弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年10月13日

朝鮮戦争・無差別爆撃の出撃基地・日本

日本史(戦後)


(霧山昴)
著者 林 博史 、 出版 高文研

 朝鮮戦争が始まったのは1950(昭和25)年6月25日。北朝鮮軍が突如として韓国に侵攻してきた。以前は、韓国軍・米軍が北侵したのが始まりという説もありましたが、今では完全に否定されています。ソ連崩壊後に、いろいろ裏付資料が出てきました。
 そして、1953(昭和28)年7月27日に停戦協定が結ばれるまで、3年1ヶ月も戦争は続き、莫大な死傷者を出しました。アメリカ軍の戦死者は3万3667人。韓国軍は25万人以上で、民間人をあわせて100万人をこえる。これに対して、中国人民義勇軍の死者は少なくとも50万人、多ければ100万人。北朝鮮軍は50万人の死者と民間人200万人以上が死亡したとみられている。つまり、当時の朝鮮半島の人口3000万人の1割300万人が南北あわせて亡くなったということ。これは大変な数字です。
 この本を読むと、アメリカ軍の爆撃によって韓国北部と朝鮮がまさしく焦土に化したことがよく分かります。日本敗戦後の東京や広島の写真以上の惨状です。まったく荒野と化しています。そして、それを敢行したアメリカ空軍の出撃機数累計2万277機のうち、日本の横田基地から7531機、嘉手納基地から1万2746機が朝鮮爆撃に行っています。これは、大半が日本から出撃していって朝鮮を焦土と化したということです。
日本は朝鮮戦争のおかげで特需ブームに湧き立ち、目ざましい戦後復興を実現したのでした。いわば、他人(ひと)の不幸を自らの金もうけのタネとして復興したというわけです。
 ソ連は朝鮮戦争に表向きは参戦していませんが、実は大量の戦闘機とパイロットを北朝鮮軍に提供しています。ソ連製のミグ15戦闘機にアメリカの戦闘機のほとんどは対抗できず、唯一F86戦闘機のみが対抗できました。
 朝鮮半島の都市人口は、ソウル(京城)が77万人、平壌が22万人、あとはすべて10万人以下でしかなかった。農村に人々は住んでいました。
 アメリカ空軍はナパーム弾を大量に投下したが、そのナパーム弾15万個は、日本の工場でつくられた。
プロペラ機であり、速度の遅いB29は、ミグ15戦闘機の攻撃には弱かった。
 B29は日本の基地から出撃するにあたって、何度も墜落するなど事故を多発させたが、これは旧式化していたことによる。
日本の都市を太平洋戦争中にじゅうたん爆撃し、焼け野原にしてしまったアメリカ軍の指揮官、カーチス・ルメイは、朝鮮戦争のときは戦略空軍司令官だった。このカーチス・ルメイは、ソ連との全面核戦争をいかにして戦い抜くかにばかり関心があり、局地戦である朝鮮戦争にはほとんど関心がなかった。
 この一文を読むまで、カーチス・ルメイ将軍は、日本への無差別、じゅうたん爆撃の効果を踏まえて朝鮮戦争のときも、それを強引に実行しようと考えていたと想像していました。ところが、そうではなかったというのです。カーチス・ルメイ将軍(戦略空軍司令官)の影は朝鮮戦争では薄いのです。
朝鮮戦争の戦闘場面に少なくない日本人に参加していた事実があります。機雷掃海作業や軍需物資の輸送だけでなく、炊事夫や通訳として雇われていた日本人も兵士になっていたのです。
 そして、日本人が目のあたりにしたのが露骨な黒人差別でした。アメリカ人にとって、韓国人も北朝鮮人のいずれかが判明するのには骨が折れました。
 アメリカ人たちは、韓国人も北朝鮮人もグック、クーリー、また「訓練されたサル」とか「軍服を着た無知茡昧の苦力ども」とまったく差別意識まる出し、軽視のまま呼んでいました。自らの戦争犯罪を認めず、戦争責任をとらない点では日本もアメリカも同じ。都市や農村の無差別爆撃は国際法に違反する明らかな犯罪。でも、アメリカも日本も、まったく知らぬ顔をして今に至っています。
 朝鮮戦争を爆撃機の効果という点で、恐ろしさを実感できる本でした。
(2023年6月刊。2500円+税)

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