弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2023年5月 1日
続々・千曲川の岸辺
司法
(霧山昴)
著者 伊藤 眞 、 出版 有斐閣
民事訴訟法学者として高名な著者は、私にとっては破産法の学者として関わりがありました。著者が名古屋大学の教授のころです。なので、同じく破産法の学者として走り出し中の宮川知法教授の業続を偲ぶ論述に触れてなつかしさがこみあげてきました。といっても、私は宮川教授ご本人とは直接の面識がありません。それでも、熊本大学にいた宮川教授の論稿は、当時の私にとって実に援軍来たるという思いがしていました。というのも、当時、クレジット・サラ金問題対策に取り組む弁護士の多数派は多重債務の原因は生活苦なのだから、一刻も早く破産・免責して苦悩から解放してやるべきだという大合唱だったのです。いやいや、多重債務の原因は「生活苦」だけではなく、ギャンブルも浪費も相当あるし、免責が早ければいいなんていうことではないと主張し、対抗していたからです。宮川教授は、私の意見にストレートに賛成していたということではありませんが、債務者更生手続を新設する必要があるという点では一致していました。これに対して、「多数派」はそんなことは必要ないと切り捨てるばかりでした(と思います)。私は、そんな「多数派」に対して、そんなのは「一丁あがり方式」だと反発していました。すると、自ら「一丁あがり方式」を実践していた弁護士から、「反省した」という声もいくらか聞こえてきましたが、多くは感情的な反発を受けました。そんなわけで「クレサラ対協」のなかで、私は一貫して「少数・強力派」にとどまったのです。それでも実践と豊富なデータ分析に裏づけられた私の主張を、「多数派」といえども無視することはできませんでした。
著者に対して、私は自費出版した冊子をふくめて、何冊もの本を送り届けましたが、その都度、必ず自筆のお礼状が届いて恐縮しました。この本には、その点について、次のように記述されています。
いただいた書物については、礼状はできる限り稚拙な手書きによることにしている。
ここは「知拙な手書き」とありますが、決してそうではなく、味わい深い「手書き」なので、捨てるのがもったいなくて私は全部をファイルに保存しています。
ついでにいうと、著者は日本人なら、欧米の教養人にとってラテン語が必須であるのと同様に最低限の漢語文読解力は備えた方がいいと思うとしています。
いやあ、これにはまいりましたね。漢語文読解力なんて、私は考えたこともありません。なので、この本には、時折、私の見知らぬ漢語が登場します。たとえば、「燃犀之明」です。物事の本質を見抜く明知。犀(さい)の角を燃やすと、その火は非常に明るくて、水の中まで透き通ってよく見えるという意味だそうです。まったく知りませんでした。
著者が、労働委員会の公益委員をしていたとき、主張書面の要旨を口頭で述べるように求めると、代理人が「書面を読んでもらえれば分かる」と答えたのに対して、「要旨を述べられないような書面を読むつもりはない」と言い返したというのは、衝撃的でした。
私なら、待ってましたとばかり、口頭で何か言ったと思います。通常の民事訴訟で、「書面のとおりです」としか言わないことに著者は大変不満なのですが、それも当然です。もっと「口頭弁論」は実質化されるべきだと私も思います。
しかし、それには、裁判官が、双方の主張書面をじっくり読んでいて、争点をそれなり把握していることが不可欠です。ところが、現実には、それをしっかりやっている裁判官は実のところ少数派なのではないでしょうか。
著者は大学教授を卒業したあと、「五大事務所」に入って弁護士として活動していますが、その事務所では月1回の昼食講演会があり、著者も年1回は登壇しているとのこと。なるほど、このような所内研修の機会があれば、質的向上は確保されることだろうと思い、とてもうらやましく思いました。
いろいろ勉強になる本でした。
(2022年4月刊。2800円+税)
2023年5月 2日
「父・坂井孟一郎」
社会
(霧山昴)
著者 嶋 賢治 、 自費出版
今は長崎市の一部になってしまった香焼(こうやぎ)町で、「憲法町長」というネーミングをもつ革新町長を永くつとめた人の息子(娘の夫)が紹介した冊子があるというのを知り、取り寄せて読みました。
坂井孟(たけ)一郎は、明治43(1910)年6月生まれで、戦前、治安維持法違反で検挙された。日本大学予科をストライキ指導で退学させられ、満州に渡った。このとき、香焼村の村長をしていた父親が政治力を発揮して起訴留得にしたうえで満州で逃がした。
満州では4人の子(全員が男の子)を日本敗戦の前後に次々に亡くした。そして、日本に引き揚げたあと、36歳のとき(1947年4月)香焼村長に当選した。
村長として、戦後の農地解放の波に乗って、川南造船所から進航軍(マッカーサー)の指示より4倍もの土地を農民のものとした。
ところが、昭和天皇の長崎行事に階し、村長として県下ただ一人お迎えに行かなかったことからリコール運動が起きた。そのとき、父のすすめもあって、小学校建設とひきかえに村長を辞任した。
昭和30年、香焼村の財政が破綻したことから村民に呼び戻されて村長に立候補して当選。川南造船所が破産間近と知って、財産差押を断行して村財政の再建に貢献する。水道施設を村有として上水道を創設し、中学校の校舎を建設した。
その後も、香焼町長として活躍。町村で初めての下水道100%計画、図書館、ごみの毎日収集などを実現。昭和62(1987)年4月末に町長を退任するまで革新自治体の長として活躍した。
1985(昭和60)年の町長の施政方針演説の一部を紹介する。
「核兵器の保有において世界の第一、第二という保有国の一方とだけ同盟を結んで対処していこうとするのが今の日本政府の方針。アメリカという国は、核兵器の廃絶、使用禁止とかに国連で賛成したことはない。
日本が核保有国の一方と同盟を結ぶというのは日本民族の将来の厄災につながりかねない。そういう危険な方向は廃すべきだ」
これが田舎の町議会での町長の演説だなんて、信じられませんよね。今の岸田首相にしっかり聞かせたいものです。野党多数の町議会だったので、坂井孟一郎の生涯はケンカの一生だった。それでも本人は「どうもケンカを途中でやめられないタチらしくて...」とウソぶいて、貫き通したのです。偉いものです。
通算10期35年ものあいだ、村長そして町長として「憲法をくらしの中にいかそう」という大看板を町役場にかかげていたのです。涙が出るほど元気の出る、うれしい話です。
わずか70頁の冊子ですが、こんな首長の登場を今ふたたび待望したいものだと思い、勇気づけられました。この冊子を刊行された(株)嶋会計センターに感謝します。
(2022年9月刊。非売品)
2023年5月 3日
にっぽんのスズメ
鳥
(霧山昴)
著者 中野 さとる ・ 小宮 輝之 、 出版 カンゼン
鳥って、あの恐竜の生き残りなんですよね。でも、スズメがティラノサウルスと同じ恐竜の仲間だなんて、信じられませんよね。可愛らしい小鳥ですからね...。日本にいるスズメの生態を間近で撮ったスズメの写真集のような本です。
わが家にも、かつてはスズメ一家が2家族すんでいました。2階の屋根裏と1階のトイレの窓のすぐ上です。子どもが生まれて子育て中になると、トイレのすぐそばで、にぎやかな声を聞きながらほっこりしていました。
わが家からスズメが姿を消したのは、すぐ下の田圃でお米を作らなくなってからのことです。お米をつくっているときは、梅雨に入るころは水田で鳴く蛙の鳴き声がたまりませんでした。でも、水田の上を吹き渡ってくる風はまさに涼風でした。なので、エアコンなしの夏を過せていました。休耕田となった今は、エアコンなしでは夏は過ごせません。
スズメはスズメ目スズメ科スズメ属。留鳥。地上で移動するときは、両足をそろえてピョンピョンする、ホッピング。スズメは稲穂だけでなく昆虫も食べる、雑食性。子育て期には昆虫をせっせと食べる。
スズメは清潔好き。寄生虫の予防のため、水浴びと砂浴びを欠かさない。きれい好きのスズメの巣の中には寄生虫がいない。
スズメは卵を1日に1個、合計4~6個うむ。すべての卵をうみ終わってから、抱卵を始める。同じころに卵がかえるようにしている。抱卵日数は、2週間ほど。そして、ふ化してからヒナが巣立つまでも2週間。
スズメは人の住んでいない高山や深い森林には生息していない。
紫式部の『源氏物語』、清少納言の『枕草子』の、どちらにもスズメは登場している。スズメの仲間のニュウナイスズメは留鳥ではなく、漂鳥。
スズメが減ったのは、スズメのねぐらになるようなヤブやすき間の多い民家が減ったから。
スズメの仲間のイエスズメは、南極以外のすべての大陸に分布している。地中海に注ぐ、ナイル川の下流域が原産地。
スズメの百選写真集といってもよい本です。好きな人は、ぜひ手にとってみて下さい。
(2023年3月刊。1500円+税)
2023年5月 4日
ある男
社会
(霧山昴)
著者 平野 啓一郎 、 出版 文春文庫
著者の社会批判は、いつも的確で、小気味良さを感じながら共感することがほとんどです。
映画はみていませんので、どんな話なのか、まったく知らないで東京出張の途中で読みはじめました。いやあ、ぐいぐい引っぱられてしまいました。読ませます。
弁護士活動の体験談のような体裁の本でもあります。これは、著者が京都大学法学部出身なので、身近に弁護士が多数いることから来るのかもしれません。
ともかく、弁護士である私が読んで、まったく違和感がありませんでした。
これから、少しネタバレになることをお許しください。私は弁護士として、たくみに噓をつく人には少なからず接触してきましたが、戸籍の交換というのは私の見聞したなかにはありませんでした。外国籍の人が日本の国籍を得るために「偽装」結婚したというケースは関与したことがありますが...。
誰かになりすますというのは、たとえ戸籍を交換できたとしても容易なことではないはずです。それぞれの生活背景を語り尽くせるはずがないからです。
また、統一協会やエホバなどの信者2世の悲惨な状況が話題になっていますが、殺人犯などの加害者2世の問題も深刻だと、私も思います。だから、戸籍をとりかえてまで、他人になりすましたいという気持ちは、それなりに理解できます。
父親が殺人犯だとして、その父親とそっくり、よく似ていると言われたとき、それは、この世にいてはいけない存在だと言われたも同然のこと...。いやあ、きっとそう思いつめるんだろうな、そう思いました。でも、よく考えてみたら、父と子って、子が大人になったら、全然、別の存在なんですよね。
私は、大学でセツルメントというサークルに入って、親を敵視しているという学生に出会って、それこそ腰が抜けるほど驚いてしまいました。私自身は、親のおかげで大学に入れたのに、親を小馬鹿にしていた自分の愚かさに気がついて、ガク然としました。このことを今もはっきり覚えています。
いい本にめぐりあえたという思いで一杯になった本でした。
(2021年9月刊。820円+税)
2023年5月 5日
島原・天草一揆
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 小西 聖一 、 出版 理論社
私は原城跡には3回ほど行ったことがあります。こんなところに3万人もの農民たちが家族連れで籠城し、その数倍もの幕府軍と長いあいだ抗して戦ったのかと思うと、感慨深いものがありました。すぐ近くでは土産品を売っていますし、少し離れたところには立派な資料館もあります。
そして、忘れられないのは、秋月(福岡県)の郷土資料館に天草一揆に従軍した秋月藩から見た戦闘状況を刻明に描いた絵巻物が展示されています。これまた必見です。
この天草一揆は、キリスト教を禁圧したことへの抗議というだけでなく、百姓の生活を厳しく圧迫した苛酷な藩政に対する抗議、つまり百姓一揆の面もあるとみられています。
そして、農民たちを戦闘の場面で指導したのがキリシタン武士たちでした。キリシタン大名だった小西行長の家来たちです。
幕府側の最高司令官は板倉重昌で、当時50歳。1万5千石の三河の小藩の藩主。ところが、続いて20数日後、老中・松平信綱が二人目の司令官として伝命された。
二人も司令官がいるなんて、異例ですよね。
戦国時代、ザビエルたち宣教師の活躍の成果として、全国のキリシタン人口は13万人。うち島原、大村、天草などに11万5千人、豊後(大分)に1万人、京都に5千人。これって、地域的にあまりに偏っていますよね、どうしてなんでしょうか...。
豊臣秀吉が、なぜ急にキリシタンを厳しく取り締まるようになったのか、いろいろ説があるようです。
小西行長は、堺の商人の出身で、秀吉に取り立てられて大名にまで出世した。高山右近の影響でキリシタンとなり、アウグスティヌスといった。宇土に城を構え、肥後の南半分、天草の島々も支配する領主となった。
関ヶ原合戦のころ、全国のキリシタンは75万人にまで増加した。家康、秀忠、家光と、三代の将軍もキリシタン禁圧をすすめた。
初めの司令官の板倉重昌は総攻撃を命じて、自らも進攻軍にいたところ、原城の一揆軍の鉄砲にあたって戦死した。その直後に松平信綱が幕府軍の陣営に着任した。
このことから、板倉重昌は焦って死地を求めて無理を承知で最前線に出て、ついに戦死してしまったという説が有力です。状況としてはありえますよね...。
原城跡を12万の幕府軍が取り囲んで、気長に待つ兵糧(ひょうろう)攻め、干乾(ひぼ)し作戦が取られた。そのうえで、幕府軍は総攻撃に移って、城内にいた3万7千人もの老若男女をみな殺しにしたのです。
今でも、原城跡を深く堀りすすめると、当時の遺物が発見されるとのことでした。
ぜひまた、原城跡に行ってみようと思います。
(2023年1月刊。1800円+税)
2023年5月 6日
まんぷくモンゴル!
アジア
(霧山昴)
著者 鈴木 裕子 、 出版 産業編集センター
モンゴルで公邸料理人として勤めた日本人女性のモンゴル体験記です。とても面白くて、一気読みしました。
モンゴル人は、仔羊や仔牛など幼畜たちの肉は食べない。ええっ、ウッソー、でした。
日本の4倍の国土に世界一人口密度は低く、家畜は人間の20倍以上もいる。国土の8割が草原で、雨がほとんど降らず、寒い。氷点下20度の寒さがあたり前。
家畜の命を奪うのは男性の仕事で、女性はしてはいけないし、本当は屠殺の瞬間も見てはいけない。
草原の草は、小さく硬く、苦い。モンゴル人は、緑の葉は人間が食べるようなものではないと言う。なぜ野菜を食べなくてはいかんのか。肉の中に入っているじゃないか...。
モンゴルで豚と鶏の肉を手に入れるのは易しいことではない。
ラクダは2年に1頭の仔を育てる。ラクダの肉は脂が真っ白、そしてまったく美味しくない。
羊の尾は、モンゴル人が好んで食べる最上の脂。さらりとして滑(なめ)らかで、よく溶け、癖がない。
モンゴルの牛乳は美味しい。日本とはまるで違った味。モンゴルではホルスタインなどの乳牛は飼わない。そのミルクを煮立てて飲む。草だけで育った自然の生ミルク。お鍋の底のお焦(こ)げは子どものおやつ。上に張る皮は食べる厚さがある。
有名な馬乳酒は、仔馬がちゃんと育ってきたのを見届けてから、お乳を必要としなくなるまでの短い間に、人が馬から横取りする生乳を発酵させて作る。馬は年に1度しか発情期をもたない。なので、お乳も年に1度の季節限定。馬乳酒は、夏の3ヶ月ほどの短い間にしかつくられない。
モンゴル人に言わせると、からだを冷やす肉があり、それは山羊とラクダ。だから夏に食べ るとよい。
モンゴル人は、あたたかいものがご馳走で、冷たいものは苦手。ゲルの壁となる家畜の毛のフェルトは、空気を通しながら、熱をまったく逃がさない。
台所にまな板はなく、すぐに乾くので、洗わなくても問題はない。モンゴル人は、火を通さないものは食べない。
モンゴルにはラクダが30万頭もいる。フタコブラクダは強くて安全。
ラクダは乾燥に強く、40%を失っても生きのびる。汗はかかない。寿命は30年。
モンゴル人は酔ったら家に帰らない。酔ったうえでの帰路は怖い。
いつもは遊べない。だから、遊べるときは遊び倒す。
子だくさんの女性は、国から表彰される。
モンゴル人は肉ばかり食べるからなのか、日本人より十数年も寿命が短い。モンゴル人には、心筋梗塞、血栓、動脈硬化など、血液ドロドロが主な原因の病気、そして食道がんや糖尿病が多い。
だから、著者はモンゴル人に野菜をたくさん食べてもらおうと野菜の本をつくった。
50歳台の日本人女性の発揮するバイタリティーには圧倒されてしまいました。
日本ではちょっと食べられないような肉料理のオンパレードでしたが、やはり野菜はたいせつなのですよね...。ご一読をおすすめします。元気の湧いてくる本でした。
(2023年3月刊。1200円+税)
2023年5月 7日
上海
中国
(霧山昴)
著者 工藤 哲 、 出版 平凡社新書
私もかなり昔に上海に行ったことがあります。超近代的な巨大都市なので、まさに圧倒されました。恐ろしい上海の現実を真っ先に紹介します。
上海では毎年30人以上の日本人が死んでいる。2004年には43人もの日本人が死んだ。とはいっても、この分母は大きいのです。上海市だけで4万4000人の日本人がいる(2012年には7万9000人)。
日系企業は上海市に1万あり、世界一位。日本人学校の生徒数は2200人、世界中に90ある日本人学校のなかでバンコクに次いで多い。そして世界で唯一、高等部がある。
死因のうち、病死では、心臓疾患と脳疾患、脳梗塞が増えている。上海に居住すると、緊張感が強いられ強いストレスがかかるところなのだ。そして、いたるところに監視カメラがあり、顔認証ですぐ街角での違反行為が摘発される。
スマホなしでは生活できない。あらゆるサービスがスマホと連動している。
建物が高層化しているため、街頭の監視カメラには上向きのものまである。危険な落下物を取り締まるためのもの。
中国の「モーレツ人間」をあらわすコトバとして、「九九六」というものがある。毎日、午前9時から夜9時まで、週6日間、働き通すこと。でも、実のところ、夜10時まで働くのが常態で、このあと帰宅しようとすると、タクシーをつかまえるのが難しい時間帯になっている。ホワイトカラーの8割で、残業が日常化している。
上海にいると、日本は資本主義の顔をした社会主義で、中国は社会主義の顔をした資本主義だと思える。日本が社会主義だなんて笑ってしまいますが、中国は明らかに資本主義そのものだと私も思います。
中国人、それも上海人は九州に来て「癒やし」を求める。なるほど、それは言えるかも...、と思います。阿蘇の大観峯は気宇壮大な気分に浸れますし、湯布院や黒川の温泉街って、気分をすっかり落ち着かせるから、日本人でも「最高!」って思いますよね。
上海そして中国の現実を手軽に知れる新書です。
(2022年2月刊。920円+税)
2023年5月 8日
「心の病」の脳科学
人間
(霧山昴)
著者 林 朗子 ・ 加藤 忠史 、 出版 講談社ブルーバックス新書
脳の機能を良くすると称してグルタミン酸やGABAを体外から摂取することが広告・宣伝される。しかし、体外からこれらを摂取しても、脳には到達しない。神経伝達物質は脳の中で生産され、その合成と分解の過程も緻密(ちみつ)に制御されている。
タバコのニコチンも神経伝達物質で、脳内のニコチン性アセチルコリン受容体に結合し、ドーパミン神経細胞を介して快楽物質であるドーパミンの分泌を促すため、快感や覚醒作用が生じる。
一つの神経細胞には、1万個ほどの興奮性シナプスがある。シナプスには、情報を伝える側のシナプス前細胞と、受け手のシナプス後細胞がある。
統合失調症は遺伝要因が強い疾患だが、発症するのは3割だけで、残り7割は発症しない。環境要因が加わることによって発症する。たとえば、心理的ストレスが発症の引き金となる可能性がある。
うつ病は、世界に2億8千万人もいる。日本では100人のうち6人がうつ病。
うつ病の治療薬(抗うつ薬)は、7割の患者の症状を改善する。双極性障害の人が抗うつ薬を服薬すると、気分は落ち込んでいるのに、自殺する元気は出てしまうということになりかねない。
ASD(自閉症スペクトラム症)の発症頻度がふえている原因として、晩婚化の影響がある。というのも、父親の年齢が高くなると、精子のゲノムに変異が入る確率が高まるから。
ASDは親の育て方に原因があるというのは誤り。生まれつきの脳機能に原因がある。
ASDの子どもに適切な睡眠をとらせることで、社会性が改善する。
ADHD(注意欠如・多動症)は、ごくありふれた病気。男女比は1対1、20人に1人の子ども、40人に1人の大人がADHD。
人間は3歳までの記憶はまったくない。なぜなのか...。ずっと疑問に思ってきました。それは脳のなかの海馬が、この3歳ころまでが神経派生がとくに盛んなので、神経回路の再編が次々に起きてしまうので、それまでの出来事は消去されてしまうということ。なーるほど、ですね。
古い記憶を思い出すには、海馬は必要ない。海馬は、さまざまな情報の記憶を束(たば)ねる「扇の要(かなめ)」のような役割をしている。
PTSDを引き起こす恐怖記憶の要(タグ)は、恐怖記憶がいつも思い出されているため、海馬に残り続ける。
「心の病」と脳の働きが、かなり分かりやすく解説されている新書です。
(2023年3月刊。1100円+税)
2023年5月 9日
長崎と天草の潜伏キリシタン
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 安高 啓助 、 出版 雄山閣
天草地方とキリシタン・島原天草一揆についての知見を深めることができました。
この本によると、島原天草一揆への参加をめぐってキリシタン内部は分裂状態となり、一揆に参加しなかったキリシタンが「潜伏キリシタン」になっていったとのこと。
そして「潜伏キリシタン」たちは洗礼名をもちながらも、絵踏をしたため、幕府から禁じられたキリスト教(耶蘇宗門)ではなく、別の宗教「異教」だとされた。彼らは仏教徒として寺情制度に従っていて、地域社会の構成員となった。
文化2(1805)年の天草崩れで、5205人が検挙されたものの、「非キリシタン」の仏教徒と判断され、厳刑に処された者はおらず、差免(放免)となった。
天草にキリスト教を伝えた宣教師のアルメイダは、育児院や病院を開設した。現世利益を重んじる人々は、そのおかげで助かりこぞってキリスト教に入信した。
アルメイダはマカオで司祭に叙せられたあと、天草に戻り、1583(天正11)年に天草で亡くなった。
一揆当時の天草は、唐津藩の飛び地だった。
キリシタン大名として有名な高山右近は豊臣秀吉から追放されたあと、同じくキリシタン大名だった小西行長を頼って天草へやってきた。高山右近が隠れて住んでいることがバレてしまい、結局、フィリピンへ渡っていった。
天草における一揆勢と果敢に戦い、ついには戦死した三宅藤兵衛重利は明智光秀の外孫にあたり、また細川忠利、熊本藩主と従兄弟(イトコ)の関係にあった。唐津軍は一揆勢と戦うなかで苦戦を強いられ、ついに藤兵衛は戦死してしまった。
一揆勢は唐津軍と戦うとき、「鉄砲いくさ」の状況だった。次第に一揆勢が優勢となり、唐津軍は後退していった。
開戦前は一揆勢に味方しなかった村人も、一揆勢の勢いと唐津軍の敗走を目のあたりにすると、続々と一揆勢に加わった。天草島内の百姓たちは戦況を見極め、優勢なほうにつこうとした。戦力としては上回る唐津軍に対して一揆勢が優勢になったのは、一揆勢の巧みな鉄砲術と強固な結束力によるところが大きい。
一揆に敗退した藤兵衛について立派な墓が建立されたのは、幕府側から見た天草一揆としての位置付けによる。藤兵衛は、いわば「正義の名将」と昇華したようだ。
江戸時代、天草は流人処分の地とされた。江戸からの流人は一度で50人から100人ほどの大勢がやってきた。寛文4(1664)年から享保元(1716)年までに、天草には139人の流人が連れてこられた。いやあ、これはちっとも知りませんでした。流人といったら、八丈島などの遠い島々かと誤解していました。
知らない話がたくさん出てきて、面白くかつ知的刺激を受ける本でした。
(2023年1月刊。3520円+税)
2023年5月10日
南風に乗る
社会
(霧山昴)
著者 柳 広司 、 出版 小学館
沖縄の戦後の歩みが生き生きと紹介されている本です。アメリカ軍の支配下にあった沖縄で、沖縄の人々は本当に泣かされていました。少女を強姦しても、人々を殺してもアメリカ兵はまともな裁判にかけられることもなく、アメリカ本土に逃げてそれっきり...。日本に裁判権がないのは、昔も今も実質的に変わりません。そして、目先のお金につられ、また脅されて、アメリカの言いなりの人々が少なくないのも現実です。
今、沖縄の島々に、自衛隊がミサイル基地を設置し、弾薬庫を増設し、司令部は地下へ潜り込もうとしています。島民はいざとなったら、九州へ逃げろというのですが、いったいどうやって九州へ行くのですか。また、九州のどこに行ったらいいというのでしょうか。
軍隊は国民を守るものではない。軍隊は軍隊しか守らない。むしろ、軍隊にとって国民は邪魔な存在でしかない。沖縄戦のとき、先に洞窟にたどり着いていた人を遅れてやってきた軍隊が戦火の中へ追い出した。
ところで、この本のタイトルは何と読んだらいいのでしょうか...。「まぜ」と読むそうです。文字どおり南からの風のこと。マは「良」ですから、「良い風」でもあります。
この本に登場してくる主要な人物は3人。まず、ビンボー詩人の山之口獏(ばく)。沖縄出身の天才詩人で、日本語で書いた詩がフランスで賞をとったそうです。2人目は瀬長亀次郎。戦前、川崎市で働いているうちに治安維持法違反で逮捕され、懲役3年となり服役。終戦時は沖縄にいて、避難しているうちにひどい栄養失調になって入院した。
戦後の沖縄はアメリカ軍政下にあり、アメリカ軍の少佐はこう言った。「アメリカ軍はネコで沖縄はネズミ。ネコが許す範囲でしか、ネズミは遊ぶことができない」
これって、今の日本でも本質的に同じですよね...。オスプレイを押しつけられ、佐賀空港の隣に基地ができるなんて、たまりません。
カメジローは、1952年3月の立法院議員に立候補し、那覇区でトップ当選。そして、琉球政府創立式典のとき、カメジローは、ただ1人、起立せず、さらにアメリカ軍民政府への協力宣誓を拒否した。
いやあ偉いです。勇気があります。君が代斉唱の拒否どころではありません。
カメジローは、演説中は一切メモを見ない。終始、聴衆に自分の言葉で話しかける。独特のユーモアと明るさ、庶民性を兼ねそなえている。カメジローの演説は聴き手にとって、胸のすく思いのする、またとない娯楽だった。
「海の向うから来て、沖縄の土を、水を、そして沖縄の土地を勝手に奪っているアメリカは、泥棒だ。泥棒はアメリカにはいらない。アメリカは沖縄から出ていけ」
アメリカ軍政下の沖縄です。ユニーク、かつ大胆なカメジローの演説は聴衆のどぎもを抜いた。
沖縄では、アメリカ兵がどんな重大犯罪を犯しても、日本の法廷で裁かれることはなく、非公開の軍事法廷で裁かれ、判決結果は公表されず、被害者へ知らされることもない。殺され損の泣き寝入り。これは本質的には今も変わらない。アメリカ軍に代わって日本政府がなぜか肩代わり補償するようで、まるで植民地システム。
1954年10月、カメジローは逮捕された。容疑は犯人隠匿(いんとく)幇助(ほうじょ)。不法滞在の人間を匿ったという罪。沖縄人民党員の活動をアメリカ軍が嫌ったというのが、実質的な逮捕理由。有罪となり、直ちに刑務所へ収監。控訴・上告のない一審制。
刑務所から出獄して8ヶ月後、カメジローは那覇市長に当選。アメリカ軍は、カメジロー市長の那覇市にはお金を支給しないと宣言。すると、那覇市民は、自らすすんで納税にやってきた。500メートルもの市民の行列ができ、納税率はなんと97%。銀行が税金の預りを拒否したため、大型金庫を買って、職員が交代で番をした。日本全国から5千通をこえる応援の手紙が届いた。いやあ、泣けてきますよね。アメリカ軍の言いなりにならない、我らがカメジロー市長を応援しようと心ある市民が立ち上がったのです。
そして、ついに市長不信任が可決。するとカメジロー市長は議会を解散して選挙へ。その結果は、カメジロー派の議員が6人から12人に倍増。反カメジロー派は7議席も減らした。
そこでアメリカ軍政府は、カメジロー市長を追放し、被選挙権まで奪った。このときの市長追放抗議市民集会には10万人をこえる市民が集まった。この集会でカメジローは勝利を宣言した。
「セナガは勝ちました。アメリカが負けたのです」
市民が投票で選んだ市長を、アメリカの任命した高等弁務官の意にそわないからといって追放するだなんて、「民主主義の国、アメリカ」が泣きますよね...。でもこれがアメリカという国の、今も変わらない本質だと私は思います。
カメジローの不屈な戦いは、岸田政権のJアラートを頻発し、「北朝鮮は怖いぞ、怖いぞ」と思わせて大軍拡路線に突っ走っている現代日本で、待って待って、と声を上げ、平和を守ってともに闘いましょうという勇気をわき立たせてくれました。思わず元気の湧いてくる本です。ぜひ、あなたにご一読をおすすめします。
(2023年3月刊。1800円+税)
2023年5月11日
「真実を求めて」
司法
(霧山昴)
著者 布川事件の国賠訴訟を支援する会 、 自費出版
冤罪・布川(ふかわ)事件の国賠訴訟をふり返った記録集です。A4版、75頁の記録集ですが、内容も体裁(編集)も実に素晴らしい出来上がりで、心より感動しました。桜井昌司さんの冒頭の「最後のご挨拶になりました」にも心を打たれます。
「不良少年」だった20歳のときに逮捕されて有罪となり、以来、54年間に及ぶ国家権力との「仁義なき闘い」を勝ち抜いた桜井さんに対して心から拍手を送ります。桜井さんは「挨拶」のなかで「末期がんで余命1年を宣告」されたとのことですが、いえいえまだ元気で全国を駆けめぐっています。
最近は飯塚事件(すでに死刑執行ずみ)の再審請求で福岡まで来られたようです。
「皆さん、本当にありがとうございました。54年間に及んだ闘いは愉しかったです。皆さんとお会いできたことが人生の宝です」
心にしみる挨拶文です。桜井さんとコンビを組んで冤罪を晴らすために闘っていた杉山さんは病死されましたが、杉山さんのお墓まいりの写真も紹介されています。
写真といえば、桜井さんは2012年から2014年にかけて四国巡礼したようで、巡礼服の桜井さんが記録集の各所で紹介されていて、これまた心をなごませます。
単なる活動記録集になっていないのは、「支援する会」の代表委員でもある豊崎七絵・九大法学研究院教授の講演と弁護団の谷萩陽一団長の報告が紹介されていることから、布川事件の闘いの意義、そして国賠訴訟が切り拓いた意義を確認することができます。
まずは豊崎教授の講演です。教授は、布川事件の闘いの意義は三つ。第一に、松川・白鳥(しらとり)、八海(やかい)、そして仁保(にほ)事件という、戦後の著名な冤罪事件の闘いを継承しつつ、それらを上回って、再審・国賠を闘い抜いたうえ、大変筋の通った勝ち方をした。第二に、他の冤罪事件にとって偉大なる道しるべになったこと、桜井さんが結び目(結節点)となっていること。第三に、不備の多い再審法改正の立法事実を示したこと。
最後に、教授は今後の課題として三つをあげています。その一は、裁判所が冤罪の原因と責任の所在を明らかにするのをためらってはいけない。その二は、冤罪の責任は、警察と検察だけでなく、裁判官にもあること。その三は、冤罪の原因と責任を究明する仕組みを立法で設けること。
いやあ、すばらしい指摘です。いずれも大賛成です。多くの裁判官は検察官の顔色をうかがうばかりで本当に勇気がありません。残念です。たまに気骨のある裁判官に出会うと、ほっと救われた気がしますが、本当にたまにです。
続いて谷萩弁護士の報告です。国賠訴訟の判決は検察官には手持ち証拠を全部開示する義務があるとした。このことを高く評価しています。本当にそうです。検察官が私物化していいはずはありません。洪水でなくなったとか、嘘を言って提出しないなんて、公益の代表者として許されていいはずがありません。証拠を隠した検察官は職務濫用として免官のうえ処罰されるべきです。そして、最後に谷萩弁護団長は、桜井さんが本当にがんばったし、弁護団も支援する会もがんばったけれど、裁判官(遠藤浩太郎判事)に恵まれたとしています。裁判官の良心を奪い立たせるほどの運動と取組があったということでしょうね。本当に、裁判は裁判官次第だというのは、日頃の私の強く実感するところです。
この記録集のなかには私のメッセージも載っています。本当に読みやすい体裁でもありますので、みなさん手にとって読んでみてください。桜井さん、本当にお疲れさまでした。引き続き、冤罪犠牲者の会でもがんばってください。
(2023年4月刊。非売品)
2023年5月12日
葛藤する法廷
司法
(霧山昴)
著者 水野 浩二 、 出版 有斐閣
「ハイカラ民事訴訟と近代日本」というサブタイトルのついた本です。「ハイカラさんが通る」って、なんか聞いたことがありますよね。いったいいつの話なのかな...。
なんと、この本は明治24年(1891)年に施行された民事訴訟法の運用と、その改正法が成立・施行された1929(昭和4)年までの動きを追っているのです。
なんで、私がそんな古い民事訴訟法に興味をもったかというと、江戸時代の民事裁判と明治時代のドイツ直輸入とされている民事訴訟法の異同また関連性の有無を知りたかったからなのです。
私の畏友の園尾隆って元裁判官(現弁護士)は江戸時代の民事訴訟手続は明治時代にも生きていて、受け継がれているところがあると指摘しています。私も漠然と、この指摘に賛同しているのです。
ところが、この本の著者には、その視点が残念ながら欠如しているようです(あるのかもしれませんが、私には読みとれませんでした)。それはともかくとして、この本で話題になっているところは、現代の裁判にも共通するところが多いのに驚かされました。
たとえば釈明権の行使です。昔(明治から昭和初め)の裁判所は釈明権の行使に消極的であったらしく、弁護士の側は、それへの不満を多く述べています。
裁判官の多くは不干渉主義をとっていたようです。当事者にまかせっきりで、裁判官がきちんと交通整理(争点の整理)をしないのです。今も少なからず存在しますが、こんな裁判官は無責任としか言いようがありません。裁判官による「過剰な介入」という批判は多くなかったとのこと。これまた、今も同じです。
このころ弁護士は、判検事とは別の弁護士試験というものがあって、それに合格すると、すぐに弁護士業務ができていました。すると、実務修習がないわけですので、初めての弁護士は勝手が分からず、困ったでしょうし、周囲も困惑させられたことでしょう。
また、裁判にあたって、弁護士を代理人として選任しないことも少なくなかった。それは裁判官を困らせた。そこで、弁護士強制の制度の導入を唱える人たちも一定いましたが、法改正にまで結びつけることができませんでした。
本人訴訟は、明治の当時も令和の今も一定数まちがいなく存在します。私は、これからもあまり減ることなく存続するとみています。日本人のなかには昔も今も裁判が好きでたまらないという人が一定数いるのです。これは私の実感です。
明治民訴法の下では、法廷での証人尋問は、すべて裁判官を通じて発問することになっていたようです。驚きました。
法廷に立って証言する証人は、そのほとんどすべてが前もって訴訟当事者のいずれかからよくよく言いふくめられていた。証人は法廷では嘘をつくものだと多くの裁判官に考えられていた。
口頭弁論というのは、昔も今も、書面を提出するだけで、実際には口頭での「やり取り」はありません。
清瀬一郎弁護士(戦後、国会議員にもなった、有名な人ですよね...)は、東京のほうは法律解釈に重きを置き、大阪のほうは事実の真相を得ようとする点に重きを置くので、東西でかなり力点が違うとみていた。
弁護士からすると、現実の裁判官(これも当時の...)は、しばしば近代法の常識を「権威主義的に」ふりまわす「非常識」な存在だった。逆に言うと、弁護士は、「常識や人格を備えた名判官」への憧憬があった。これは現代でも同じですね。実際には、そんな裁判官は残念ながらきわめて少数なのですが...。
ほとんどの裁判官は自分で思っているほど常識はなく、なにより「強い者」に歯向かう勇気がありません。まあ、これは、ないものねだりなのかもしれませんが...。
明治の裁判では、法廷での証言よりも、書証に圧倒的な重点が置かれていました。法廷では偽証が多いと思われていたのです。
それにしても、法廷で弁護士そして当事者が証人に直接尋問できなかったというのは驚きです。ただし、今もヨーロッパでは裁判官しか尋問できないという国があると聞いた気がします。フランスだったかと思いますが、これは間違っているでしょうか...。そうだとすると、日本の弁護士にとって不可欠な反対尋問ができないというわけですから、完全な欲求不満に陥ってしまいますよね。
ということで、面白く370頁もの学術書を読み通しました。
(2022年3月刊。7700円+税)
2023年5月13日
足利成氏の生涯
日本史(室町)
(霧山昴)
著者 市村 高男 、 出版 吉川弘文館
足利尊氏(たかうじ)の四男・基氏(もとうじ)を始祖とする関東の足利氏の流れに、足利成氏(しげうじ)はある。
基氏は、鎌倉公方(くぼう)家の祖。成氏は父が四代鎌倉公方の足利持氏で、成氏が9歳のとき、父の持氏が山内上杉勢に攻められ、永享11年(1439)年2月、謹慎中の永安寺で自害し、兄義久も自殺して鎌倉公方家は滅亡の渕に追い込まれた。
そして、成氏(万寿王丸)も捕らえられたが、幸運にも処刑が中止されて助かり、信濃の禅寺に身を潜めた。
室町将軍・義教(よしのり)が赤松満祐(みつすけ)に殺害されたことから、鎌倉公方に成氏を推す勢力が盛り上がり、ついに成氏16歳の文安4(1447)年8月に鎌倉に帰還した。成氏が20歳のとき、江ノ島合戦が起きた。この実際の戦闘で成氏は上杉方に勝利して、実力と存在感を示すことができた。
成氏は鎌倉に戻り、寺社の所領を回復し、徳政令も発した。成氏は、関東管領(かんれい)の上杉憲忠と張りあっていたが、享徳3(1454)年12月に上杉憲忠を御所に呼びよせて殺害した。これには公方近臣たちの意向が強く反映していたとみられる。憲忠を殺害された上杉方は、享徳4(1455)年正月、早々、成氏への報復合戦を始めた。享徳の乱の始まりである。
足利幕府は、将軍義政や管領細川勝元らの方針で、成氏討伐を主張し、決定した。成氏は鎌倉を離れ、享徳4(1455)年12月、下総(しもうさ)古河(こが)に着陣した。
京都で、応仁・文明の乱が始まったのは応仁元(1467)年5月のこと。
文明14年(1482)年11月、成氏は、足利義政と都鄙(とひ)和睦(わぼく)を成立させた。鎌倉公方の成氏は、下総古河に移って古河(こが)公方と呼ばれるようになった。これは成氏が鎌倉を追い出されて古河に逃げたのではない。
やがて、古河は鎌倉から移転した「鎌倉殿」の本拠であり、「関東の首都」としての位置を占めることになった。
成氏は生まれたあとまもなく、鎌倉の大地震や富士山噴火などの災害被害の洗礼を受けた。また、永享9年に陸奥・関東で大飢饉が発生している。
乱世を駆け抜けてきた成氏は、50代半ばすぎに中風を患ったが、すぐには家督(かとく)を子に譲ろうとはしなかった。成氏は67歳で亡くなった。
成氏の政治的交渉には柔軟性があり、自分の信念なしに時流に流されることのない良い意味で頑固さがあった。
京都の幕府は、年中行事や儀式・典礼などの面で、公家世界の影響を強く受け、武家社会の伝統や儀礼を変質させた。かえって鎌倉府のほうが、儀式・典礼や年中行事などで武家政権の伝統や文化が良く保存されることになった。
古河公方の実態を明らかにした本格的な書物として、最後まで興味深く読みすすめました。
(2022年10月刊。2700円+税)
2023年5月14日
犬だけの世界
生物
(霧山昴)
著者 ジェシカ・ピアス、マーク・ベコフ 、 出版 青土社
人類が消えてしまったとき、犬だけで生きのびることができるのか...。私は、出来ると思いますが、全部の犬種ではないでしょうね。野良犬として生きのびている犬種、雑種はなんとかして生きていくでしょうけれど、チワワみたいな座敷犬、人間に頼り切りの犬は生存していけないだろうと思います。
犬は自力で生きていくのが得意ではない。人間がほとんどの犬から狩猟本能を奪ってしまったから。なので、犬の大半は、人間が消えたら、生き残れない。ただ、最初の調整期間が過ぎたら、犬も十分生き残れるだろう。
イヌが自然の本能にしたがって生き残って変化していっても、狼(オオカミ)に戻るとは考えにくい。
全世界に犬は10億匹近く存在する。アメリカには、8300万匹の犬がいる。
イヌ科の動物の行動は多彩かつ日和見主義的で、コミュニケーション能力が高く、分散して行動する傾向にある。
犬はメスの発情周期が年に1回ではなく、年に2回ある唯一のイヌ科動物。
犬が家畜化したのは、4万年前から1万5千年前のあいだ。だから、犬と人間の関係は古いのです。比較的新しい猫とは比べようがありません。
オオカミは全世界に30万匹しかいない。
自由に歩きまわれる犬で、野犬との境界線は非常にあいまいで、犬はこの流動的なカテゴリーを行ったり来たりすることができる。
世界中の犬の30%、3億匹が「純血種」。犬種は固定されたもの、発明品ではなく、常に変化を続けている。
犬種特有の性格というのは実はなく、犬それぞれの性格があるだけ。うひゃあ、これには驚きました。犬種と性格は絶えず一緒だと思っていました。
イヌ科の動物は、走行性の動物。生まれながらのランナーで、耐久アスリート。
犬の尾は、気分や意見を示す重要なツール。敵意や服従、性的受容、怒り、ふざける気持ち、不安といったシグナルを送っている。犬に尾がないと、犬にとって社会的コミュニケーションの重要なツールがないので、大きな負の影響が出る。
オス犬は、父親として子育てに関わることがある。そして、両親以外の成犬も子の養育に参加する。メス犬の妊娠期間は63日間。
犬の死因の最大は人間によるもの。犬の衣食住にとってもっとも重要な時期は生後3週から8週ころ。したがって、子犬をもらう(買う)のなら、生後3ヶ月ほどたってからが一番ということです。適切な衣食住を受けた犬は、従順で落ち着きがあり、辛抱強く、心理的にも感情的にもバランスのとれた犬に成長する。
群れには階級制度(ヒエラルギー)がある。エサにありつく順番、繁殖が許されない、という不利がある一方、機能的な集団内で暮らしていけるというメリットもある。 犬は団結力のある集団を協力してつくり、共通のゴールを達成する。
犬は非常に頭が良く、洞察力が鋭い。人間の考えや感情を人間より先に察することができる。犬は遊ぶ。一人遊びもするが、それは「楽しい」から。
日本人が犬を飼うのは、この30年間に、国民1千人あたり犬が20匹だったのが、90匹に激増した。なるほど、犬をよく見かけるようになりました。
犬にまつわる話が満載で、面白く読み通しました。
(2022年11月刊。2400円+税)
2023年5月15日
近代日本における勧解・調停
司法
(霧山昴)
著者 林 真貴子 、 出版 大阪大学出版会
明治時代、日本人は今では信じられないほど臆せず裁判を利用していました。なので、日本人は昔から裁判が嫌いだったなんていう俗説はまったくの間違いなのです。法社会学者として高名な川島武宣は私が大学に入ってからすぐに知り、とても尊敬する学者ですが、同じような過ちをおかしています。
日本の裁判制度は明治に入ってフランスやドイツの法伸を直輸入していて、江戸時代までの裁判手続とは縁もゆかりもないというのも不正確のようです。
この本では、明治期の法制度について、江戸時代的要素の強い連続面もあり、西洋由来の法制度という断絶面とは、ウラとオモテとして、同時に存在していたとされています。私も同感です。
勧解は、明治期に導入されたもので、区裁判所(治安裁判所)において裁判官が紛争解決を勧める制度。非常によく利用された。勧解は本人出頭が原則で訴状や証拠書類を必要とせず、口頭で申立できた。費用は実費で(安いということ)、敗訴者負担もない。法律にこだわらす、実情に応じた解決が目ざされた。
勧解は1875(明治8)年8月から、東京で、次に12月から全国で行われた。
勧解を担当したのは原則として判事補。そして、本人訴訟が原則だったが、実は、代言人などが代理人をつとめていた。勧解での代理を業とする人々までいた。
私は本書を読むまで、勧解ができたので裁判が多かったと思い込んでいましたが、実は、裁判が急激に増加したことから、その対処策として勧解が導入されたのでした。原因と結果が真逆というわけです。この勧解は、フランスの勧解制度を制度に継受したもの。
勧解は、商事にかかり急速を要する案件と諸官庁に対する事件は除外された。なーるほど、ですね。
勧解制度は、1875(明治8)年に成立し、1891の民事訴訟法の施行とともに消滅した。
労働紛争において勧解の利用率は高かった。使用者側からは、職場から逃げ出した労働者を連れ戻そうとした。労働者側からは、不払い賃金を請求した。
使用者側から雇人を取り戻す裁判が次々に提起されたが、その多く、約半数は請求が棄却された。また、債務者側に有利な借金整理案が示されていたようです。ちっとも知りませんでした。
債務者からの申立は審理期間が短く、調停の成功率は8割近いほど高かった。
勧解は非常によく利用された制度であり、この制度は急激に増加した裁判件数の軽減を狙ったもの。
とても実証的な記述のオンパレードでした。明治初~中期の日本の裁判制度の運用状況を知ることができ、大変面白く読み通しました。
(2022年10月刊。6400円+税)
2023年5月16日
ヴォロディミル・ゼレンスキー
ヨーロッパ
(霧山昴)
著者 ギャラガー・フェンウィック 、 出版 作品社
ご存知、ウクライナの大統領についての「本格評伝」です。サブタイトルは「喜劇役者から司令官になった男」。
ウクライナは面積60万平方キロメートル、人口4400万人。人口は韓国より少ないのですね。でも、現在どれくらいの人が本国に残っているのでしょうか。若い男性は出国禁止になっているようですよね。それこそ総動員体制なのでしょう。
ロシアは面積1700万平方キロメートルですから、文字どおりケタ違いに大きいです。人口は1億4500万人。日本の人口は1億2千万人ほどですよね。インドや中国と違ってロシアの人口は10億人とか、そんなに多くはないのですね...。
ゼレンスキーの父親はサイバネティックスが専門。情報工学の教授で、母親はエンジニア。ユダヤ人の両親は、労働者階級のなかで地位を築いた知識人。
ゼレンスキーは、大学の法学部に入学して卒業した。しかし、学生のころから仲間とともに劇団活動に励んでいて、座長となり、コントの台本執筆と演出、そして自らも出演した。
友人はゼレンスキーについて、「彼のずば抜けた点は、人の心の動きを直観的に読みとる鋭さにある。人の心を正確に理解し、その行動の背後にあるロジックをやすやすと把握する」と語る。
ゼレンスキーはオリガルヒ(ソ連崩壊後に生まれた新興の大富豪)の一人であるコロモイスキーと深い関係にある。コロモイスキーもユダヤ人。オリガルヒ同士は、みな顔見知り。ゼレンスキーは、コロモイスキーから4000万ドルの送金を受領したのではないかという疑惑があった。さらに、ゼレンスキーは、イタリアにも別荘を隠しもっていると報道された。ゼレンスキーは自らがユダヤ人であることを隠していないが、とりたてて強調してもいない。
ところが、プーチンがウクライナ侵攻にあたって、ナチズムから国民を守るためと宣言したことから、ユダヤ人のゼレンスキーをナチスであるかのように決めつけることの当否が議論になった。
ソ連時代のユダヤ人は無神論者を自称し、ユダヤ教徒であることを必死で隠した。
現在のゼレンスキーは、ユダヤ人の血を引きながら、なおかつ抵抗するウクライナの顔であり、戦う愛国者の化身だ。
ウクライナの議会で極右政党は450議席のうち1議席のみでしかない。
ゼレンスキーが大統領になる前、テレビ局の連続ドラマでゼレンスキーは主役となって腐敗した政治に鋭く切り込んでいく主役を演じた。視聴者は2015年12月、史上最高の2000万人を記録した。ゼレンスキーは、2018年12月まで、政界進出の野心は一切ないと否定し続けた。ところが、12月末に突如として大統領選への出馬を表明した。
ゼレンスキーは、政治集会を開催せず、記者会見も開かず、ジャーナリストのインタビューに応じることもなく、他の候補者との討論会にも参加せず、巡業を続けた。ゼレンスキーへの支持はうなぎのぼりに上昇し、2019年1月、ついにトップを占めた。2019年4月、ゼレンスキーは73%の得票率で大統領に当選した。
ドラマのおかげで、国民はゼレンスキーを自分たちに寄り添ってくれる人物だとみなした。エリート階層に属しているのは明らかなのに、国民はゼレンスキーを「ブルーカラー出身の富豪」とみなした。30歳未満の有権者の80%がゼレンスキーに投票した、40歳未満だと、70%前後だった。ゼレンスキーは言った。
「私たちは腐敗に打ち勝つとウクライナ社会に約束した。だが、今のところ、取り組みは着手すらされていない」
すでに衰弱していたウクライナ経済は、コロナウイルスの蔓延で深刻な危機に頻していた。
もはやゼレンスキーは、自分に尽くしてくれた億万長者コロモイスキーと疎遠になるほかなかった。ロシア侵攻後の今、ゼレンスキーの支持率は80%から90%、ウクライナ軍は全国民の信頼を取り戻した。
といっても報道によると、ウクライナ軍の汚職・腐敗はなくなってはいないようですね。国防大臣も更送されましたし...。ゼレンスキー大統領とは何者かを知ることのできる本です。
(2022年12月刊。1800円+税)
2023年5月17日
地方弁護士の役割と在り方(第1巻)
司法
(霧山昴)
著者 千田 實 、 出版 エムジェエム出版部
田舎弁護士(いなべん)を自称する岩手県一関市で活動している若者が80歳になって刊行した記念本の4冊目。
若者は60歳から70歳までの10年間に10回をこえる手術を繰り返し、週3回の人工透析、妻から腎臓の移植を受けて健常者に近い状態に戻れたとのこと。それだけでもすごいことですね。
ちょっとマネできないのが月に1回の事務所便り(「的外」まとはずれ)です。送付先は1000人をこえ、この32年間、一度も休んでいないそうなのです。10年間の闘病生活中も発行していたというのですから、まさしく超人的です。
手持ち事件は常時300件、ピーク時には500件。1日10件をこえる裁判を予定していて、訟廷日誌には用紙を張り足していた。そして、裁判所も盛岡、花巻、気仙沼、仙台など...。1日に4ヶ所の裁判所を駆け回ることも珍しくなかった。私も若いときがんばってましたが、これほどではありません。
こんな働き過ぎで著者は身体をこわし、糖尿病、高血圧症、そして慢性腎不全症となり人工透析を受けるようになった。
事務員はいつも10人ほどいた(今は7人)。
30年ほど前(1990年)、一関市内の弁護士は4人、今は9人。岩手県弁護士会は44人が102人となった。ところが、人口は気仙沼市は30年前に10万人だったのが、今では6万人を下回っている。裁判件数も当然のことながら減少した。
そこで、田舎弁護士(いなべん)は提唱する。
地方弁護士は裁判事件だけにとどまっていてはダメ。新たな仕事を開拓しなければいけない。たとえば、地方弁護士は家庭医的存在とならなければならない。
地方弁護士は本当に人好きにならなければならない。人好きになれば、自然に優しい顔になる。
地方弁護士は、住民があっさりと相談できるようなムードをつくらなければならない。住民が気軽に相談できるように自分を磨いておかなければならない、物事の道理をわきまえ、正しく判断し、適切に処理する能力をもつ知恵者を地方住民は求めている。これなんかは、大都市に住む住民だって同じでしょう...。
一緒に悩み、一緒に考えてくれる弁護士を住民は求めている。これも、田舎弁護士に限りませんよね。
地方弁護士は、人間が幸せに生きていくうえで必要なことの全面にわたって知恵を提供することを仕事とすべきだ。まったくそのとおりだと私も思いますが、これまた、「いなべん」だけでなく、あらゆる弁護士にとって求められているものと思います。
私は「政治改革」も「郵政改革」もまったくの間違いだったと今も考えています。小選挙区制導入なんて、ひどい政治をもたらしただけです。大阪の「維新政治」は、そのひどい政治のミニ版を再現しています。許せません。そして「郵政改革」。郵便配達がひどく遅れていて、法律事務所の業務遂行に支障をもたらしています。あと、国鉄の解体・民営化もひどい間違いでした。
自民・公明の政権って、本当に悪政のかぎりを尽くしていますが、それも投票率が4割程度しかない現状が支えています。有権者のみんなが投票所に足を運べば(期日前でもかまいませんが...)、自民・公明そして維新のごまかし、冷たい政治にストップをかけることができます。あきらめたら、世の中は悪くなるばかりなんです。
「司法改革」については異論もありますが、貴重な提言がたくさんある小冊子です。
(2023年4月刊。1650円)
2023年5月18日
FDRの将軍たち(上)
アメリカ
(霧山昴)
著者 ジョナサン・W・ジョーダン 、 出版 国書刊行会
第二次世界大戦のとき、アメリカは豊富な資源にモノを言わせてとてつもない物量大作戦でのぞんだことになっています。
ところが、FDR(ルーズベルト大統領)は、年間5万機の軍用機を製造するように求めたとき、周囲は「見果てぬ夢」と受けとめたというのです。だって、このとき、通常の生産ではせいぜい2000機ほどでしかなかったのです。1年に1万機なんてムリでした。そして、5万人のパイロットはいないし、5万人ものパイロットを養成する訓練所もないし、5万機の軍用機を飛行可能な状態にしておく整備工場もありませんでした。
なので、年に5万機の軍用機だなんて、あまりに「とっぴな」生産日授設定だと思われたのです。ところが、FDRは、アメリカ国民は、自分たちの行為の意味を理解すれば、求められることは何でもやりとげる能力があると固く信じていたというのです。すごいですね、偉いことです。
民主党内のニューディール派とリベラルな不戦主義者たちは、イギリスに対する軍事援助に反対していた。なるほど、その論理は今の私にも理解はできます。でも、実際問題として、そのままアメリカが何もしなかったとしたら、世界はどうなっていたでしょうか...。考えるだけでも恐ろしい気がします。
そして、アメリカの軍隊には異人差別が厳然としてありました。50万人のアメリカ軍に、黒人兵士は1%の5千人にもみたない。そして、黒人将校はわずか2人だけ。黒人は、「ボーイ」のような扱いを受けていた。当時の陸軍省は、一つの連隊の中で黒人と白人の下士官兵を混在させることはしない、という方針でした。
アメリカの将軍は、日本よりドイツのほうが手ごわい敵だと考えた。ドイツの第三帝国は経済的に自立していたが、日本はそうではなかったから。日本が敗北してもドイツの運命にはほとんど影響がないが、ドイツの敗北は不可避的に日本の負けにつながると考えた。
FDRは、ヨーロッパの戦争に直接関与しないという公約で大統領三選を果たしたばかりだった。武器貸与法を成立させ、イギリスへ物資援助することでアメリカを戦争から遠ざける最善の方法だと考えていた。このころ、アメリカ国民の半数は、ドイツのUボートを攻撃することに反対した。1941年5月、8割近いアメリカ国民が参戦に反対しつつ、52%がイギリスへ軍需物質の輸送に賛成した。
対日政策に関して、FDR政権内は二つに割れた。石油の禁輸は戦争を誘発してしまうと考えるアメリカ国民が半分はいた。
アメリカ本土の日系人は収容所に強制的に収容された。しかし、ハワイ諸島にいた14万人の日系人は、すべてを強制退去するのは不可能だったので、収容所に入れられることなく、島内、それも軍事施設の近くに住み続けることができた。
1940年12月7日、日本軍がハワイの真珠湾を専襲攻撃したのを知らされ、FDRから聞いたキプキンズは「何かの間違いに違いない」と答えた。そして、FDRは、「まったく予期していなかった」と言った。このとき、FDRの目は生気を失い、その日は冗談も出なかった。
アメリカの大統領が日本軍の真珠湾攻撃を知っていながら、わざと知らないふりをしてやらせたという陰謀説は今も根強いものがありますが、FDRの周辺の様子はとてもそんな余裕は感じられなかったというものです。私も賛同します。陰謀説は無理がありすぎます。
(2022年11月刊。3800円+税)
2023年5月19日
アウシュヴィッツを破壊せよ(下)
ヨーロッパ
(霧山昴)
著者 ジャック・フェアウェザー 、 出版 河出書房新社
アウシュヴィッツ絶滅収容所に志願して収容者の一人となったヴィトルトは、大変な苦労をさせられ、生きながらえたのが不思議な状況に長く置かれました。
それでも、収容所内に抵抗組織をつくりあげ、外部の地下抵抗組織と連携して決起しようと試みたのです。しかし、外部のほうはいつまでたっても決起にGOサインを出しません。収容所内の抵抗メンバーは次々に消されていきます。どうせ殺されるのなら、その前に決起しようと考えるメンバーが出てくるのも当然です。でも、下手に決起したら、あとの反動が恐ろしすぎるのです。
収容所内でチフスが流行した。SS(ナチス)は、1日に100人もの病人をフェノール注射で殺害した。
SSへの対抗のため、地下抵抗組織は、SSの制服にチフスに感染したシラミを散布した。ドイツ人からも発疹チフス患者が出た。嫌われ者のカポも標的となり、結局、死んだ。
ヴィトルト自身もチフスに感染したが、仲間の看病によって、10日後ようやく立ち直り、生きのびた。
ヴィトルトたちのアウシュヴィッツの実情を伝える報告はイギリスそしてアメリカに届いたが、そのまま信じてもらうことが出来ず、すぐに救済行動を組織することはできなかった。
アウシュヴィッツのことを真剣に考えてくれる人はほとんどいなかった。いやあ、これは、本当に不思議な、信じられない反応です。こんなひどいことが起きていることを知って、それでも何もしないというのは、一体どういうことなのでしょうか...、私の理解をまったく超えてしまいます。
収容所内の地下組織は分裂の危機に陥った。それはそうでしょうね。外の抵抗組織から見放されたも同然になったのですから...。
ヴィトルトは、1943年4月、ついにアウシュヴィッツ収容所から脱出します。まずはパン工房に職人としてもぐり込むことに成功したのです。本当に運が良かったとしか思えません。8月、ヴィトルトはワルシャワに戻った。ヴィトルトがアウシュヴィッツ収容所の状況を組織や友人に話しても、信じようとしない人も多く、行動に結びつけることはできなかった。人々はヴィトルトの証言に共感できなかった。
1944年7月、連合国軍は収容所の爆撃は困難で、コストがかかりすぎるとして、却下してしまった。
ナチス・ドイツ軍が敗退したと考えたポーランドの人々は1944年8月、ワルシャワ蜂起を始めた。しかし、ナチス・ドイツ軍は盛り返した。そして、スターリンのソ連赤軍はワルシャワ蜂起を目の前で見殺しにした。スターリンは、ドイツ軍がポーランド人を叩きつぶすのを待って、そのあとソ連軍を投入するつもりだった。このワルシャワ市内の一連の戦いで、13万人以上が亡くなり、その大半が民間人だった。市内に隠れていた2万8000人のユダヤ人のうち、生きのびることが出来たのは5000人ほどでしかなかった。
1945年5月、ナチス・ドイツが降伏した。そして、ポーランドを支配したのはスターリンのソ連だった。ポーランドはスターリン支配下の一党独裁体制となった。
ヴィトルトは、ポーランドの秘密警察の長官の暗殺を企てたとして反逆罪で逮捕され、裁判にかけられた。1948年5月、ヴィトルトへの死刑が執行された。そして、ヴィトルトはポーランドの歴史から抹殺されてしまった。ヴィトルトの名誉が回復されたのは1989年にポーランドが民主主義国家になってからのこと。
世の中には、このように勇気ある人がいたことを知ると、人間もまだまだ捨てたものじゃないな、そう思います。それにしても、ナチスの残虐さとあわせて、スターリンのひどさを知ると、身が震える思いがします。
アウシュヴィッツ絶滅収容所が忘れられてはいけないと思うとき、こんな勇気ある人がいたことも記憶してよいと、つくづく思いました。
(2023年1月刊。3190円+税)
2023年5月20日
巨大おけを絶やすな!
社会
(霧山昴)
著者 竹内 早希子 、 出版 岩波ジュニア新書
しょうゆやみそは、大きなホーロー製のタンクでつくられているとばかり思っていましたが、なかには昔ながらの木桶(きおけ)でつくっている業者もいるのですね。ところが、木桶って100年もつというのですよ。それじゃあ、木桶をつくる業者が営業として成り立つはずはありません。そこをどうやって乗りこえるのかも本書のテーマのひとつです。
瀬戸内海の島、小豆島(しょうどしま)。映画『二十四の瞳』の舞台となり、オリーブでも有名ですよね。私も一度だけ行ったことがあります。そこで大きな木桶がつくられているのです。木桶は直径2.3メートル、高さ42.3メートル、30石(5400リットル)入りです。
木桶の中で2年かけてむろみをつくります。木桶や蔵にすみついている酵母や乳酸菌などたくさんの菌の働きによって、蒸した大豆と砕いた小麦でつくった醤油こうじを塩水と一緒に仕込んでもろみをつくるのです。
2年かけてつくりあげたもろみを、醤油さんが買っていき、その店独特の醤油を完成させるのです。
冬に仕込んだもろみは、はじめは原料の大豆や小麦そのままのベージュ色。春先に気温が上がってくると微生物が活発に働いて発酵しはじめる。このころのもろみは、リンゴやバナナのような香りを放つ。そして、醤油を使って仕込んだもろみは、チョコレートのような香りを放つ。
醤油を分析すると、300種以上の香り成分が入っている。
今、日本でつくられている醤油のうち木桶でつくられているのは、わずか1%のみ。99%は、ステンレス、FRP、コンクリート、キーローなどのタンクでつくられている。
木桶の板は多孔質で、目に見えない小さな穴がたくさんあいていて、その小さな穴に「蔵つき」と言われる蔵独自の微生物がたくさんすみついている。
木桶以外の容器で醤油をつくるところでは、容器に微生物がすみつけないため、発酵にかかわる微生物を買って、加える。醤油には塩分があり、塩の効果で木桶は腐りにくく、塩分が固まって隙間を埋めるので、漏れにくいため、木桶は100年も使うことができる。
木桶で使う杉は、樹齢100年以上のもの。
桶を締める「たが」は、孟宗竹ではなく、フシ(節)が少なく割りやすい真竹を使う。15メートル以上の長さが必要。この真竹の秋から冬にかけて休眠する時期、吸い上げる水分の少ないときに、伐(き)る。
一つの「たが」を編むには、削った竹が4本必要。1本の桶に7本の「たが」が必要なので、30本、削った竹を準備する。
杉が世界で日本にしかない固有種だというのを初めて知りました。うひゃあ・・・、です。伐り倒された杉は、葉をつけたまま、頭を山の上に向けて半年ほど寝かされる。「葉枯らし」といって、葉を通して水分やアクが抜けていく。
写真とともに桶づくりが紹介されます。とても大変な作業だということが分かりましたし、欠かせない仕事だと実感もしました。
(2023年1月刊。860円+税)
2023年5月21日
FDRの将軍たち(下)
アメリカ
(霧山昴)
著者 ジョナサン・W・ジョーダン 、 出版 国書刊行会
第二次大戦における連合軍側の合意形成過程にとりわけ興味をもちました。決して一枚岩ではなく、アメリカとイギリスの思惑の対立、アメリカ軍内部のさまざまな利害・思惑の対立がずっとずっとあったのでした。
そして、ソ連(スターリン)をどうやって連合軍の陣営にひっぱり込むかでも、米英それぞれが大変苦労していたようです。たとえば、カチンの森虐殺事件では、大量のポーランド軍将校を虐殺したのはソ連(スターリン)だと分かっていながら、ソ連の参戦を優先させ、米英首脳部(FDRとチャーチル)は沈然したのでした。
また、アウシュヴィッツ絶滅収容所でユダヤ人の大量虐殺が進行中であることを知りながら、収容所爆撃は後まわしにされました。戦争の早期終結のためには重化学コンビナート爆撃を優先させるべきだという「政策」的判断によります。
指導者の人間性についてのコメントも面白いものがありました。中国の蔣介石について、チャーチルは中国国内を統一するだけの能力はなく、日本軍を倒すことより、内戦に備えての再軍備そして私腹を肥やすことにしか関心がないとして、とても低い評価しかしなかった。
戦後日本で神様のようにあがめられたマッカーサーについては、アメリカの大統領を目ざす野心が強烈で、マーシャル将軍のような公平無私の姿勢がないとしています。
FDR(ルーズヴェルト)は、戦後の中国を西側陣営にしっかり組み込むことを望み、そのため蔣介石たちをカイロ(エジプト)に招待もしていた。
イギリスは蔣介石は、いざというときには頼りがいのない男だとみていた。
ナチス・ドイツに攻め込まれていたソ連は、一刻も早くヨーロッパで第2戦線が開設されることを強く望んだ。そして第二戦線がヨーロッパに開かれたら、ソ連(スターリン)もドイツ降伏の日からまもなく(3ヶ月内に)対日戦に参加することを表明した。
欧米では高い社会的地位につく者が、入隊した自分の息子を危険な戦場から遠ざけることはできない。これが暗黙の了解だった。立派ですね。なので、万一、自衛隊幹部の子弟が戦場で毎週のように死亡するという事態が現実化したら、日本社会はどのように反応するのでしょうか...。日本では、そんな事態になるよりも、裏に手をまわして危険な前線に送られないように、きっとなることでしょう...。
FDR(ルーズヴェルト)が死亡したとき、後継者となったハリー・トルーマンは、前の大統領(FDR)とは異なるタイプの人物だった。トルーマンは、短く、早口で、ざっくばらんな話し方を好み、世間話はせず、返答を避けることもしなかった。
FDRはトルーマンに対して、スターリンやチャーチルとの秘密のやりとりを一つも明らかにしなかった。トルーマンは連合国の戦略も原爆の製造・販売について何もFDRから知らされていなかった。
アメリカの原爆投下候補の町として京都が上げられていた。このとき司令官のスティムソンは京都をリストから外すよう命じた。しかし、部下のグーヴズは京都も対象にすべきだとして、直接に大統領に働きかけた。しかし、それは却下され、無事に京都は残りました。
6月6日のDデイ(「史上最大の作戦」の開始日)において、誰が最高司令官になるのかについても、アメリカとイギリスは激しく対立した。結局、アイゼンハウアーが最高司令官に就いた。
とても興味深く、連休中に、喫茶店から動かず、必死で読みふけりました。
(2022年11月刊。3800円+税)
2023年5月22日
阿弥衆
日本史(室町)
(霧山昴)
著者 桜井 哲夫 、 出版 平凡社
阿弥(あみ)衆とは何者なのかを探った本です。
黙阿弥(もくあみ)は、明治の初めころの歌舞伎の劇作者。本人は浄土真宗の徒でありながら、時宗(じしゅう)総本山の藤沢にある遊行寺(ゆぎょうじ)に出向いて、「黙阿弥」の号を受けた。
阿弥(あみ)号は、時宗において許される法号。
徳川家の先祖も、遊行上人に救われ、阿弥号をもらい、「徳阿弥」となのっている。
能楽の観阿弥、世阿弥など、足利時代の芸能者もいる。足利将軍家が滅んだとき、芸能世界の「阿弥号」も消えた。
著者は「室町時代」と呼ぶべきではなく、「足利時代」と呼ぶべきだと主張しています。鎌倉時代や安土・桃山時代そして江戸時代というのは幕府の所在地の地名。ところが室町は地名ではない。三代将軍の足利義満がつくった室町殿と呼ばれる邸宅の名前に由来する。しかし、義満以降の将軍がみな室町殿に住んでいたわけでもない。そして、明治、大正時代には、室町時代より足利時代というほうが多く使われていた。うひゃあ、そうなんですか...。
毛坊主(けぼうず)というコトバも初めて知りました。
毛坊主とは、俗人ながら、村に死亡する者あれば、導師となって弔う存在。どこの村でも、きちんとした家系の、田畑をもち、学問もあり、経文を読んで筆算もできて品格のある存在。
鐘打(かねうち)は、遊行上人の流れ。鉢叩(はちたたき)は、空也(くうや)上人の流れをくむ天台宗の一派。
客僚(きゃくりょう)は、合戦に負けたり、盗賊に追われたり、主君の命に背いたり、部族と対立して追われたり、当座の責任や被害から逃れるため遊行上人のもとにかくまわれて、にわかに出家した者のこと。
こうした人たちをかくまう場所を「客寮」と呼んだ。客寮は日本版「アジール」。そして、これを廃上しようとしたのが豊臣平和令であり、刀狩令だったとしています。
江戸時代、徳川家康に命じられた内田全阿弥に台まる「御同朋」という阿弥号を名乗る僧形の役職が存在した。ただし、時宗とのつながりはない。
「世阿弥」はあまりにも有名ですが、実は、本人の存命中に使われたことはないとのこと。死後50年もたってから初めて文献に登場した。いやあ、これには驚きましたね...。では、本人は、どのように名乗っていたのか...。「世阿」「世阿弥陀仏」である。
そして、世阿弥の生きていた時代には、まだ「同朋衆」という幕府の職制はできていなかった。
足利期の時衆の同朋衆が美術品の鑑定・保管から売買・室内装飾、備品調達まで活発な経済活動に関わり、「倉」などの金融活動も営んでいた。ちょっとイメージが変わってきましたね...。
同朋衆は、15世紀半ばころに職制として確立していた。かつての時宗(公方遁世者)と将軍とのつながりは、次第に薄れていた。西日本では、「鉢叩(はちたたき)」と呼ばれる念仏聖(俗聖)が活動していた。「鉢叩」は、中世に京都などで勧進芸をする念仏芸能者として始まっている。
西日本では、東国よりも組織メンバーの自由度が高かった。
明治の御一新のあと、「阿弥衆」は消えた。
天皇というコトバをあたりまえに使っていますが、日清・日露の宣戦布告文では「皇帝」だったとのこと。知りませんでした。祭祀のときも、「天皇」ではなく、「天子」と使いわけているとのこと。うひゃあ、そんなこともまったく知りませんでしたよ...。
あれこれ、幅広く文献にもとづく主張が展開されていて、とても勉強になりました。
(2022年1月刊。3800円+税)
2023年5月23日
「秀吉を討て」
日本史(戦国)
(霧山昴)
著者 松尾 千歳 、 出版 新潮新書
昔から「日本史、大好き」の私にとっても刺激的な話が盛りだくさんの本でした。
話の焦点は薩摩と島津です。戦国時代、関ヶ原合戦のとき、西軍の薩摩・島津軍が敗色濃いなかを中央突破して辛じて逃げのびた話は有名です。そのとき、島津軍は、「捨て奸(がまり)」の戦法をとったとして有名です。これは、最後尾の部隊が本隊を逃すために踏みとどまって戦い、その部隊が全滅すると次の後方部隊が踏みとどまって死ぬまで続ける。これを繰り返して、殿のいる本隊を逃がすという戦法。
しかし、著者は、実際には、そんな戦法はとっていない。一丸となって無我夢中で敵中に突っ込み、大勢の犠牲者を出しながらもなんとか東軍の追撃を振り切り、戦場を離脱した。これが真相だというのです。なるほど、そうかもしれないと私も思います。次々に後方に残る部隊をいったい、誰がいつ、どうやって組織した(できた)というのでしょうか。そんな余裕がこのときの島津軍にあったのでしょうか...。結果として、殿軍(しんがり)に立った将兵たちはいたでしょうが、それも時と地の関係で、そうなってしまっただけではないのか...、そう考えたほうがよさそうです。
それはともかく、この本で提起されている最大の疑問は、関ヶ原合戦のあと、なぜ家康が西軍に属していた島津家をとんでもなく優遇したのか...、ということです。
島津家は、事実上、処分を受けていない。そのうえ、藩主の忠恒に、「家」の字を与えて「家久」と改名させた。「家」の字を徳川将軍からもらったのは島津忠恒だけ。これは、大変に名誉なこと。さらに、家康は家久に琉球出兵を許可し、琉球国12万国を加増した。
この本では、その理由は定かではないとしつつ、島津が明(中国)と太いパイプをもっていたことを家康は把握していて、海外交易に熱心な家康は、島津に頼るしかないと考えた。家康は明との国交回復を願っていた。
家康が島津氏に琉球出兵を許したのは、明と太いパイプをもつ琉球王府を島津氏の支配下に入れ、勘合貿易の復活を実現させようとしたのではないか...。
さて、「秀吉を討て」とは何のことでしょうか...。
この本では、島津家は中国人の家臣や彼らと手を組む中国の「工作員」が接触していて、秀吉の意に反して朝鮮出兵からの撤兵をすすめていたということを指しています。それほど、島津家は中国側と深いつながりがあったというのです。すなわち、薩摩は、海洋国家、日本の中国大陸に向けた玄関口だったというのです。
何ごとも、いろんな角度から物事を考察することが必要だということですね。勉強になりました。
(2022年8月刊。780円+税)
2023年5月24日
古代ギリシア人の24時間
ヨーロッパ
(霧山昴)
著者 フィリップ・マティザック 、 出版 河出書房新社
紀元前416年のアテネの日常生活を生き生きと再現しています。このころのアテネの都市人口は3万人。ただし、面積あたりの天才密度は、人類史上、ほかに例がない。
このとき、アテネはスパルタの軍隊との戦争の幕間(まくあい)として平和を楽しんでいた。
外国人居住者(メトイコス)は女性と奴隷と同じく民食に出席できない。また、裁判の陪審員にもなれない。それでも、アテネの裁判所に訴えることはできた。また、メトイコスは、アテネ軍に入隊できる。正式な重装歩兵にもなれた。
アテネでは、人はさまざまな事情から奴隷になる。海賊に襲われた船に乗っていて、身代金が払えないと奴隷にされた。奴隷は、重大な社会的不利益の一種と考えられていた。
貴族の娘は14歳で親元を離れ、人の妻となって自分の家中に入る。
オリーブは、アテネ人の暮らしに欠かせない。食事のたびに出てくるし、料理に、掃除に、身を清めるのに、医療にも明かりにもオリーブ油は使われている。
三段櫂船はアテネのテクノロジーの最高峰。世界で最先端の海上兵器。三段の漕手が同時に櫂を水に差し入れられるように工夫されている。櫂は合計170本。全長35メートルの三段櫂船は、最高時速15キロメートル。この半分の速度で、終日巡航できる(実際にしたようです)。この漕手は奴隷ではなかった。というのも、奴隷は反抗心から、いい加減な仕事をするので使えなかった。
三段櫂船は沈まない。水が浸入して操縦不能になっても沈没はしないのだ。
奴隷を貸すのは、良い稼ぎになる、主人は奴隷1人につき週に1ドラクマを受けとった。
学校ではレスリングを教え、また、音楽の授業もあった。哲学者プラトンもこのころ産まれている。
アテネでは市の公職は交代制。男性の市民は、一生に一度は公職につくことになる。評議会の定数は500人で、その議員は毎年交代する。再任なしで、一度しかなれない。
アテネの女性は、たとえ未婚であっても、夫以外の男性とキスしただけで、「姦通」の罪を犯したとされる。
強姦の傷は一時的なものだが、誘惑は妻を夫から永遠に引き離す危険がある。
ヘタイラは売春婦と違って決まった愛人がいる。アテネ人の女はヘタイラにはなれない。アテネの貴族の男が結婚するのは30歳過ぎてから。ヘタイラは、アテネの社交生活には欠かせない存在だ。
アテネには、女性も子どもも含めて10万人いて、政治に関われる成人男性は3万人。メトイコスが4万人、奴隷が15万人以上。つまり、人口の半分は奴隷。成人男性のメトイコスは2万人。なので、自由人の成人男性が集まると、5人に2人はメトイコスとなる。
ギリシアとアテネの市民生活の一端を知ることができました。
(2022年12月刊。2860円+税)
2023年5月25日
菅江真澄・図絵の旅
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 石井 正己(解説)、 出版 角川ソフィア文庫
江戸の旅人が旅先の各地を絵に描いて残しています。墨絵(すみえ)ではなく、カラーです。
菅江真澄は30歳のとき、今の愛知県を出発し、東北を経て北海道に渡り、その後、本土に戻って、青森県から秋田県に入って76歳で亡くなった。故郷に帰ることもなく、まさしく漂泊の人生。
真澄は、日記や地誌を丹念に残し、2400点ほどの図絵が添えられている、しかも、図絵は丁寧に彩色されている。真澄の肖像画も紹介されていますが、これまた見事な彩色画(カラー図)です。
1783年から1784年ころは信州を旅しています。和歌の力で北海道に入れたと紹介されています。いったい、旅人の収入源は何だったのでしょうか...。
風景画は、中国の山水画を彩色したようなもので、趣があります。
風景画だけでなく、植物画もあります。コタン(集落)のアイヌ婦人(メノコ)たちが草の根を入れた木皮袋を背負ってやってきた、その草の根もきちんと描いています。まるで植物学者のようです。牧野良太郎に匹敵するほどの詳細な写生です。
「てるてるぼうず」とほぼ同じ、「てろてろぼうず」も描かれています。
真澄は、北海道に渡ってからは、自らもアイヌ語を習得するよう努めた。
当時のアイヌたちは海上でイルカを狩りたてていた。北海道の沖にはイルカがたくさんいたようです。まるでドローンでも飛ばしたように上空からの図があります。
秋田の「なまはげ」は「生身(なまみ)剥(はぎ)だということを知りました。子どもは声も立てずに大人にすがりつき、物陰に逃げ隠れる。まさしく、その状況が描かれています。
草人形(くさひとかた)の絵も面白いです。杉の葉を髪にし、板に口鼻を描き、わらで胴体をつくり、胸に牛頭(ごず)天王の本札をつけて、剣を持っている人形(ひとかた)です。
村里の入り口に置いて、疫病を村に入れないように願ったといいます。
よくぞ、これだけの図絵と日記が残ったものだと驚嘆するほかはありません。
(2023年3月刊。1500円+税)
2023年5月26日
郡司と天皇
日本史(古代)
(霧山昴)
著者 磐下 徹 、 出版 吉川弘文館
奈良時代を中心とする日本古代の地方豪族と天皇との結びつきを論じた本です。
かの有名な空海は、郡司一族、すなわち地方豪族の出身だった。
古代の僧侶は、郡と地方とを頻繁に従来して活動していた。郡司の上司にあたる国司は、都で生活する貴族、官人が選ばれ、任意に赴任する。いわば中央派遣官で、任期は6年、4年そして5年がある。
郡司は、現地の有力者である地方豪族のなかから選ばれ、任期の定めのない終身の任とされた。つまり、郡の統治は、現地の地方豪族にまかされていた。
郡司の負担が大きくなっていくと、地方豪族たちは、負担の大きい郡司の地位を忌避するようになった。郡司の任用では、定められたルールに反する申請があっても、直接天皇に認められたら、可能だった。
郡司を輩出するような地方豪族が複数競合していた。地方出身者に多く与えられる外位(げい)という職があった。郡司は実はひんぱんに交替していた。
耕地開発を率先していたのは、郡司層を構成する各地の地方豪族たちだった。
三世一身の法でも、いずれは開発した土地が国家に回収されてしまう。そこで、743年に、墾田永年私財法が制定された。
地方豪族から成る郡司に焦点をあてて論じている本です。
(2022年10月刊。1700円+税)
2023年5月27日
犬に話しかけてはいけない
生物
(霧山昴)
著者 近藤 祉秋 、 出版 慶応義塾大学出版会
タイトルからは何の本なのか、さっぱり見当もつきませんよね。「内陸アラスカのマルチスピーシーズ民族誌」というサブタイトルのついた本なのです。
マルチスピーシーズ民族誌というのは、人間以外の存在による「世界をつくる実践」に着目する。人新世が地球上を覆っているように見える一方で、実際には、人間と人間以外の存在とが絡(から)まりあって継ぎはぎだらけの世界をつくっている。「人新世」とは、人間の時代のこと。それは、人間が資源を枯渇させ、生物種の絶滅を引き起こし、自分自身の生存基盤を掘り崩しかねない時代である。
若者はアラスカ先住民の村で実際に暮らしました。「犬に話しかけてはいけない」というのは、アラスカ先住民のなかにあるタブー(禁忌)の一つ。これを破ると、病で人々が多く亡くなる異常事態を引き起こす。
犬は太古の時代には人間の言葉を話した。世界の創造主であるワタリガラスは、人間が犬に愛着を持ちすぎるのを嫌って、犬の言語能力を奪ってしまった。
内陸アラスカ先住民の社会では、ひどい飢饉(ききん)のときを除いて、基本的に犬を食べものとみなしていない。伝統的に、飼育動物を殺して食べる習慣はない。犬肉食は食人に限りなく近い。
ワタリガラスとオオカミは行動を共にする機会が多く、両者が相互交渉する頻度も高い。コヨーテは狩ったノネズミをすぐに食べてしまうが、オオカミは狩った獲物で遊ぶことが多く、食べないこともある。なので、ワタリガラスは、ノネズミをくすねることのできる確率が高いオオカミを選んでつきまとっている。
アラスカでは、カラス類は犬肉を好むという神話上の共通設定がある。
渡り島が何かの事情で渡りをせずにそのまま残ってしまうことがある。これは留島というより「残り島」。人の手に頼らずに生きのびることは現実には厳しいので、先住民のなかには次の渡りまで「残り島」を飼い慣らす人がいる。そうでなければ餓死するよりましと考え、ひと思いに殺してしまう。
アラスカ先住民の生活の一端を知ることのできる本でした。
(2022年10月刊。2400円+税)
2023年5月28日
物語・遺伝学の歴史
人間
(霧山昴)
著者 平野 博之 、 出版 中公新書
遺伝学で高名なヨハン・メンデルは修道院に入り、そこでエンドウ豆の交配実験をしてメンデルの法則を発見した。なぜ、修道院で生物学の研究がなされたのか、できたのか...。この時代、修道院は単なる宗教施設というだけではなく、その地方の学術や文化の中心だった。蔵書も20万冊ほどあった。
なーるほど、そういうことだったのですね。いわば大学とか研究所のような存在だったのでしょう...。メンデルの法則を中学校(?)で学んだとき、私もその規則性には目を見開く思いでした。今でも、そのときの感触を覚えています。
メンデルは、自分の研究成果を論文としてまとめて、1866年に科学雑誌に発表した。しかし、この論文について、当時は、まったく反応がなかったそうです。メンデルの法則として学界で認知されたのは、1900年のこと。
遺伝学ではショウジョウバエとともに、トウモロコシが大活躍したそうです。というのも、トウモロコシの染色体は大きいので観察しやすいこと、雌花と雄花とが分化していて、交配しやすいことによる。
驚いたことに、大腸菌にも性があり、有性生殖をして遺伝子組み換えをする。
遺伝子はタンパク質ではなく、DNAであることが確認された。遺伝子配列の中に「CAT」というのがあります。この本では、これを「ネコ」と呼んで説明します。野生型では「CAT」の3塩基が「ネコ」というアミノ酸を指定しているが、第1の変異により、「G」の塩基が挿入されると、読み枠がずれるため、「タコ」(GCA)や「チコ」(TCA)という別のアミノ酸になってしまい、タンパク質は機能を失ってしまう。ところが、第2の変異により塩基(T)が1個欠失すると読み枠が元に戻るため、大部分のアミノ酸は「ネコ」となり、タンパク質の機能は復活する。
細胞は同じ染色体をもつにもかかわらず、なぜ、脳や肝臓など、いろいろなタイプの細胞が分化するのか。現在では、いろいろな細胞が生じるのは、遺伝子が共通していても、発現している遺伝子が細胞ごとに異なっているためだということが分かっている。そうなんですか...。
遺伝子について、少しだけ分かった気になりました。
(2022年12月刊。980円+税)
2023年5月29日
ヒトはどこからきたのか
人間
(霧山昴)
著者 伊谷 原一 ・ 三砂 ちづる 、 出版 亜紀書房
ヒト(人間)がアフリカで生まれたこと自体は今や確定した真実です。「人類みな兄弟」という人類は、それこそアフリカ起源なのです。なので、白人優位とか黒人は劣等人種なんて全くの間違い。黄色人種も同じこと。そんなレベルで優劣を論じること自体がナンセンスです。
では、ヒトは森の中で誕生したのか、草原(サバンナ)で生まれたのか...。著者は従来の通説を「おとぎ話のような説」として、徹底して否定しています。
その通説は何と言っているか...。ヒトと類人猿の共通祖先は森の中で誕生し、乾燥帯に出た祖先がヒトになったというもの。ではでは、著者の主張はどういうものか...。
類人猿やヒトの共通祖先は乾燥帯、あるいは森と乾燥帯の境界あたりに生息していて、ヒトの祖先はそのまま乾燥帯に残り、類人猿は森に入りこんだのではないか。ヒトが乾燥帯にいられたのは、肉食が始まったから...。なーるほど、ですね。
ボノボは、ものすごく上手に二足歩行する。
アフリカの類人猿はチンパンジー、ゴリラ、ボノボのすべてがナックルウォーキングする。類人猿とヒトの違いは、四足歩行か二足歩行か。足と骨盤を見ると歩行様式が分かる。
この本を読んで、衝撃的だったのは、文字どおりショックを受けたのは、アフリカに学生を連れていって、ある場所で放り出して、そのあと何ヶ月間も誰もいない無人地帯で生きのびるようなことをしていた(している)ということです。著者自身も、自転車に80キロもの荷物を積んで5カ月も一人で「放浪の旅」をした(させられた)とのこと。いやいや、これは大変、ありえないのでは...。だって、現地のコトバはまったく話せないのですよ...。猛獣から身を守るのに、まさか鉄砲は持っていないでしょうし、夜、どこに、どうやって安全を確保しながら眠るのでしょうか...。「万一、自分が死んで発見されても絶対に文句は言いません」なんて念書をとっておくのでしょうか...(もちろん、そんな念書は意味ありません)。安全が確保できたとして、コトバのほうはどうなりますか...。
ところが著者は、現地を自転車に乗って一人で旅しているうちに、自然と喋れるようになったというのです。現地のリンガラ語です。すごいですね、勇気がありますね。
勇気があるといえば、著者は有名な伊谷純一郎の息子ですが、自称「不良少年」(グレ)で、高校2年生のとき、家を出て一人暮らしを始めたというのです。すごいですね、本人も親も...。といっても、父親のほうはアフリカに長期滞在していて、家(自宅)にはあまりいなかったようですが...。
著者は小学生のころから放浪癖があり、北海道に行ったり、沖縄で漁師をしたり...。
日本人学者は、サルもチンパンジーもゴリラも、みな個体識別して名前をつけて観察しています。欧米人は、それができなかった、できるとは思わなかったようです。でも、今では、日本人学者は金華山のシカまで個体識別しているというのです。すごいことですよね、これって...。そして、そのためにエサを与えていたのが、今では近づく人に慣らすだけ(「人付け」)だというのです。
著者はチンパンジーの子どもを引きとって大きくなるまで一緒に育てたこともあるそうです。すると、大きくなっても、同じ部屋にいることができるようになるそうです。単なる飼育員だと、危険すぎて、それは禁止されているとのこと。
ヒトと類人猿との違いと共通点、そして、学者のフィールドワークの実際など、対話形式の本なので、とても面白く、すらすらと読みすすめることができました。
(2023年4月刊。1800円+税)
2023年5月30日
消された水汚染
社会
(霧山昴)
著者 諸永 裕司 、 出版 平凡社新書
ピーフォス、PFOS、ペルフルオロオクタンスルホン酸。航空機火災用の泡消火剤に入っている。沖縄の嘉手納基地、そして東京の横田基地でアメリカ軍が大量に使用してきた。このPFOSによる水汚染が基地周辺の住民の健康を損なっている。しかし、アメリカ軍は実態を明らかにしないし、日本政府も日米地位協定の壁もあって被害解明にまったくの及び腰。いやはや怒りを通りこして涙が出てきそうなほど、情けない状況です。
日本国民が、なんとなく、日本にアメリカ軍がいるおかげで日本は守られている、安全だという、何の根拠もない幻想に浸っているなかで、実際には日本国民の生命・健康が現実に脅かされているのです。
横田基地のある多摩地域の井戸がPFOS汚染によって使用停止が命じられているなんて、知りませんでした。水汚染は深刻な状況にあります。
横田基地の周辺にある、立川市、国立市、国分寺市、府中市では井戸も浄水所もPFOSの汚染はきわめて深刻。多摩地区の地下水は、西から東に向かってゆっくり流れている。1年で130メートル、1日36センチという動きだ。横田基地では、2012年に泡消火剤3000リットルが漏出した。
日米地位協定によって、アメリカの同意なしに日本が基地内に立入調査することはできない。日本は泣き寝入りするしかない。
ところが、アメリカが基地を置いている国は、どこも、そんな治外法権を許していない。ドイツもイタリアも、イギリスもベルギーだって、アメリカ軍基地への立入調査が認められている。国内法がアメリカ軍に適用されないというのは日本だけ。まさしく日本はアメリカの従属国であって、独立国ではないのです。多くの日本人は自覚していませんが...。
しかも、アメリカ軍とその兵士が日本人に損害を与えたとき、賠償金はアメリカが75%負担することになっているのに、現実には日本政府が日本人の納めた税金で全額負担し、アメリカは1円も負担していない。まさしく、開いた口がふさがらないとは、このことです。
これほどまでアメリカに馬鹿にされていながら、多くの日本人はアメリカを神様のように考えているのですから、まさしく植民地根性そのものとしか言いようがありません。本当に残念です。
妊婦のPFOS血中濃度が高いと、出生後の低体重をもたらし、アレルギーや感染症のリスクが高まり、免疫機能や性ホルモンにも影響する。世代をこえて汚染が伝わっていくのが、PFOSの怖いところ。
しっかり現実に目を向け、声を上げないといけない。つくづくそう思いました。自分自身というより、子どもや孫が健康に育つ環境を保障してやるのは私たち大人の義務ですよね。
(2022年1月刊。980円+税)
2023年5月31日
憲法改正と戦争・52の論点
社会
(霧山昴)
著者 清水 雅彦 、 出版 高文研
今や「戦争前夜」になりつつありますよね。岸田首相は広島でG7の会合を開いて司会席にすわっていながら、核兵器禁止条約を結び核廃絶を具体的にすすめようとは全然訴えませんでした。アメリカの核は良くて、ロシアの核は悪いなんて言っても、誰もまともにとりあいません。
ところが、広島に集まって何か宣言を出したというので、その中味を抜きにして外交上の成果を上げたとマスコミが持ち上げるので、岸田内閣の支持率がぐーんと上がったというのです。騙されやすい日本国民の悪いところが見えて、悲しくなります。
この本は行動する憲法学者として著名な著者が、Q&A方式で憲法改正の問題点を具体的かつ簡潔に指摘しています。
朝鮮(著者は北朝鮮とは呼びません。韓国と朝鮮と呼んでいます)と中国と日本にとって脅威だと考えるのは、「タカ派というよりバカ派」だと軍事ジャーナリスト(田岡俊次)が言っているそうです。朝鮮がミサイル発射したのは、アメリカを交渉のテーブルに着かせるためのものであって、日本を目標としたものではない、本当に、そうなんです。日本に陸上イージス基地を置くという計画はアメリカ本土とアメリカ軍基地を守るためのものでした。
敵基地攻撃能力(自民党は反撃能力と言い換えて、ごまかそうとしています)は先制攻撃そのものになります。実際、朝鮮は移動式ミサイル発射機を200機もっていて、攻撃すれば必ず反撃されます。核兵器による報復だってありえます。
ロシアのウクライナ侵攻を見て、やはり日本も軍備を持てと短絡的に叫ぶ(考える)人が増えているようです。果たして、そうでしょうか。日本が軍事力を強化しても、中国にはかないっこありません。人口が10倍以上もあるのですから、中国と「過度の」軍拡競争に陥るだけなんですよ...。それでは国際平和は守れません。
災害などの緊急事態のときに備える必要があるといいますが、ナチス・ドイツは、国会の多数を占めると、今や非常事態になっていると一方的に宣言して、すべて政府が決め、国会を無視しました。それと同じなんです。有害なだけです。歴史にきちんと学ぶ必要があります。
防衛費は青天井で増大していくのに、文教・福祉予算は伸びないどころか削減という自民・公明の岸田政権は間違っています。
分かりやすく、元気の出てくる憲法改正論点集でした。ぜひ、ご一読ください。
(2023年3月刊。1280円+税)