弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2024年1月24日

御成敗式目

日本史(鎌倉)


(霧山昴)
著者 佐藤 雄基 、 出版 中公新書

 御成敗式目は鎌倉幕府によって今から800年ほど前の1232年(貞永1年)に制定された、日本史上、もっとも有名な法。この御成敗式目を制定したのは、鎌倉幕府の執権・北条泰時。
 この式目は基本法ではなく、当時生じていた問題についての対処法を示したもの。
当時の日本の総人口は6~700万人、京都に十数万人、鎌倉でも数万人だった。
 京都は、現在の東京の一極集中以上に、政治・経済・文化などあらゆる面で日本列島内の隔絶した地位を占めていた。
 鎌倉幕府の裁判には、自らの支配領域の案件(地頭・御家人関係)以外は扱わないという原則があった。
 承久の乱の前と後で、鎌倉幕府の政治体制には大きな変化がある。
鎌倉幕府は御成敗式目の周知を図ったが、これは大きな特徴といえる。
鎌倉幕府は、承久の乱に勝利したことによって朝廷を圧倒し、全国政権として確立した。北条泰時は、1225年に評定衆を設置した。評定衆とは、重要な政務や訴訟を審議するメンバーである。つまり有力御家人の審議体制をとった。言い換えると、有力御家人の支持をとりつけなければ幕府を運営できないというのが泰時の立場でもあった。
泰時は、式目制定の趣旨を伝える書状を京都にいる弟の北条重時に送っている。立法者が法の制定意図を書状にして他者に説明しているというのは珍しいことだった。
この式目の目的は武士たちに非法を起こさせないことを目的としていた。
この式目は、制定以前のことに効力を及ぼさないというのを原則としている。制定以前のことに式目を適用して処罰することはしないという方針である。これは法の実効性を高める目的がある。
北条泰時には「道理」の人だというイメージがある。一律に判断するのではなく、個別の事情に即して総合的な判断を考えることが「道理」にもとづく裁判だった。
中世人は、集団的な主張そのものに正義を認める傾向がある。鎌倉幕府は、合議と起請文(きしょうもん)によって自らの判決の正しさを主張しようとした。「みんなで決めたことだから正しい」と主張する。
式目は51ヶ条から成る。鎌倉時代には武士の間のケンカが日常茶飯事だったので、武士同士のケンカを防ぐため、あえて厳罰をもって規定した。すなわち、縁座の拡大解釈によって御家人集団の内部が混乱するのを予防しようとした。
鎌倉幕府の裁判では、訴訟当事者が根拠として持ち出した幕府の法令について、他方の当事者がそれを実在しない法令であると主張したとき、幕府もその法令の真偽を判断できないということが起こりえた。いやあ、とても信じられませんよね、これって...。
鎌倉時代は女性の地位が高かった。女子にも相続する権利があった。妻は夫とは別の財産をもち、夫の死後は「後家」として家を切り盛りした。子どものいない女性が養子に財産を譲ること(女人にょにん養子)を認めている。
御成敗式目は、地頭・御家人に向けて出された法であり、武士たちを戒めるためのもの。
式目は貴族や寺社には適用しないと幕府も明言した。さらに、式目は庶民を直接の対象にした法ではなかった。
幕府が裁判制度を整備するのは、積極的に裁判したいからではなかった。むしろ、自らの負担を減らすため、不当な訴えを減らしたかったから。
御成敗式目とは何かを、少しばかり理解することができました。
(2023年7月刊。920円+税)

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