弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2023年10月 5日
徳川家康と武田勝頼
日本史(戦国)
(霧山昴)
著者 平山 優 、 出版 幻冬舎新書
『どうする家康』の時代考証も担当している気鋭の歴史学者による新書なので、論旨は明解、切れ味の良さに心地よいばかりです。
徳川家康の生涯において、最も苦難を強いられた敵は、武田氏。武田信玄と勝頼父子だ。信玄との抗争は、わずか半年あまりで信玄の死によって終了したが、その子・勝頼の度重なる襲来によって、家康の危機はさらに深まっていった。
家康にとって、勝頼との抗争のほうが費やした時間も長く、危機の連続だった。家康の本拠地である三河・岡崎の譜代らが勝頼と内通したり、息子・信康や妻(正室)築山殿まで武田氏の調略にあうなど、徳川家中の分裂を引き起こすほどの重大事態に陥った。家康にとって勝頼は、信玄以上の脅威であり、徳川氏単独では、手も足も出なかった。
徳川家康と武田信玄は元亀1(1570)年までは甲三同盟を結ぶ同盟国だった。元亀3年、武田信玄は突如として、徳川家康の領地に侵攻した。わずか1ヶ月半で、家康は三河と遠江の領国の3分の2を失うという大打撃を受けた。そして、信玄軍の本隊は徳川氏の浜松城に迫った。
武田信玄は元亀4(1573)年4月に53歳の若さで死亡した。
徳川氏は、織田の支援なくして、武田勝頼と戦うことはできなくなっていた。徳川氏の有力は部将である岡崎衆のメンバーは武田氏の調略により、着々と切り崩されていった。家康の子・信康、そして家康の正室の築山殿も武田氏と結んで、家康打倒を謀った。それほど武田氏のほうが家康より強いと思っていたということだ。
長篠合戦のころは徳川家康対武田勝頼の合戦だった。
家康は勝頼をその死ぬまで「大敵」とみなしていた。勝頼は信玄の「バカ息子」ではなかったのです。勝頼は武田家中での権威の確立に腐心しており、信長と家康が顔をそろえた合戦で勝利したら、武田家の御屋形としての地位は不動のものとなると考えたようだ。
長篠合戦については、織田・徳川連合軍が施いた三重の馬防柵の前に、武田軍の猛将が馬に乗って近づいたところを三段式構えた3千挺の鉄砲によって、武田軍の主要な勇将たちは次々に倒れ、残りは逃げ去ったということになっている(と思います)。ところが、この本によると、徳川軍前面の馬防柵を武田軍は次々に突破していったというのです。まあ、それでも、ついてくる兵力が不足したことから、徳川軍の将兵に取り囲まれて討ちとられていった。そんなドラマがあったのですね...。
武田氏は、信玄も勝頼(かつより)も、ともに鉄炮(砲)の装備を重視し、その動員強化に躍起になっていた。ただし、このころ、武田氏にとっては、鉄炮そのものというより、玉薬(銃弾と火薬)を手に入れるのがきわめて困難だった。武田軍は、鉛不足に苦しみ、銅銭を鋳(い)つぶしてまで、武田軍は鉄炮玉を確保しようとしていた。
長篠合戦とは、物量(兵力)と鉄炮が明暗を分けた戦いであった。とはいえ、それは新戦法(織田・家康)と旧戦法ではなかった。そうではなく、物量豊富な西(織田・徳川)と、内陸部にいて、物資の入手が困難な東(武田方)への激突とみるべきもの。
長篠合戦のあと、勝頼の武田家には、主だった武将が亡くなっていて、統計上もごく少ない。長篠合戦後の勝頼の重臣層は、かなり様変わりした。それでも勝頼は、武田軍の再編成につとめ、総兵力1万3千余の軍勢を何とかまとめ上げた。
ただ、勝頼の新しい軍勢は、実戦経験に乏しく、年齢も12、3歳の若年層が目立つなど、質的低下は明らかだった。
結局のところ、勝よりは織田信長軍に圧倒されてしまうわけですが、家康が、最後まで勝頼を知恵も勇気もある武将だと高く評価していたことは忘れてはいけないと思います。そして、勝頼亡きあと、武田氏の遺臣の多くは家康の家臣となって、生きのびていったのでした。
いつものことながら、大変勉強になりました。
(2023年5月刊。980円+税)