弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年9月20日

旧満州に消えた父の姿を追って

中国


(霧山昴)
著者 諸住 昌弘 、 出版 梓書院

 著者の父親・諸住(もろずみ)茂夫は、明治44(1910)年10月に小樽市で生まれ、日大専門工科を卒業して間(はざま)組に入社した。24歳のとき満州に渡り、土木工事を従事したが、そのなかで水豊発電所の建設に土木技師として関わった。水豊発電所は鴨緑江上流に今もある巨大なダムで、間組が朝鮮側、西松組が満州側を担当してつくり上げた。
 ところが、父、茂夫は1945年5月、34歳で臨時招集された。日本軍の敗色は濃く、精強を誇っていた満州の関東軍は南方そして日本本土へ転出して「張り子の虎」状態になっているなか、兵員のみ充足するという召集だった。茂夫は派手な見送りもなく、ひっそりと軍隊に入営した。軍人としての基本訓練もないまま、ソ連との国境地帯に配備された。
 茂夫の所属する124師団は1万5千の兵員を擁していたが、関東軍の1945年1月の作戦計画では「玉砕」することになっていた。8月9日にソ連軍が突如として侵攻してくると、最新のT―34型戦車によって日本軍の陣地は次々に撃破され、8月13日、茂夫は戦死した(ことになっている)。
 しかし、茂夫の妻、すなわち著者の母親は、「死んだという証拠はないから生きている」と言い続けた。それを受けて、間組は、茂夫を未帰還者として扱い、17年ものあいだ休職扱いで給料を支払った。この給料によって著者たち一家は戦後を生きのびることができた。間組って偉いですね...。このような扱いは異例なのでしょうか、知りたいところです。
 著者は1943年5月に安東市(今の丹東市)で生まれています。なので3歳のときに日本へ引き揚げころの記憶はありません。しかし、記録をもとに、丹東市を訪問し、旧宅付近を探索し、また、日本への引き揚げの行程をたどったのでした。
 日本に帰国したとき、母親29歳、5歳と3歳の兄弟、そして1歳の娘という3人の幼な子を連れていたのです。いやはや大変な苦労をされたと思いますが、母は「忘れてしまった」と、子どもである著者に詳しいことはまったく話さなかったとのこと。それだけ思い出したくない、辛い体験だったわけでしょう。
 それでも、著者は父親と同じ師団にいて生き残った人から詳しい話を聞き取ったりして、当時の状況を詳しく再現しています。その意味で大変貴重な記録になっています。著者より贈呈を受けました。ありがとうございます。
(2019年10月刊。1300円+税)

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