弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年9月21日

化け込み婦人記者奮闘記

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 平山 亜佐子 、 出版 左右社

 記者が身分を隠して特定の職場や地域などに潜入し、その実態を暴露する記事を書くというのは昔からあることなんですね。アメリカでは白人が顔を黒く塗りたくって黒人にすまし、黒人言葉で生活すると、いかに差別されるかといいう暴露本があります。日本でも、自動車製造工場の季節工として働いた体験記も読みごたえがありました。
 この本は婦人記者(今なら女性記者といいますが、当時の呼び方です)が、いろんな職業に化けて周囲の反応を記事にしたのが売れていたことを次々に紹介してくれます。
 婦人記者という新たな職業が登場したのは明治20年代ころ。これは、女性読者の増加にともない、女性向け記事が必要になったことによる。
 1907(明治40)年10月、「大阪時事新報」で、婦人記者が雑貨を扱う行商人に化け、上流階級の家庭に潜入し、その反応を連載しはじめ、大いなる反響を呼んだ。この記者は、25歳の下山京子。読者ののぞき趣味を満足させるシリーズだった。
訪問した先には弁護士の家庭もある。室内は乱雑で、自由になるお金が少ないのに、売り子に憎まれ口をたたく。すでに男性記者によるスラム(貧民街)への潜入ルポもあったが、婦人記者の化け込みは、対象の人々の境遇に同情しつつもエンタメ要素が強い。
 このころの日本では、女性(記者)が下層民や娼婦の間に入ることは果敢ではなく、むしろ「堕落」だととらえられた。
「新聞縦覧所」や「銘酒屋」なるものが、当時の風俗店だというのを初めて知りました。
よそゆき顔の訪問記と違い、化け込みには本音がある、真がある。なーるほど、ですね。
 「職業婦人」というコトバは大正期にあらわれた。女工は職業婦人とは呼ばれない。事務員や看護師、車掌や女給は職業婦人。車掌はバス・ガール、百貨店の店員はデパート・ガールと呼ばれ、若い女性のあこがれの職業だった。
 新聞記者の社会的地位は低かった。初期には、巷(ちまた)の話題を拾う探訪と、政論も書く内勤の記者の二つに分かれていた。探訪は、「羽織ゴロ」とも呼ばれ、「ユスリ」を業とするような存在として忌み嫌われていた。実際に、ユスリ・タカリをしていたようです。
 大学出にとって、新聞記者は希望してなる職業ではなく、「でもしか」職業だった。なので、婦人記者となると、さらに低く見られていた。低い男性記者の給料の半額ほどの給料でしかなかった。そこでは、今でいうパワハラやセクハラが日常茶飯事だった。
 次の化け込み記者は「ヤトナ」になった。ヤトナとは、雇女、雇仲居とも書く、派遣労働者だった。
 北村兼子という、大学生のときに大阪朝日新聞の記者になった、特別に優秀な記者が紹介されています。英語もドイツ語も、1929(昭和4)年6月にベルリンで演説できるほどです。三味線もひけ、護身術も身につけていたのですから、すごいものです。あまりに目立って活躍したため、心なき男性たちからひどく攻撃されてもいます。嫉妬心からでもあったことでしょう。1931(昭和6)年7月、27歳で病死したのが残念でした。
 1930年代の末ごろ、化け込み記事は姿を消した。このころ日中戦争が始まったからでしょう。女性記者によるなりすまし体験記が、世間に実態・真実を知らせるというのは、昔も今もいい企画だと私は思います。
(2023年6月刊。2200円)

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