弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年9月22日

隠れ家と広場

ヨーロッパ


(霧山昴)
著者 水島 治郎 、 出版 みすず書房

 オランダはナチス・ドイツの占領下で強制収容所へ10万7000人のユダヤ人が移送されたが、そのうち生還した人は1割にもみたず5000人ほどでしかなかった。オランダ国内での死亡者を加えると、ユダヤ人犠牲者は10万4000人にのぼる。
 オランダでは、ユダヤ人住民の7割強がホロコーストの犠牲になった。ベルギー40%、フランス25%に比べて、とびぬけて高い率だ。なぜなのか、オランダは寛容な国ではなかったのか・・・。この疑問を解明しようと実態に迫る本です。
 アムステルダムは、17世紀にはカトリック教徒たちにとって「隠れ家の町」だった。そして、20世紀、アンネたちユダヤ人にとっても「隠れ家の町」だった。
 アムステルダムに本格的にユダヤ人が初めて流入したのは、ポルトガル系ユダヤ人たちだった。哲学者スピノザの父親もそうで、貿易商だった。
 18世紀末、アムステルダムのユダヤ人は2万人をこえ、市の総人口の1割を占めた。ポルトガル商人の流れを引くセファルディムに対し、東方からやってきたユダヤ人(アシュケナージム)には貧困層が多かった。アムステルダムでユダヤ人は、貿易業、商業のほか出版業でも活躍した。
 非ユダヤ人のオランダ人画家レンブラントは、ユダヤ人も好んで描いている。
 アンネ・フランク一家が「隠れ家」に潜む前、アンネたちは、メルウェーデ広場を駆けめぐって遊んでいた。1939年6月12日、アンネの10歳の誕生日に、父オットーが撮った写真には着飾った9人の少女が肩を組んで一列になって笑顔でうつっている。アンネは、仲良しのハンネ、サンネと三人並んでいる。近所の人からは忌々(いまいま)しい「少女ギャング」ともみられていたという。よほど活発、恐いもの知らずの元気な女の子たちだったのでしょう。
 ところが、1940年5月のドイツ占領で平和な日は突然に終わった。アムステルダムに7万人のユダヤ人が住んでいたが、自殺者が激増した。脱出していくユダヤ人たちも多かったが、アンネ一家は潜伏することにした。
 オランダでは、ほとんどのユダヤ人がユダヤ人登録に応じた。これはベルギーやフランスで登録拒否者が多かったのに比べて特異。この住民台帳をもとに、ナチス・ドイツと当局はオランダのユダヤ人を死への強制移送が可能だった。
 この本では、ユダヤ人の子どもたちの一部がひそかに逃亡ルートに乗って安全な場所に匿われたことを明らかにしています。それでも助かったのは1割ほどで、9割の子どもたちは殺害されたようです。
 映画にもなった「シンドラーのリスト」は私も知っていましたが、別に「カルマイヤーのリスト」なるものがあるそうです。初めて知りました。ドイツ人法務官としてオランダのユダヤ人認定を審査する責任者だったカルマイヤーがユダヤ人認定を取り消す判定を下し、その結果、2659人の「ユダヤ人」が救われたとのことです。シンドラーが救ったユダヤ人は1200人ですから、その2倍以上というわけです。
どんな方法だったかというと、洗礼証明書によって、祖父母や父母が実はキリスト教徒であり、ユダヤ人の家庭で養子として育てられていただけだと判定したのです。この証明書は精巧にできた偽造文書もあったようですが、周囲の反ナチ的な人々とともに「客観的」な証拠によってユダヤ人でないと判定していったのでした。ただ、カルマイヤーには陰の部分もあるようです。
 アンネ・フランクは1929年6月12日生まれ、オードリー・ヘプバーンは同年5月4日生まれ。二人はひと月しか離れていない。「アンネの日記」が映画化されるとき、オードリーにアンネ役の打診があった。オードリーは悩んだ末に断った。「アンネのことは私の姉妹に起きたようなもの。私は自分の姉妹の人生を演じるなんて出来ない。あまりに身近すぎる」
 オードリー・ヘプバーンはユニセフの親善大使として活動するなかで、「アンネの日記」の一部を朗読した。オードリー・ヘプバーンがアンネ・フランクとほとんど同じころに生まれていたというのは初めて知りました。いろいろ発見と驚きのある本でした。
(2023年6月刊。3600円+税)

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