年5月刊。2500円+税)

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2024年5月20日

カーイ・フェチ(来て踊ろう)

アフリカ


(霧山昴)
著者 菅野 淑 、 出版 春風社

 セネガルの路上やナイトクラブで開かれるパーティで踊られるダースである、サバールを徹底的に解き明かす本です。
サバールダンスはなかなか難しいようです。一見するとやさしく真似できそうなのですが、ドラマーと息を合わせるのは至難の技(わざ)なのです。
 一度、ユーチューブで見てみたら、もう少し理解できるのかもしれません。文字だけでいうと、次のとおりです。軽い飛躍をともないながら、右足を高く振り上げ降ろす一つ目の動きに続き、左右交互に足を踏みつつ、大きく左右の腕を扇風機かのごとく振るステップ。踊り手の身体と、ドラマーとが「会話」する。この「会話」こそが、サバールダンスを踊る上で重要な要素である。ここまで書いたあと、ユーチューブで見てみました。たしかに日本にはない、激しく全身を動かします。
 セネガルはアフリカ大陸の西にあり、その広さは日本の半分ほど。人口は1773万人。21の民族がいて、公用語はフランス語。イスラム教徒が95%で、キリスト教徒は5%。
 首都ダカールの人口は340万人。かつてカースト制度があり、現在でも公式には廃止されていても、根強く残っている。踊るのは身分の低い人(ケヴェル)がするものという見方が厳然として存在している。サバールの太鼓を演奏するのは、男性のケヴェルだけ。
 ダンサーの足はペンであり、ドラマーが演奏する音符を描く。良いドラマーは、音符の読み方を知る必要がある。こうして、即興的な「会話」が成立する。
 サバールが踊られる場は、娯楽であり、人生儀礼を祝う場であり、若い女性の社交の場でもある。
日本人女性がセネガルに行って、このサバールダンスを身につけ、なかには一生の伴侶を得て、日本にカップルで戻ってくるケースも少なくないとのこと。そして、サバールダンスを日本で教えるのです。すごいですね。
 日本に在住するセネガル人のダンサーやドラマーは全員が男性で、女性はいない。
 日本人にとって、サバールダンスを学ぶ難しさは、手と足をバラバラに動かさなければならないうえ、跳躍をともない、かつ一定のテンポで踏むステップではないから。
 しかし、このサバールステップを踏めずして、サバールダンスを体得したとは言い難い。
 サバールダンスの魅力は、日本の踊りとの共通点がなく、独特で唯一無二のダンス、そして複雑なリズムにある。
 いやあ、すごいですね。アフリカのセネガルに定住してまで、その独特のダンスを身につけようという日本人女性が少なからずいるというのに、驚きました。
(2024年2月刊。3500円+税)

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2024年5月21日

後期日中戦争・華北戦線

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 広中 一成 、 出版 角川新書

 自衛隊の幹部が今もなお「大東亜戦争」と呼んでいるのを知って、思わずひっくり返りそうになりました。「大東亜」って、一体、何のことですか...。
日本は朝鮮を植民地として支配し、満州も間接的に統治して、悪名高い七三一部隊を置いて人体実験を繰り返しました。そして中国大陸で日本軍は「三光作戦」をあくことなく強引にすすめました。焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くすというのです。そんな悪虐非道の軍隊に民心がなびくはずもありません。日本軍が中国大陸で戦争に勝てなかったのは当然なのです。
日本は中国で点と線だけを支配していましたから、周囲を取り囲まれて全滅する拠点が生まれるのは必至です。
いやいや、太平洋方面とは違って、日本軍は中国大陸に何十万人もの軍隊を敗戦時まで常駐させていたのだから、決して日本は中国に負けてなんかいなかったんだと今なお強弁する人がいます。とんでもない間違いです。
たしかに、日本軍は上海から南京まで勝って前進しました。南京大虐殺はその過程で日本軍が犯した蛮行の一つですが、実のところ、それ以上は地上を前進することはできなかったのです。なので、上空から重慶を無差別爆撃しました。そのしっぺ返しが東京大空襲に始まる日本全土の都市への無差別爆弾攻撃であり、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下です。
1940年8月から12月まで、中国共産党の八路(はちろ)軍(「パーロ」と呼ばれます)は日本軍に果敢に攻撃をしかけました。八路軍の兵力は115個団・40万人です。八路軍も多大の犠牲を払いましたが、日本軍は3万人もの死傷者を出し、3千ヶ所の拠点を喪ったのでした。日本軍は、このときまで八路軍をまったくバカにしていたのでした。なので、不意打ちを喰ってしまったのです。
日本軍は深刻に反省して、八路軍についての認識をあらためました。日本軍の主任参謀は次のように報告しました。
「八路軍は単なる軍隊ではない。党、軍、官、民から成る組織体である。明確な使命感によって結合されているのであって、思想、軍事、政治、経済の諸施策を巧みに統合し、政治7分、軍事3分の配合で努力している。したがって、日本軍も軍事のみでは鎮圧できず、多元的複合施策を統合して発揮しなければならない」
しかし、日本軍がそのような多元的複合施策を展開できた(できる)はずもありません。
善良な日本人から成る、規律正しい日本軍が中国大陸で悪虐非道なことをするはずがない、そんなことをした証拠もないと今なお言いつのる日本人がいます。しかし、そんな人は単なる思い込みにすがっているに過ぎません。
今のイスラエルのガザ侵攻をみてください。すでに3万5千人以上の罪なきガザ市民が殺されています。一人ひとりのイスラエル軍兵士がいかに善良であっても軍隊となると、平気で大量人殺しをするのが戦争なのです。
「パーロ(八路軍)とともに」(花伝社)という本を書いた者として、後期日中戦争の実際を知りたいと思って読みました。ともかく、戦争だけはしてはいけません。岸田政権、それを支えている自民・公明党を支持していることは戦争を招き寄せているようなものだと、つくづく実感しています。

(2024年3月刊。960円+税)

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2024年5月22日

「裁判官の良心」とはなにか

司法


(霧山昴)
著者 竹内 浩史 、 出版 LABO

 弁護士を16年間したあと、2003年4月から今も裁判官をつとめている著者が裁判所の内情をつぶさに明らかにしている本です。
 16年間の弁護士生活のなかでは市民オンブズマン活動にいそしみ、情報公開請求も取り組みました。そして青法協(青年法律家協会)の会員であり、愛知県支部の事務局長を5年間つとめました。
 裁判官になってからは、実名を出して「弁護士任官どどいつ」というブログを20年間続けています。裁判官が実名でSNS発信しているのは先日、不当にも罷免された岡口基一元判事と2人だけでした。もう1人だけ匿名で発信している若い裁判官がいるそうです。「駆け出し裁判官nonの裁判取説」です。
 著者が大分地裁につとめていたとき、村上正敏所長に呼びつけられ、ブログをしていることについて「査問」されたとのことです。この村上所長は、著者が異論を述べると、あとで「君は僕に口答えをしたね」と非難したというのです。まさしく官僚そのものの発想ですね。この所長は、その後、順当に出世していったとのこと。
 著者は民事裁判官としての「良心」は、第1に正直、第2に誠実、第3に勤勉だとしています。だから、裁判はとにかく早ければいいというものではないとしています。まったく同感です。なので、AIには裁判官の代わりはできないし、させるべきではありません。
 著者が弁護士任官で裁判所に入って驚いたことの一つは、裁判官同士の親類縁者が実に多いことを知ったことだといいます。そのうち、裁判官を目ざすのは親が裁判官だからという「家業」になってしまうんじゃないかと皮肉っています。それほど、裁判官の世界が窮屈になっているということです。
裁判で最も重要なのは、判決が正当なものであり、当事者の納得を得ているかどうかのはず。だから、裁判所で統計をとるとしたら、上訴率と判決の変更率のはず。ところが、これらは統計の対象とはされていない。ただし、私は地裁所長の裁判官評価において、この点は重視しているのではないかとみています。つまり、一審の裁判官がひどいと、控訴率は高くなるし、高裁で原判決の破棄が増えてくるからです。
現状の最高裁のひどさは私も実感しています。これは、保守的で狭量とさえいえる政治的な任命人事の結果もあって、最高裁は昭和時代へ先祖返りをしている。そして、弁護士出身の最高裁判事が今や第一東京弁護士会の超大企業顧問弁護士ばかりがほとんど独占していて、いつだって自公政権言いなりの判断しかしていない、このひどさも目に余ります。
 現職裁判官の熱血あふれる内部告発の本です。大いに共鳴しながら、最後まで一気に読み通しました。あなたもぜひご一読ください。
(2024年5月刊。2300円+税)

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2024年5月23日

回想録

司法


(霧山昴)
著者 山本 庸幸 、 出版 弘文堂

 元内閣法制局長官で、最高裁判事もつとめた著者が、後任の長官に小松一郎元駐仏大使がなると聞かされたときの衝撃を赤裸々に描いています。
 著者は私より1学年だけ年下なのですが、1浪してしまったため、東大入試が中止となって、京大にまわったのでした。私も東大闘争(当事者の一人ですので、紛争とは呼びません)に関わったものとして、申し訳なく思いますが、決して私たちのせいではないと考えています。当時の政府の政治的判断なのです(実施しようと思えば実施できたと思います)。
 官房副長官から、「君には辞めてもらうことになっている」と申し渡されたのです。そこで、後任を尋ねると、「フランス大使の小松くんだ」と言われ、思わず「全身に鳥肌が立つような気がした」といいます。
 「官邸は、集団的自衛権を実現するために、この人事を考えたに違いない。かねてから最悪の事態として想定していた通り、いよいよ、来るものが来たということか・・・。ここが、まさに正念場だ」
 「私の交代劇は、大きな歴史の転換点となった」
 まさしく、そのとおりだったと私も考えています。
 「内閣法制局は、特に政界の左翼の人たちからは、とんでもない保守反動の右翼の権化のような組織と思われたもの」
 この点も、認識は一致しています。
 ところが、「内閣法制局は首尾一貫して同じ説明をしているにもかかわらず、いつの間にか、その立ち位置が、以前の右翼側から、気が付いてみると、真反対の左翼側へと動いてしまっていたのである。何という皮肉かと思った」
 これまた、認識は共通しています。
 「集団的自衛権は・・・要するに、他国から直接攻撃を受けなくとも、わが国の友好国を攻撃する国に対して、わが国が一方的に武力の行使をする、つまり戦争行為を行うことができることを意味する。これほどのことが、現行憲法九条の下で認められるとは、とても考えられないのである。どう理屈をこねても、憲法を改正しない限り、それはできないと言わざるをえない」
 いま、全国の裁判所で、安保法制が憲法違反であることを裁判所で認めてもらおうという裁判をすすめています。ところが、著者のこのような明確な認識は明らかに正しいにもかかわらず、裁判所はあれこれ言い逃れするばかりで真正面から憲法判断しません。本当にだらしない裁判官ばかりです。どこかに骨のある裁判官が一人くらいはいないものかと探し、待っているのですが、かなり絶望的です。
そんななかで、最高裁の裁判官就任の記者会見でも、著者は集団的自衛権は憲法に違反すると堂々と表明したというのです。偉いものです。こんな人がもう少し裁判所にいてほしいものです。
内閣法制局長官を経て最高裁判所の裁判官になってからも、それなりの筋を通したことがよく分かる回想録となっています。
(2024年2月刊。3400円+税)

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2024年5月24日

「穂積重遠」

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 大村 敦志 、 出版 ミネルヴァ書房

 NHKの朝ドラ「寅に翼」が話題を呼んでいますね。穂積重遠のモデルも登場していますが、穂積重遠は帝大セツルに深く関わっていました。
 東京帝大セツルは、1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災のときに活躍した学生救護団を母体として、1928(昭和37)年に発足した。
 高名な東大教授である末弘厳太郎と穂積重遠教授が発足以来、関わっている。二人とも東京帝大法学部長を重任するほどの大物。
 セツルメントは、下層庶民社会の矛盾を法的紛争を通じてつかみうる貴重な観察と究明の場として設立が呼びかけられた。法学部生による法律相談部だけではなく、労働学校(講座)や幼児を対象とする活動なども展開した。
 法律相談部で扱うのは、借地借家事件をはじめとする民事相談が大部分を占める。
 セツルメントハウスのあるあたりは大雨が降ると道路と溝の区別がつかなくなるほど一面、水に覆われてしまうので危ない。雨が降ったときは両教授ともゴム長靴をはいてセツルメントハウスに通ったが、あまりの大雨のため途中で教授が引き返したということもある。
 法律相談の日は週に2回、夜にある。穂積教授が火曜日、我妻教授が金曜日と分担していた。
 法律相談に関わった学者には、川島武宜、舟橋諄一、杉之原舜一などの助教授たちもいる。また、学生セツラーのなかには、馬場義続(戦後、検事総長)など、官側で出世した人も少なくない。さらに、原嘉道弁護士や小野清一郎教授なども帝大セツルの顧問だった。
 宮内府や東京府・市そして三井報恩会からも帝大セツルは経済的に支援されていたが、これには穂積重遠男爵の関与が大きい。
 この柳島地区は、まさしく貧民衛であり、世帯の平均年収は、月に46円から42円、そして37円と、年々低下していった欠食児童や栄養不良児童も多い。お金に余裕がないため、毎日の飯米も1升買いする家庭が多い。男たちのほうは、3日に1度しか仕事にありつけないということもしばしばだった。
 セツルメント法律相談部は、①知識の分与と困難の救済、②生きた法の姿の認識、③事態の分析・整理・法律適用の実地演習を目標として掲げた。
 セツルメントの学生のなかには共産主義思想に共鳴する者も少なくなく、1931年7月、セツルメントハウスに「帝国主義戦争反対」と書いた大きな垂れ幕が掲げられた。
 そんなこともあって、セツルはアカではないか、アカの巣窟(そうくつ)になっているのではないかという、疑いの目で見る当局の目は厳しくなるばかりだった。
 1932年、鳩山一郎・法務大臣が自ら柳島のセツルメントハウスを非公式に訪問した。このときは穂積教授がつきっきりで案内した。また、1934年2月には我妻教授が妻とともにセツルメントを参観した。いずれも、セツルメントの「安全性」をアピールするためのものだった。
 ついに1938年5月、帝大セツルメントの責任者に警視庁特高部が出頭を命じ、安倍源基特高部長が直々に取り調べた。そして、同年4月、帝大セツルメントは閉鎖された。
 穂積教授は帝大セツルメントが解散したとき、セツラーとして活動してきた学生に向かって、「自分が上に立っていながら、潰してしまうとは、何とも申し訳ない」と頭を下げた。そして、「セツルメントは永久に生きている」と付け足した。
 閉鎖にあたって、法律相談部に保管されていた貴重な相談記録は、我妻教授の所有するダットサン(車)に積み込まれ、穂積邸に届けられた。今も、製本された記録が東大法学部の教授室に保管されている。
 私も戦後に再建された学生セツルメントのセツラーでした(川崎市幸区古市場)。

(2013年4月刊。3500円)

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2024年5月25日

救援会小史(前編)

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 日本国民救援会 、 出版 左同

 戦前の暗黒裁判の実情が明らかにされています。
 1932(昭和7)年の朝鮮共産党事件について、東京で活躍していた谷村直雄弁護士(故人)が紹介しています。
公判は、一人ずつの文字どおりの分離・暗黒(非公開)裁判。法廷は広い東京地裁の陪審法廷。地下監房から、法廷の床に設置された蓋板を押し上げて一人ずつ出てくる。被告人が分離・暗黒裁判に抗議すると、神垣秀介裁判長は即座に発言禁止を申し渡す。それでも被告人が発言を続けると、直ちに「退廷」を命じ、看守数人が有無を言わさず、地下監房へ連れ戻す。一人が1分もかからないほど、次々に「発言禁止」、「退廷」の連続。
 弁護人として、たまりかねて神垣裁判長に対して、「もっと裁判らしく進行されたい」と抗議すると、神垣裁判長は、怒気を含んでこう言った。
 「弁護人は、当裁判所が無慈悲で不親切だ、とでも言うのですか」
 そして、谷村弁護人が何か言うと、被告人に対してと同じく、「発言中止」とし、さらに「退廷」を命じた。
 この神垣判事は、意識的重刑主義というのであろうか、検事の求刑より重い判決を平気で言い渡すので有名だった。
 私は体験したことがありませんが、求刑より重い判決を言い渡す裁判官は今でもいます。しかし、神垣判事は治安維持法違反被告事件について、意識的に求刑以上の刑を言い渡していたのだと思います。「アカ」を撲滅するのが裁判所の使命だと心底から勘違いしていたのでしょう。
 古い冊子(新書版)を本棚の隅からひっぱり出してみました。貴重な記録になっています。
(1970年7月刊。250円)

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2024年5月26日

「チャップリンが日本を走った」

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 千葉 伸夫 、 出版 青蛙房

 チャップリンは1932年5月に日本にやってきました。
5.15事件で首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を殺害した青年将校たちは、首相官邸でのチャップリン歓迎会を襲撃する計画だったのですが、予定が変更となり、チャップリンは無事だったのです。本書も踏まえて少し詳しく紹介します。
 5月14日 アメリカから有名な俳優チャップリンが来日した。
 チャップリンの秘書は高野虎市(チャップリンからは「コーノ」と呼ばれていた)という日本人で、チャップリンはとても気に入っていて、チャップリンの邸宅の世話も日本人チームにまかせるほどだった。チャップリンは神戸から東京に向かった。昼12時25分に神戸発の特急列車「燕」に乗って東京入りする。夜9時20分に東京駅に着いたとき、チャップリンを一目でも見ようと4万人もの大群衆が東京駅の内外を取り囲んだ。入場券だけでも8000枚が発行されていて、警官300人が警備にあたった。
 これほどのチャップリンの大歓迎については、「暗い世相を吹き飛ばしたくて鬱屈(うっくつ)した民衆が起こした大嵐」だと評されている。
 このチャップリンを暗殺しようと考えた集団がいた。五・一五事件を起こした青年将校たちだ。日曜日(15日)夕方から首相官邸でチャップリン歓迎会が開催されると新聞で報じられた。そこを襲撃しようというのだ。その狙いは、第一に日本の支配階級が多数集まるだろうから、攻撃対象として最適だということ、第二にアメリカの有名俳優を攻撃することによって日米関係を困難なものにして人心の動揺を起こし、それによって革命の進展を促進することができる。青年将校たちは、そう考えた。ところが、来日する直前の報道でチャップリンは熱病にかかって入院し、来日が遅れるという。首相官邸を襲うのは警備の手薄な日曜日でなければいけない。それで、チャップリン歓迎会が15日に開かれないのなら、それはあきらめ、ともかく15日に首相官邸を襲撃することは変えないこととした。
チャップリンの予定はさらに変更になり、当初の予定どおり15日夕方から歓迎会を首相官邸で開くことになった。ところが、チャップリンの気が変わり、歓迎会は17日に先のばしにして、15日は国技館へ大相撲を見物に行くことになった。
 チャップリンは15日の午後から国技館へ大相撲を見に行った。そして、夜は銀座のカフェ-「サロン春」に行って楽しんだ。
 夕方5時半すぎ、首相官邸に青年将校たちが強引に押し入った。海軍の青年将校と陸軍士官学校の生徒から成る一団だ。陸軍の青年将校たちは、意見の相違から加わっていない。
 首相官邸にいた犬養首相の家族は異変に気がつくと、直ちに避難するように勧めた。この時点では、その可能性はあった。しかし、犬養首相は、「私は逃げない。そいつたちに会おう。会って話せば分かる」と言って、12畳の客間に入り、椅子に腰かけて軍人たちを待った。
 そこへ将校たち9人が入ってきて犬養首相を取り囲んだ。犬養首相が何か話そうとすると、将校の1人が「問答無用、撃て!」と叫んだ。立って卓に両手をついている犬養首相に向かって拳銃が発射された。しかも9発も...。犬養首相(78歳)はその場で死亡した(五・一五事件)。このとき、青年将校たちは同時に警視庁と政友会本部にも乱入している。
「話せば分かる」と言って将校たちと対話しようとした丸腰の首相に対して、軍人たちが「問答無用」と叫んで拳銃を乱射して殺害するというのは、あまりにむごい話です。
それにしても、五・一五事件のとき、チャップリンが狙われていたとは驚きです。
(1992年11月刊。2300円)

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2024年5月27日

植物観察の事典

生物


(霧山昴)
著者 大場 秀章 、 出版 ヤマケイ文庫

 私の数少ない趣味、というか生き甲斐の一つがガーデニング(庭づくり。つまり、花と野菜の栽培)です。東京そして神奈川に10年間住んでいました。憧れて上京したのですが、自然の四季折々を実感することができないのが本当に寂しく思いました。それで、東京直下型大地震の話が出たとき、これは何としても田舎に帰ろうと思ったのです。今は、広い庭(東京だと建売住宅が少なくとも4軒以上は十分に建つ広さがあります)に、四季折々の花を楽しんでいます。
 3月末から4月にかけては、なんといってもチューリップです。毎年、少なくとも300本は自宅の周囲に球根を植えて、愛(め)でて楽しんでいます。その前後は水仙ですね。チューリップが終わるころにジャーマンアイリス、そして黄ショウブ、それからクレマチスが次々に咲いてくれます。今はアマリリスの大輪の花が魅惑的です。私個人のブログで写真を公開しています。一度のぞいてみて下さい。
 そして、ジャガイモを梅雨に入る前に掘り上げます。タマネギをつくっていたときもありますが、あまりにたくさんとれて、今はつくっていません。ジャガイモより難しいのはサツマイモです。今年も苗を植えましたが、なかなかうまくいきません。小粒で、大きくならないのです。恐らく、土地が肥えすぎているのだと思います。長年にわたって生ゴミを庭に植えこんでいますので、庭の土はふかふか、黒々としています。
 こうやって日曜日の午後を過します。私の最大の楽しみの一つになっています。
 キャベツを植えたこともあります。これは大変でした。毎日毎朝、青虫を割リバシでつまんで取り除くのですが、いつだって取りきれません。これは、農家が農薬を使いたくなるのも当然だと思いました。
 ネギも植えました。これは失敗がありません。薬味として、刻んで、美味しくいただきます。
 ドングリは、たくさんの、実のなる年と、それほどでもない年がある。それは、何年かに一度、たくさんの果実をつくると、急に動物が増えることはないので、ドングリを食べきれず、多くのドングリが生き残る。そうやって子孫を確保している。うむむ、そういうことですか...。
 トリカブトの毒も、少量なら薬になる。人間にとって、アルカロイドは毒であると同時に薬でもある。ソテツの実やヒガンバナの球根は猛毒だけど、人間はすりつぶして水にさらし、リコリンというアルカロイドを抜いて、飢饉(ききん)のときに食べていた。やはり、生きるための知恵ですよね。
ひところ黄金色に輝くセイタカアワダチソウの群落があちこちに見ましたが、今は、それほどでもありません。繁殖力は旺盛なのですが、時間が経過すると、個体の寿命の到来とあわせて自家中毒によって、自らもその場所から追い出されてしまうのです。
 知らない植物の話が盛り沢山の本でした。
(2024年3月刊。1100円)

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2024年5月28日

父の革命日誌

韓国


(霧山昴)
著者 チョン・ジア 、 出版 河出書房新社

 パルチザンの娘として生きてきた主人公が父の死に直面して回想していくというストーリー展開です。韓国で32万部も売れ、しかも当事者世代というべき70歳代に読まれているというより20代、30代の若い読者が圧倒的だそうで驚きます。
 私は、この小説を初め、著者自身の体験記(ノンフィクション)と思って読んでいましたが、やはり小説は小説のようです。訳者あとがきによると、両親以外の登場人物はおおむね架空の人だといいますから、両親がパルチザンの生き残りであったこと自体は歴史的事実だし、周囲の人々にもモデルがいるそうですから、まったくのフィクションではないわけです。
それにしても心が大いに惹かれるセリフ、文章があふれています。
 「きみは何のために智異山(チリサン)で命を懸けた?」
 「両親は、純粋無垢な社会主義者だった。世間知らずの田舎者だった」
 「父は、いついかなるときも社会主義者だった」
 「父は若いとき、無数の死を目撃した。首をはねられた同志たちの死体がアジトの近くにそこらじゅうに転がっていた」
 「幼い娘が石ころにつまづいて転んでも両親は幼い娘を起こさなかった。そうして育った娘は誰に対しても弱音を吐いたことがない。泣いたこともない。これがまさにパルチザンの娘の本質なのだ」
 「両親は、麗水・順天事件の直後に山に入った旧パルチザンで、そのうち生き残った人は数えるほどしかいない。それだけ運の強い人たちなのだ」
 「私は何も選んでいない。アカになりたいとか、アカの娘に生まれたいと思ったこともない。生まれてきてみたら、貧しいアカの娘だったのだ」
 子どもは親を選べないのですよね...。
父は頭がよくて立派な人。その立派さによってアカになって一族を滅ぼした人でもあった。父は家門の誉(ほま)れであると同時に、家を没落させた元凶なのだ。
 「あの時分は、頭のいい奴はみんなアカだったよ」
 結果の是非はともかくとして、父は命を懸けて何かを守ろうとした。それにひきかえ、自分は現実から目をそむけ、不平不満をこぼしているだけだ...。
 父は言った。「自分の得にならんことには容赦なく背を向けるのが民衆だ。そもそも民衆が背を向けるような革命は間違っているんだが...」。
 この本のなかに、まだ8歳だった弟が党幹部の兄を誇らしく思っていて、それを堂々と告白したために父親が目の前で軍人に殺害されたこと、それ以来、おしゃべりだった弟が極端に話さない無口の男になり、酒浸りになり、兄とケンカばかりしていたという状況が紹介されています。泣けてきました...。
 車中で、そして喫茶店に入って一気に読了しました。ご一読を強くおすすめします。
(2024年2月刊。2310円)

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2024年5月29日

陸軍将校たちの戦後史

日本史(戦後)


(霧山昴)
著者 角田 燎 、 出版 新曜社

 旧陸軍のエリートとして戦争の中枢にあった陸軍将校たちのうち生き残ったものは戦後、政治活動から距離をとって、親睦互助を目的とした偕行社を設立しました。
 本書は、その偕行社が、当初は戦争責任も問い、自己批判もしていたのですが、次第に政治団体となっていき、戦争責任をあいまいにする方向で動いていくのです。本書は、その経過をたどっています。
 陸軍士官学校(陸士)の卒業年次には大きな意味があります。といっても、最後の陸士61期の生徒は5000人を超すとのこと。東条英機は16期、牛島満(沖縄戦の司令官)は20期、硫黄島で戦った栗林忠道は26期、悪名高い辻正信は30期、そして戦後に政界で暗躍した瀬島隆三は44期。
 太平洋戦争の特徴の第一は、大量の餓死者を出したこと、第二は、海没者が多いこと。海軍の軍人・軍属が18万2千人に対して、陸軍もほぼ同数の17万6千人となっている。
 第三は、特攻隊、特攻戦死が登場したこと。第四に、自殺や軍医等による傷病兵の殺害、投降兵士の殺害が多かったこと。
「偕行」とは、「共に軍に加わろう」という意味。偕行社は、1957年に財団法人となった。
 やがて偕行社は、強烈な反共主義的姿勢をもち、軍人恩給などの権利を求める団体として活動していくようになった。
 ビルマ(ミャンマー)でのインパール作戦の指揮官・牟田口廉也(22期)は、戦後なお、「自分のやったことは間違っていなかった」などと堂々と開き直りました。
 偕行社は、会員の老齢化によって、元本の取り崩しが続いて、29億円の資産が13億円となってしまった。そして会員が減少するなか若い人たちを迎え入れるため、自衛官も会員になれることにした。
 私の母の異母姉の夫(中村次喜蔵)は、第一次大戦時の青島(チンタオ)攻略戦において、独軍の要塞を攻略したことで、大正天皇の面前で講和をしたとのことです。この中村中将は、日本の敗戦後、なおソ連軍と戦おうとしていました。そこへ、無駄な抵抗はやめろと言わんばかりの停戦命令が大本営から来たあと、自決したのでした。その自決の前後を知りたくて、偕行社に照会したのです。すると、自決したときの状況や場所など、本当に細かいところまで教えてくれました。本当に助かりました。偕行社が実際に生きた団体であることを実感しました。
(2023年7月刊。2900円+税)

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2024年5月30日

数学の苦手が好きに変わるとき

人間


(霧山昴)
著者 芳沢 光雄 、 出版 ちくまプリマー新書

 はて?と不思議だと思うこと、これが科学の芽だというのはノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎博士の名言。
 著者は45年間ものあいだ、10の大学で教え、1万5千人の大学生に対して楽しく数学を教えてきました。このほか小・中・高校生の1万5千人にも数学の話をしてきたそうです。そんな経験をふまえた楽しく役に立つ小話が盛り沢山です。
 私は高校2年生の終わりに理系から文系に志望を変更しました。数学のひらめきが自分には欠けていると自覚したからです。それでも高校3年の数Ⅲまではしっかり勉強しました(すっかり忘れてしまったので、中学数学を勉強しなおしたこともあります)。
 この本では、数学を楽しく学べる話がいくつも紹介されています。
 たとえば、宇宙飛行士の宇宙遊泳の姿は、ネコが高いところから落ちるときの態勢の変化を参考として編み出されたもの。ネコはビルの50階(地上から250メートルの高さ)から落ちても助かることがある。空気抵抗を最大限に利用して、落下速度が一定以上は大きくならないようにしている。
人間の「じゃんけん」は、一般的にはグーが最多で、チョキが最少、パーはその中ごろに...。なので、じゃんけんは、一般論として、パーを出すのが有利だということ。学生たちが自ら実験して得たデータなので、確実です。
1000ミリが入るはずの牛乳パックは底辺が7センチで高さ19.5センチなので体積を計算すると、955.5センチ立法メートルしかない。すると、この差44リットルはどこに消えたのか...。その答えは、なんと、牛乳パックは、横にいくらかふくらんでいるから...。なんと、そういうことなんですね。単純な計算どおりではないというわけですね。
列車速度を腕時計ひとつで測る方法があるといいます。いったい、どうやって...。
路線の長さは1本が25メートル。なので1分間に何回鳴くか、カウントすればその列車の進行スピードを把握することができる。なーるほど、ですね。
好きこそモノの上手なれ、ですよね...。数学が好きになったら、苦手意識を克服したら、新しい世界が目の前に広がることは間違いありません。
(2024年1月刊。880円)

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2024年5月31日

罪を犯した人々を支える

司法


(霧山昴)
著者 藤原 正範 、 出版 岩波新書

 著者は、家裁の調査官を28年間つとめ、大学で教員もしてきた「少年非行の専門家」。
 そして、最近は、ひまを見つけて裁判所に出かけて法廷を傍聴しているのです。著者は、多くの人に刑事裁判の傍聴をすすめています。すすめている傍聴の対象は民事裁判ではありません。民事裁判だと、法廷での証人尋問はあまりありません。書類の交換の場と化している口頭弁論も、今ではインターネット上がほとんどですので、傍聴自体が出来ません。
 刑事裁判だと、公開の法廷で進行しますし、ほとんどの事件では傍聴券が発行されることもなく、自由に傍聴できます。
数多くの裁判を傍聴した著者の感想の一つは、「今の裁判は、関係者が寄ってたかって被告人に恥をかかせ、人格を貶(おとし)めているようにしか見えない」というもの。弁護人として活動することのある私には、少し意外な感想です。
高齢男性に性欲が動機になる犯罪が少なくない。性犯罪を犯した少年より高齢者のほうが「要保護性」が高いように思われる。この指摘は、そうかもしれないと、私も思います。
 刑事司法手続きの中に、人を大切にする気持ちを育(はぐく)む機能は内包されていない。したがって、更生とは、裁判の結果、送り込まれる刑事施設で自分を見つめ直し人間性を回復すること、というのはフィクションだ。この点は、私もまったく同じ考えです。
 刑務所に入ったら、かなりの人が(決してすべてではありません)、悪いことを覚えてしまう危険があります。自覚して人間性を回復するようなことは、現実にはあまり期待できないと私は考えています。なので、実刑より執行猶予の判決のほうが、よほど本人の更生に役に立つことが多いというのが私の考えです。
 「罪を犯す人」は、日本全国で1年間に600万人いる。ええっ、そんなにいるの...、と思ったら、なんと580万人は道路交通法違反です。一時停止違反とかスピード違反が含まれています。警察庁が起訴した人は年間8万人ほど。そして、裁判所で実刑判決を受けた人は1万6千人弱です。執行猶予の判決は3万人が受けています。
 受刑者の罪名は窃盗と詐欺(万引と無銭飲食など)、そして覚せい剤取締法違反の三つで、男性の7割、女性の9割を占めている。
刑務所に収容される人の高齢化が進んでいる。男性で8%、女性で14%を占める。なので、刑務所では介護や認知症への対応に追われている実情にある。
国選弁護人の比率は地裁で85%、簡裁で92%を占める。私は被告人国選弁護士を30年前は月1件ほど受けていましたが、今では年に1.2件です。ただし、被疑者国選は2.3ヶ月に1件の割合で受任しています(今も)。
 罰金が支払えないので、労役場(刑務所)に入る人が年間3千人近くいる。
 弁護士が社会福祉士と連携して、「犯罪を犯した人」の社会での再出発を援助する制度が始まっています。まだ私は体験していませんが、社会福祉士の役割は司法の場でもますます大きくなっていると、最近つくづく実感しています。
(2024年4月刊。920円+税)

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