弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年4月 9日

足利将軍と御三家

日本史(室町)


(霧山昴)
著者 谷口 雄太 、 出版 吉川弘文館

 江戸時代、徳川幕府の下で、尾張・紀伊・水戸は御三家として別格の存在だったことは、日本史の常識です。だって、この御三家のなかから、ときに将軍が生まれたのですから・・・。たとえば、吉宗は紀伊國の藩主から将軍になりましたが、そのとき、紀伊藩士をごっそり江戸城にひきつれていったのでした。
この本は、そんな御三家が実は室町時代にも足利(あしかが)御三家として存在していたことを明らかにしています。吉良(きら)、石橋、渋川の三家です。この吉良は、なんと赤穂浪士の討ち入りの対象となった吉良上野介(義英・よしひさ)に連なる名門として、室町時代から戦国時代を経て、江戸時代まで続いていたのであり、しかも、儀式に通暁した存在、高家(こうけ)として存在していたというのです。
足利将軍を中心とする室町幕府には三管領(かんれい)として斯波(しば)氏、畠山氏、細川氏がいて、四職(ししき)として一色氏、山名氏、京極氏、赤松氏がいた。そして、それらより御三家のほうが格が上だった。御三家は、管領家と同等以上の地位にあった。
室町幕府の支配は、政治権力体系と儀礼権威体系の両面(二本柱)から成り立っていた。
吉良氏は、御三家筆頭であり、斯波氏ら三管領家以上の存在だった。
当時の社会における儀礼権威というものの重要性を再認識すべきだ。将軍・公方に准ずる存在、それが御連枝(ごれんし)であり、足利氏の重要な一部を成した。この御連枝に准じたのが御三家だった。
吉良・石橋・渋川の三氏は、足利氏の兄を出自とする面々となる。吉良・石橋・渋川の三氏は、鎌倉時代、「足利」名家を名乗り、足利氏とは惣領一庶子の関係にあるなど、両者の関係は非常に濃いものがあった。
14世紀中葉、足利一族は分裂した。観応の擾乱で敵味方として戦ったとき、最終的には1360年ころ、吉良・石橋・渋川の三氏は幕府のもと再統合された。
足利御三家の役割は、足利氏がいなくなったときには、その立場を後継することにあった。吉良が絶えていたときには、今川氏が継ぐことになるが、本人が拒絶しているので、100%ありえない。
江戸幕府は、室町時代の儀礼制度や身分格式を色濃く受け継いでいた。関東吉良氏は、「蒔田(まいた)」氏として存続した。石橋氏は、戦国時代、当主(忠義)はキリシタン(サンチョ)となって生き抜き、滅んでいった。渋川氏は里民となって生き抜いた。
さすがに学者ですね。よくぞ調べあげたものだと驚嘆しながら読みすすめました。

(2022年12月刊。1700円+税)

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