弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2024年4月 5日
悩める平安貴族たち
日本史(平安)
(霧山昴)
著者 山口 博 、 出版 PHP新書
テレビを見ていないので、なんとも言えませんが、紫式部という女性には、昔からすごく関心があります。『源氏物語』には、私も何度か挑戦しました。もちろん原文ではありません。
平安時代の男性の生き甲斐は、出世と恋と富の三つ。そして女性は、「書く」ことに生き甲斐を見出していた(もちろん、すべての女性ではありません)。
紫式部は『源氏物語』を書くことにより、ともすれば落ち込む心を励まし、清少納言は『枕草子』を書きつづることにより、個人臭は強烈だが、宮仕えの実相を明らかにした。
日記を書いた女性もいる。紫式部は物語だけでなく日記も書いている。菅原孝標(たかすえ)の娘は『更級(さらしな)日記』と4本の物語を書いた。
私も「書く」ことに生き甲斐を見出しています。今は、昭和のはじめに東京で生活していた亡父の生きざまを活字にしていますが、いろんな資料を入手するたびに新鮮な驚きがあり、毎日ワクワクして生きています。
清少納言は結婚し、離婚した。そして、28歳ころ、藤原道隆(関白内大臣)の娘であり中宮(天皇の妻)の定子(ていし)の私的女房として、定子が死ぬまで8年のあいだ仕えた。
女房社会を謳歌するには、歌を詠(よ)むことがとても大事だった。
紫式部にとって、華麗な貴族の生活はなじめない世界だった。紫式部の世界観は「世は憂し」だった。そうなんですか...。
紫式部は、和泉式部についてはいささかの文才を認めたが、清少納言に対しては徹底的に批判した。才能ある女性同士のサヤ当てなのでしょうか...。
女性の棒給は男性の半分と規定されていた。ただし、定年はなく、終身雇用が建て前だった。
平安時代の貴族にとって、自分を性的に解放して生きるのは自然なことであり、何ら非難すべきものではなかった。その後も、この伝統は脈々と生きています。和泉式部には30人から40人ほどの愛人(男性)がいた。一夜のうちに男性から男性へと渡り歩き、誰の子をはらんだか分からなくなった女房は、和泉式部だけではなかった。
節度をわきまえた「色好み」は、人格的欠陥ではなく、当時の貴族の身に備えるべき条件だった。光源氏のモデル説のある藤原実方(さねかた)は、20人以上の女性と関係があり、清少納言もその1人だった。そうなんですか...。
藤原道長や道隆の棒給は、年収にして3億円から4億円。そのうえ、地方官から、鳥など山のように贈り物があった。これに対して、中・大流貴族の生活は苦しかった。
右大臣までつとめた藤原良相(よしみ)は、自邸の一角に邸宅を建て、藤原氏の「窮女」「居宅なき女」を収容した。
平安時代の貴族は男性も女性も短歌がつくれなかったら評価されなかったようです。これって、向き不向きを考えると、結構きびしい条件となりますよね。
(2023年11月刊。1100円+税)