弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年2月11日

黒田孝高

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 中野 等 、 出版 吉川弘文館

 黒田官兵衛、また如水(じょすい)として有名な戦国武将の実像に迫った歴史書です。なので、あまり面白いという本ではありません。小説ではないので、ハラハラドキドキ感はないのです。
 官兵衛といえば、土牢に閉じ込められて1年あまり、よくぞ助かったもの、でも、出てきたときにはまともに歩けなくなっていた...、というエピソードがまず有名です。
 この本は、孝高(官兵衛)が信長に謀叛(むほん)した荒木村重の説得に向かったこと、摂津有岡城内に拘留されたことは事実としています。ところが、このエピソードは明治に刊行された『黒田如水』にはなく、大正5年の『黒田如水伝』に初めて出てくる話とのこと。江戸時代の書物には出ていないそうです。
 天正6(1578)年11月から翌7年11月まで1年間の拘束があったことは事実。しかし、「土牢」とかではなく、それなりの処遇だったようです。この本は、「極端に劣悪な状況下で幽閉されていたとも考えにくい」としています。
 そして、「3年」の幽閉によって歩行困難になっていた、脚に障がいを負ったというのは一次史料で確認できないとのこと。なーるほど、ですね。
 孝高は父親が亡くなった天正13(1585)年ころ、40歳のとき、キリシタンとして洗礼をうけた。洗礼名は、ドン・シメオン。このことはルイス・フロイスのイエズス会総長あての報告書に書かれているから間違いない。
孝高が小西行長の受洗のきっかけをつくり、実際に洗礼に導いたのは高山右近と蒲生(がもう)氏郷(うじさと)だった。いやあ、これには驚きました。そして、蒲生氏郷と高山右近は、千宋易(かの千利休です)の高弟ですから、キリシタン人脈は茶道ネットワークと大きく重なっていたというわけです。これまた、知りませんでした。
 孝高は慶長9(1604)年3月に、59歳で、京都の伏見で亡くなります。
 辞世の句は、
 思ひ置く 言の葉なして ついに行く 道は迷わじ なるにまかせて
 死に臨んで達観の境地に至ったようだとされています。
 死の前、息子の黒田長政に自分の遺体は博多の教会まで運んで埋葬するように頼み、教会の建築のため1千クルザードを寄付した。宣教師のロドリゲスがローマのイエズス会本部への報告書に、このように書いている。
 孝高の遺体は筑前(福岡)に運ばれ、キリスト教による葬儀が行われた。もっとも、さらに20日後には、仏式による葬儀も営まれたとのこと。
 秀吉は天正15(1586)年に「伴天連追放令」を発してイエズス会の布教活動を禁止した。秀吉はキリシタン大名にも棄教を迫り、これに応じなかった高山右近は居城を没収され、追放された。高山右近はフィリピンに向かったのですよね...。
 孝高も秀吉の不興をかったものの、なぜか棄教を求められなかったようです。
 それどころか、孝高は嫡子の長政(洗礼名はダミアン)が末弟の直之(同ミゲル)も洗礼を受けさせている。また、孝高は、豊後の大友義統(コンスタンティン)や筑後久留米城主となった小早川秀包(シモン)にも入信を勧めた。このように、高山右近が追放されたあと、孝高は国内のキリシタン勢力の中心的存在と目された。いやあ、これまた知りませんでした。
 孝高40歳代の初めころは、毛利一門と深く結びついていたようです。
 秀吉の二度にわたる朝鮮出兵のころ、孝高も長政とともに朝鮮に渡っていますが、秀吉の不興をかっていて、名護屋城に戻ったとき対面を許されなかったほどでした。
 このとき、石田三成が孝高を恨んで秀吉に訴えたことが原因だというのは、後年になって黒田家が石田三成をおとしめるために創作した話であって、史実ではない、としています。
 黒田家は、徳川将軍家にとって警戒の対象であり続けたというのは事実のようです。いずれにしても、男系、女系とも、黒田本家において、孝高の血統は早々に絶えています。
 歴史を知ると、物語のように面白い話ばかりではなくなるけれど、また、史実のほうが意外だったりすることを知りました。著者は福岡県生まれの九大教授です。
(2022年9月刊。税込2640円)

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