弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年8月13日

軍人像と戦争

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 安島 太佳由 、 出版 安島写真事務所

 愛知県知多半島の南端にある中之院に、人知れず、ひっそりと佇(たたず)む軍人像の群れがある。軍人像は全部で92体。台座つきの全身像のものが22体、台座のない胸像70体。一体一体は、とても精巧に造られていて、体格や表情まで兵士一人ひとりの生き写しであるかのよう。
 たしかに写真で見る軍人像は青年らしい若々しさまで感じられ、今にも歩き出しそう、いえ、少なくとも、何か言わずにはおれないという内に秘めたものを強く感じさせます。
 長い年月、野ざらし状態にあった、これらの像は、風化が激しく、苔(こけ)むしてもいます。これほど大量の軍人像を、いったい、誰が、何のためにつくったのか...。
 1937(昭和12)年8月、日本軍は上海上陸作戦を強行した。対する中国軍を軟弱とみて、敵前上陸を敢行したのだ。これには、満州建国の実態を探るために派遣された国際連盟のリットン調査団の動向から国際世論のホコ先をそらす目的があったと解されています。
 しかし、日本軍が敵とした中国軍は蒋介石の誇る精鋭部隊であり、ドイツ軍将校たちによって督励・強化されていた。日本軍は敵である中国軍の実力をあまりに過小評価していた。
  ドイツ軍の支援を受けた中国軍は、強力なトーチカを構築し、要塞化した強固な防御陣地を築いて日本軍を待ち構えていた。名古屋第3師団歩兵第6連隊の兵士たちは上陸作戦を始めて、半月足らずで全滅してしまった。
 中国軍の戦力を軽く見ていた日本軍の戦法は、銃剣突撃、そして手榴弾のみの肉戦戦。中国軍の陣地にたどり着く前に、中国軍の機関銃攻撃によって、1万人もの将兵が無惨にも死んでいった。
遺族たちが、「戦没者一時金」をもとにして、亡くなった兵士の写真をもとにして像をつくらせ、像を建立したのです。
当初は名古屋市千種区月ヶ丘の大日時境内にあった軍人像は、日本敗戦後も、アメリカ軍の取り壊し命令に抗した僧侶のおかげで守られて残り、平成7年に現在地へ移設された。
青年兵士たちの顔は、あくまで凛凛(りり)しいのです。思わず手をあわせたくなります。若くて無為に死んでいった無念さを今の私たちに必死で訴えているとしか思えません。
靖国神社へ行ったとき、亡くなった兵士たちの無念さを私は感じることができませんでした。そこではお国のためによくぞ命を投げ出して戦ったと忠勇を最大限に鼓舞するような感じで、いささか違和感がありました。
 無念の思いで死んでいったであろう若き兵士たちを偲びながらも、戦争とは、なんと理不尽なものなのか、その無念さがひしひしと伝わってくる見事な写真集です。あなたもどうぞ手にとってご覧ください。全国の図書館に常備してほしい写真集です。
(2023年7月刊。1200円)

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