弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2023年11月17日
龍の子を生きて
日本史(戦後)
(霧山昴)
著者 二ッ森 範子 、 出版 こうち書房
八路軍従軍看護婦の手記というサブタイトルのついた本です。
八路軍というのは中国共産党の軍隊です。日本が中国に侵略戦争を仕掛けていたとき、頑強に戦いました。蒋介石の国民党軍と一緒に日本軍と戦っていた時期もあります。国共合作によって誕生した名前です。中国では「パーロ」とも呼ばれていました。
そんな八路軍に日本敗戦後に大勢の日本人が参加しました。日本軍がアメリカに無条件降伏したといっても、中国現地の八路軍は装備は貧弱で、人員も足りていませんでしたから、日本人に「助っ人」を頼んだのです。
私の叔父(父の弟)も応召して関東軍の兵士(工兵)として山中で地下陣地を構築していましたが、八路軍の求めに応じて、紡績工場の技術者として戦後8年間、働いていました(1953年6月、日本に帰国)。私は、叔父の手記を基として『八路軍(パーロ)とともに』という本(花伝社)をこの7月に刊行しました。まだ読んでいない人は、ぜひ買い求めてください。少し付加、訂正したいところがありますので、改訂版を出したいのですが、売れゆきがかんばしくありません。どうぞお助けください。
山形県の山村で生まれ育った著者は、16歳(数え)のとき、満州に渡って看護婦になりました。満州の中央にあるハルビンの義勇隊中央医院が職場です。もちろん、初めは看護婦になる勉強から始まります。
待遇は、日本(内地)に比べるともったいないほど良かった。祭日には、お菓子もお餅もあった。満州に渡ってきた義勇隊の少年たちが次々に病人として運び込まれてきました。栄養失調と結核が目立って多かった。厳しい苛酷すぎる自然環境でした。
日本軍の敗戦(8月15日)の前、8月9日深夜、ソ連軍が突如として満州に、侵攻してきた。頼りの関東軍は、その精鋭部隊は南方戦線に送り出されていて、員数あわせだけで成りたっている、見かけ倒しの軍隊にすぎなかった。
ソ連軍のあとは、国民党軍がやってきて、ついに八路軍も姿をあらわした。国民党軍は規律のなさから現地の人々から総スカンを喰った。
八路軍は、日本人の医師や看護婦に対して、あくまで紳士的に、礼儀正しく、協力を要請してきた。そして、著者はそれに応じることを決断した。やがて国共内戦が始まりました。
共産党軍(八路軍)は当初、アメリカ式の最新兵器を有する国民党軍に追われていましたので、著者も八路軍と一緒に広い満州をわたり歩いたのでした。
著者が初めて出会ったときの八路軍の兵隊は、ノミとシラミ、そして垢(あか)にもまみれて行軍していた。こんなみすぼらしい軍隊が、最後には勝つだなんて、とうてい信じられなかった。しかし、負けるという気もしなかった。
病院は忙しく、毎日、大変だったが、暗い雰囲気はまったくない。毎日、変化があり、刺激的で楽しく、満ち足りた日々だった。
1948年春になると、八路軍は勢いがあり、進撃に転じていた。このころ著者は19歳の看護師で、1日40キロを行軍した。
著者たちは「三大規律、八項注意」の歌をうたい、「一日に3つは良いことをしよう」と決めて実践していた。
1953年4月、25歳の著者は日本に帰国し、宮城県にある坂病院で看護婦として働きはじめた。中国での看護婦としての大変さがよく伝わってくる手記でした。岡山の山崎博幸弁護士(26期、同期です)に紹介され、インターネットで注文して読みました。
(1995年12月刊。1500円)