弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年6月 1日

「日本人捕虜」(上)

日本史(古代)


(霧山昴)
著者 秦 郁彦 、 出版 中公文庫

 日本人が捕虜となった事件を紹介する本です。
 白村江(はくすきのえ)の戦(663年)で、日本・百済(くだら)連合軍は唐・新羅(しらぎ)連合軍に大敗しましたが、このとき唐軍にとらわれ、27年後に日本へ帰還して「有30端、稲1千束、水田4町」を恩賞にもらった筑紫国の住人の大伴部(おおともべの)懐麻(はかま)がいた。このほか、三宅連(むらじ)得呼(とくこ)も捕虜となって先に帰国していた(『日本書紀』)。捕虜となったあと帰国して、ごほうびをもらった日本人がいたんですよね。
 秀吉の朝鮮出兵のとき(壬辰倭乱)、日本軍捕虜は「降倭」と呼ばれた。捕虜というより指揮官クラスをふくむ投降者が多く、しかも第一次出兵の初期から始まっていて、多くは朝鮮軍に寝返って日本軍と戦い、戦後も朝鮮にとどまり帰代定住した。
秀吉の朝鮮出兵は兵力30万人のうち5万人を失う惨烈な戦だった。参戦した武将達には概して不人気で、名分がなかったせいか、日本軍に戦意が乏しく、朝鮮や肥前名古屋からの逃亡者は多かった。
その総数は不明だが、有名なのは「沙也可(さやか)」こと金忠善。1642年に72歳の天寿をまっとうした。現在も14代目の子孫が健在。加藤清正の配下の岡本越後守と推定する人もいるが、確証はない。
このとき、日本軍は、2万人ないし5万人もの朝鮮の人々を日本に連行してきた(捕虜という定義にあてはまるのか疑問)。徳川家康が朝鮮との国交を回復したあと、数千人を送還した。鍋島の有田焼や島津の薩摩焼のような陶芸技術を伝えた人たちもいた。
日清戦争のとき、中国軍に捕まった日本兵は多くは中国軍に殺されたようで、捕虜となった日本兵が帰国したのは1人のみ。
日本軍の捕虜となった清国(中国)軍兵士は1790人いて、1113人が日本内地の収容所に入れられた。そして、下関条約で講和が成立したあと、中国に送還された。
 日露戦争のときは、捕虜がケタ違いに多かった。ロシア軍が8万、日本軍が2千だった。
 2千人の日本人捕虜は、うち223人は中国(満州)から帰国し、残りはヨーロッパ・ロシアの収容所から帰国した。収容所での待遇は、決して悪くはなかった。ただし、日本へ帰ってからは、周囲の冷たい視線に耐えられず、出奔する例が多かった。
 欧米では、「捕虜はひとつの特権にして、保護は当然」と考えられていた。ところが、日本兵は恥と考える思考が強かった。田舎になるほど捕虜に対する偏見が強く、居づらくなって大都市や海外移民へ逃避した者も少なくなかった。
 日露戦争のときは、ロシア兵が「マツヤマ」と連呼しながら投降してくるぐらい、日本の敵国捕虜に対する好遇ぶりは有名だった。
 この本に書かれていることではありませんが、中国共産党軍が日本敗戦後の国共内戦をすすめるにあたって、国民党軍の捕虜を好遇したことは特筆されるべきでしょう。国民党軍の兵士が負傷して捕虜になったら、自軍の兵士と同じレベルで治療し、回復したときに自軍への参加を呼びかけ、応じないときには、いくらかの旅費を手渡して帰郷させたというのです。これは絶大な効果があったようです。それほどの温情ある軍隊なら、自分も参加しようという気になるでしょう。
 ところで、共産党軍が日本軍を敵としていたときには、いったん捕虜になったら日本軍に戻っても好遇されないことを知って、日本軍への送還は止めたというのです。
 日本軍の悪しき伝統である兵士の生命・身体をまったく軽視してしまう考えは改められる必要があります。自衛隊では、その点、どうなっているのでしょうか...。まさか捕虜になったら死ねなんて教えてはいないでしょうね。大変勉強になりました。
(2014年7月刊。1200円+税)

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