弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年12月 8日

紫式部と藤原道長

日本史(平安)


(霧山昴)
著者 倉本 一宏 、 出版 講談社現代新書

 この本は紫式部の『源氏物語』がなかったら藤原道長の栄華もなかったとしています。ええっ、そ、そこまで言えるものなのでしょうか...。
清少納言は当時の一次資料には、まったく名前が登場してこない。それに比して、紫式部のほうは「藤原為時(ためとき)の女(むすめ)」として登場してくるので、実在の人物だと言える。
 藤原道長の命令と支援があったからこそ、紫式部は『源氏物語』や『紫式部日記』を執筆できた。藤原道長は紫式部より7歳だけ年上。
 この当時、文人としての名声を得たとしても、それは現実社会における地位や、ましてや収入に結びつくものではなかった。
 紫式部は26歳前後で、20歳も年長の藤原宣孝と結婚した。そして、二人の間に賢子(けんし)が誕生した。この賢子は道長の娘・彰子に出仕し、親仁(ちかひと)親王の乳母(めのと)となって、「大弐(だいに)三位(さんみ)」と呼ばれ、80歳をこえて長生きした。紫式部の娘らしく、家集まで出しているそうです。
 紫式部が29歳のとき、その夫・宣孝は結婚して、わずか2年半で亡くなった。
 『源氏物語』は全編54巻で、617枚の料紙を必要とする。そのために必要なのは2355枚。当時、紙は非常に貴重なもので、誰でも手に入るものではなかった。そこに、道長に執筆を依頼され、料紙の提供を受けて起筆したという説の根拠がある。
 紫式部はこの要請を受けとめて、基本的骨格についての見通しをつけたうえで『源氏物語』を起筆したと著者は推定する。紫式部が『物語』を書きはじめて、好評だったことから藤原道長が応援するようになったという説もあるようです。
 紫式部は34歳のとき、彰子に出仕した。このとき、すでに『源氏物語』の執筆を始めていた。
 紫式部は、出仕した直後は宮中になじめなかったようだ。「まるで夢の中をさまよい歩いているような心持ちであった」と日記に書いている。紫式部は、引っ込み思案で、内省的な性格だった。
 彰子の主導で、『源氏物語』の書写と冊子づくりが大々的にすすめられた。紫式部が彰子に出仕した時点では、すでに清少納言が仕えていた定子(ていし)は死去していた。だから二人が宮中で直接に顔を合わせる機会はなかった。
 彰子に仕える紫式部は、『枕草子』で謳歌(おうか)されている定子のサロンを否定し、清少納言を非難した。
 道長は紫式部の『源氏物語』がなければ、一条天皇を中宮彰子のもとに引き留められなかった。道長家の栄華は紫式部と『源氏物語』のたまものであった。
 紫式部はNHK大河ドラマのテーマになるようで、今、ブームが再燃しています。

(2023年9月刊。1200円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー