弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年5月 5日

島原・天草一揆

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 小西 聖一 、 出版 理論社

 私は原城跡には3回ほど行ったことがあります。こんなところに3万人もの農民たちが家族連れで籠城し、その数倍もの幕府軍と長いあいだ抗して戦ったのかと思うと、感慨深いものがありました。すぐ近くでは土産品を売っていますし、少し離れたところには立派な資料館もあります。
 そして、忘れられないのは、秋月(福岡県)の郷土資料館に天草一揆に従軍した秋月藩から見た戦闘状況を刻明に描いた絵巻物が展示されています。これまた必見です。
この天草一揆は、キリスト教を禁圧したことへの抗議というだけでなく、百姓の生活を厳しく圧迫した苛酷な藩政に対する抗議、つまり百姓一揆の面もあるとみられています。
そして、農民たちを戦闘の場面で指導したのがキリシタン武士たちでした。キリシタン大名だった小西行長の家来たちです。
幕府側の最高司令官は板倉重昌で、当時50歳。1万5千石の三河の小藩の藩主。ところが、続いて20数日後、老中・松平信綱が二人目の司令官として伝命された。
二人も司令官がいるなんて、異例ですよね。
戦国時代、ザビエルたち宣教師の活躍の成果として、全国のキリシタン人口は13万人。うち島原、大村、天草などに11万5千人、豊後(大分)に1万人、京都に5千人。これって、地域的にあまりに偏っていますよね、どうしてなんでしょうか...。
豊臣秀吉が、なぜ急にキリシタンを厳しく取り締まるようになったのか、いろいろ説があるようです。
 小西行長は、堺の商人の出身で、秀吉に取り立てられて大名にまで出世した。高山右近の影響でキリシタンとなり、アウグスティヌスといった。宇土に城を構え、肥後の南半分、天草の島々も支配する領主となった。
関ヶ原合戦のころ、全国のキリシタンは75万人にまで増加した。家康、秀忠、家光と、三代の将軍もキリシタン禁圧をすすめた。
 初めの司令官の板倉重昌は総攻撃を命じて、自らも進攻軍にいたところ、原城の一揆軍の鉄砲にあたって戦死した。その直後に松平信綱が幕府軍の陣営に着任した。
 このことから、板倉重昌は焦って死地を求めて無理を承知で最前線に出て、ついに戦死してしまったという説が有力です。状況としてはありえますよね...。
 原城跡を12万の幕府軍が取り囲んで、気長に待つ兵糧(ひょうろう)攻め、干乾(ひぼ)し作戦が取られた。そのうえで、幕府軍は総攻撃に移って、城内にいた3万7千人もの老若男女をみな殺しにしたのです。
 今でも、原城跡を深く堀りすすめると、当時の遺物が発見されるとのことでした。
 ぜひまた、原城跡に行ってみようと思います。
(2023年1月刊。1800円+税)

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