弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2023年2月 1日
徳川家康と武田信玄
日本史(戦国)
(霧山昴)
著者 平山 優 、 出版 角川選書
「どうする家康」が始まりましたが、その時代考証を担当する学者の本です。同じ著者の『長篠合戦と武田勝頼』も読みましたが、武田勝頼をすっかり見直しました。なかなか実証的な論述に、とても説得力があります。
さて、「どうする家康」です。家康は簡単に天下取りを実現したのではありません。もちろん強運もあったでしょうが、部下の武将に恵まれたこととあわせて、本人の決断の正しさもあったのだと思います。
三河一向一揆が勃発したのは元禄6(1563)年12月のこと。三河国は始祖の親鸞(しんらん)が布教し、蓮如も布教活動をすすめたことから、一向宗が広がった。家康と三河一向宗寺院は、不入権をめぐる対立が頂点に達し、ついに門徒らが蜂起した。
不入権とは、諸役(諸公事)免許などの経済的特権と、守護や領主の検断(警察権)不入によって構成される。家康は、今川氏の不入権政策を踏襲していた。
この大一揆の原因については諸説あって固まってはいない。そこで、著者は、当時は元禄の大飢饉(ききん)の真只中にあり、兵糧米の貸借をめぐってのもつれが原因ではないかと推測しています。そして、一向一揆に対して、少なくない家臣が一揆側に味方した。これは大変ですね...。ただし、一揆側に明確なリーダーがおらず、一揆を大事にするつもりはなく、不入権を確保したいというのが根拠だった。
なんとか一揆側を和睦(わぼく)できた家康は、三河において一向宗を禁制とした。家康は一向宗寺院や道場をすべて破却した。
そして、三方原合戦で家康は武田軍に大敗してしまいました。なぜ、家康がこのとき武田軍に歯向かっていったのか...。それは自らの拠点である浜松城への補給路確保だった。
武田信玄は家康について信長あっての家康だと認識していた。本心では、家康を格下だと侮っていた。ところが実は、信長と家康は対等の関係であり、従属関係ではなかった。信長は家康に対して実行を命令し、強制することはできなかった。
これは意外でした。信長のほうが強大なので、主従のような関係だとばかり思っていました。
信玄は宿敵上杉輝虎との和睦に踏み切った。これは、まさしく驚天動地の外交だった。
武田家は、元亀3(1572)年に家康を攻め、三方原(みかたがはら)合戦が起きた。
武田軍は、徳川・織田連合軍の真ん中を切り破った。このため、徳川・織田連合軍の鶴翼は寸断され、総崩れとなった。ところが、このころ、武田信玄と同盟していた朝倉義景が越前に撤退して、信玄は大いに落胆してしまった。やがて、信玄の体調が急変した。信玄の病気は胃ガンだと推定されている。信玄は元亀4年4月に53歳で死亡した。家康の前半生において、もっとも脅威だったのは、武田信玄だった。
本当に危いところで、信玄が死んでくれて家康は助かったというわけです。家康が26歳から32歳までのことです。これをどのように役者たちが演じるのでしょうか...。
(2022年11月刊。税込1980円)
2023年2月 2日
ソ満国境15歳の夏
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 田原 和夫 、 出版 築地書館
日本の敗戦も間近の1945年5月、新京第一中学校の生徒たちが勤労動員として、ソ連領のウラジオストックからも遠くない報国農場へ送り出され、8月9日からのソ連軍侵攻にあい、命からがら脱出・避難していった状況が刻明にレポートされている本です。
新京は満州国の首都であり、今の長春です。満州国は中国東北部に日本がデッチ上げたカイライ国家です。
勤労動員の対象となった中学3年生230人のうち、東寧(とうねい)の農場へ行かされたのは130人。奇跡的にもそのほとんどが生還できました(ただし、4人は病死)。
この農場はソ連との国境間近にあり、目の前にはソ連領の丘があり、そこにソ連軍のトーチカがあった。午前4時の起床ラッパで起き、畑や水田で農作業し、夜9時には消灯ラッパが鳴って就寝。都会の中学生には慣れない農作業で大変。粗末な食事で、いつも空腹だった。6月には除草、7月は麦刈り。そして、農作業のあいまには軍事訓練。対戦車地雷攻撃。なんと、戦車に見たてたのは大八車。もちろん、実戦で役に立つことはなかった。7月末に勤労動員は終わるはずだったのが、延期になった。
そもそも、なぜ中学生がソ満国境の農場へ勤労動員されたのか...。
関東軍70万の精鋭というのは、今や昔の話であって、ソ連軍は当面攻めてこないと判断した日本軍首脳(大本営)は、関東軍の精鋭師団を次々に引き抜いて南方の戦場に送り出していたので、いわば「張り子の虎」になっていた。それをソ連やアメリカにバレないように秘匿したうえ、満州の大半は捨てて、朝鮮半島に近いところだけを守ることにしていた。それもバレたら困るので、員数あわせで「猫の手」ではないけれど、15歳の中学生まで動員したということ。
そして、一般開拓民を早々に避難させるべきではなかったかと批判されたとき、そんなことをしたら関東軍の後退を敵(ソ連)に察知されるからできないと関東軍の元参謀は開き直った。つまり、軍隊は国民を守るためのものではないということです。そうなんです。軍隊というものの本質は、昔も今も変わりません。
8月9日のソ連軍の進攻は、まさしく寝耳に水のこと。あわただしく避難行進が始まります。必死の思いでたどり着いた駅につくと、避難列車は出たあと。実は、軍の関係者を乗せる列車はあったけれど、生徒たちを乗せる余地はなかったというもの。何事も軍人優先なのです。
100人以上の生徒たちは集団となって新京を目ざしますが、結局、徒歩。水も食糧もなく、ひたすら歩く。ボウフラのわいている水たまりでも夢中になって、ごくごくと飲む。もう生水でお腹をこわすこともない。道中では塩とマッチがもっとも大切な貴重品。マッチを油紙で包み、ふところ深く保管して歩く。
夜通し歩き続ける。まっくらやみの中でも、水につかりながらも...。足は完全にふやけ、足の裏には1センチほどの深いシワというか溝ができていて、ところどころ皮が赤くむけている。
8月15日の天皇の放送はもちろん聞くこともなかったけれど、16日ころから敗戦を伝えられる。当初は謀略放送かもしれないという受けとめ方があった。やがてソ連軍に出会い、捕虜となり、収容所に入れられる。
この本では、スターリンによる日本軍将兵のシベリア送りは、北海道の半分占領をスターリンは考えていて、アメリカが賛成しなかったから方針を変更してシベリア移送を始めたとしていますが、史実にあっているのでしょうか...、スターリンはアメリカから干島占領の同意を取りつけ、さらにあわよくば北海度の半分占領も考えていたということでしょう。日本軍将兵のシベリア送り、労働力の活用は北海道の占領についてのアメリカとの駆け引きとは関係なく考えられ、推進されたのだと私は考えています。スターリンが1週間ほどの間に方針を180度変更して日本軍捕虜をシベリアへ移送して強制労働に従事させたというのは考えられないと私は思います。
生徒隊はソ連軍の収容所のなかで、青少年義勇軍の少年たちと一緒になりましたが、義勇軍の少年たちは、暴力・いじめリンチがひどかったようで、たちまち生徒隊もその支配下に組み込まれたのでした。
まあ、なんとか新京の親たちのもとにほとんどの生徒が戻れたのですが、本当に悲惨な体験をさせられたのです。戦争のむごさと不条理さ、そして軍隊というものの本質的な無責任さを痛いほど感じました。
(2017年9月刊。税込2640円)
2023年2月 3日
脚本力
人間
(霧山昴)
著者 倉本 聰 、 出版 幻冬舎新書
脚本家としてプロデューサーと会って話をして、創作本能が揺さぶられるようなら受ける。そうでないなら、断る。実に単純明快。
長所が見えただけでは、その人を理解したってことにはならない。欠点が見えないと、面白くない。欠点をきちんと書いてやれば、必ずそれが個性になって出てくる。本人も気がついてはいるけれど、困りはてている欠点、隠しきれなくて困っている欠点、それがつかめたら、もうしめたもの。
テーマとモチーフは違う。テーマは主題で、モチーフは創作の基礎になる着想ないし題材。テーマは、作者の伝えたい「核」。自分が本当に書きたいもの。つまりテーマを、相手の持ち出したモチーフの中に忍び込ませる。
ある原作にもとづいて脚本をつくるとき、原作は全部読まず、読むのは最初の3頁くらいで、あとは誰かに読んでもらって、粗筋(アラスジ)を教えてもらう。そうすると、原作にとらわれずに脚本が書ける。
なーるほど、そんな手もあるのですね...。
脚本の中で人物をつくりあげるとき、三つの要素から人物をつくっていく。その一は、モデルとして実在の人物を見る。その二は、それを演じる役者。その三は、自分の創作。この三つを登場人物によって比率を変えていく。
ふむふむ、なるほど、なるほど、です...。
登場人物の名前は大切。まず書きやすいこと。簡単に、どこかでてごろな名前を拾ってきてはいけない。名前は、人物に色を塗ったり、色を足すものだったりするので、大事だ。
ドラマでは、意外性というのも大切。
チャップリンは、こう言った。
「世の中のことは、近くで(アップで)見ると、全部が悲劇だ。しかし、遠く離れて(ロングで)見ると喜劇だ」
まさに、それが世の中なんですよね。
創作というコトバがある。しかし、創と作は違うもの。作は、知識とお金を使って、前例にならって行うこと。創のほうは、前例のないものを、知識ではなくて知恵によって生み出すこと。
創の仕事をしていると、楽しい。創るというのは生きること。だけど、遊んでいないと創れない。同時に、創るというのは狂うこのでもある。遊ぶというのは楽しむこと。つまり、自分が楽しむこと。狂うっていうのは熱中するということ。
私も創作の創のほうに目下、挑戦中です。乞う、ご期待なのですが、どうなりますやら...。
(2022年9月刊。税込1034円)
2023年2月 4日
羊皮紙の世界
ヨーロッパ(中世)
(霧山昴)
著者 八木 健治 、 出版 岩波書店
羊皮紙が誕生したのは紀元前2世紀に現在のトルコ西部。そして、古代世界の中心地ローマに輸出するまでになった。パピルスよりも丈夫で、そのうえ羊はどこにでもいるという手軽さから、羊皮紙はまたたく間に広まった。
現在でも、世界30ヶ所で羊皮紙は作られている。
羊皮紙がフツーの紙と違うのは、一枚一枚に、かつて動物の命が宿っていたということ。
羊は皮膚にラノリンという脂分を多く含んでいるため、その脂分が酸化して、いくらか黄色っぽくなっているのが特徴。
羊皮紙といっても、3種類ある。一つは羊。二つ目は生後6週間以内の仔牛。三つ目は山羊(ヤギ)。
羊皮紙をつくる過程では、ツーンとしてすっぱい臭いと、どよーんとした腐敗臭が鼻をつく。1頭の羊から約1ヶ月かかって出来るのは、A4サイズで4枚だけ。この1枚が3000円ほどする。18世紀フランスの記録には、1枚が1リーブル、つまり500円から1000円ほどだった。
羊皮紙の平均的な厚さは、千円札3枚を重ねたくらい。
羊皮紙づくりは、部厚い皮をひたすら削っていく作業。薄くするほうが大変。
羊皮紙には穴空きは仕方のないこと、もとから動物の皮は空いていたもので、作製造上での職人のミスではない。
羊皮紙には、印刷用の油性インクが染み込みにくいため、紙と比べると、印刷後のインクの乾燥にかなりの時間がかかる。羊皮紙の表面をツルツルにしておくため、メノウなどの表面が滑らかな石で入念に磨かれる。
羊皮紙という知らない世界を少しだけのぞいてみた気がする本でした。
(2022年8月刊。税込3190円)
2023年2月 5日
那須与一の謎を解く
日本史(鎌倉)
(霧山昴)
著者 野中 哲照 、 出版 武蔵野書院
どうやら著者は大学で学生に「那須与一」を教えているらしいのです。いやあ、それはさぞ面白い授業でしょうね。そんな授業なら、ぜひ聴講してみたいと私は思いました。
著者は、那須与一ほど謎の多い人物はいないし、「那須与一」ほど謎の多い物語はないとこの本の冒頭でキッパリ断言しています。ということは、『平家物語』の那須与一の話は、少しはモデルのいる話かと思っていたのが、実はまったくの架空の話なのではないか...、そう思えるようになりました。そして、早くもネタバレをすると、本当にそうだというのです(すみません、早々のネタバレをお許しください)。
那須与一については、その生誕地(栃木県大田原市)に資料館(伝承館)があるのに、何も分かっていないというのです、まるで不思議な話ではありませんか...。
この本の第一部は、まずは「読解編」として始まります。少しずつ「那須与一」が解明されていきます。
那須与一が船の上の扇の的(まと)を射るのに使った鏑矢(かぶらや)は、先端に雁股(かりまた)という矢尻と鏑がついている。この鏑は、鹿の角(つの)をくりぬいて中を空洞にしたもの。鏑矢が空中を飛ぶと、鏑が笛のように鳴る。鳴らす音によって魔物を退散させる。扇の的(まと)を射るのは、厳粛な儀式で、神事だ。このとき、那須与一に矢を射ることを命じた義経は27歳だった。那須与一が弓を持ち直す表現は、緊張感が徐々に増してきて、集中力が高まっていることを示している。
「与一」は、正しくは「余一」で、これは「十余り一」で、十一男のこと。
大学での授業のあと、「この語は本当にあったことなのか?」と質問しにくる学生がいる。これに対する著者の対応は、さすがに大学で教えているだけのことはあります。
小さな事実としては事実でないかもしれない。しかし、大局的にみて、頼朝直属の武士だけではなく、辺縁部で、かつ底辺の小さな武士団が頼朝を支えていたという点では否定しようのない事実だった。
著者は、そもそも那須与一は実在の人物なのかと問いかけ、その答えとしては否定しています。そして、結論として、嘘(ウソ)であることが見抜かれないように本物らしさを偽装するところにこそ、嘘であることが露呈している、とするのです。なるほど、そんな言い方もできるのですね。
そして、那須与一には、那須光助というモデルがいたとしています。
光助は、那須野の狩りで活躍している。光助は、源頼朝に認められた、鎌倉幕府寄りの御家人だった。なので、義経の部下ということはありえない。要するに、那須与一は物語世界でつくられた人物なのだ。
物語を研究するというのは、こんなことなのかということが推察できる本でした。私には、とても面白かったです。
(2022年5月刊。税込2420円)
2023年2月 6日
日本の高山植物
生物(植物)
(霧山昴)
著者 工藤 岳 、 出版 光文社新書
高山植物の背丈が低いのは、高山環境が厳しいから。そりゃあ、そうですよね。
高山植物に特有な葉の形状は冬の寒さに耐えるだけでなく、夏の強風や強い日射への防御とも関係している。なーるほど、です。アントシアニンをコーティングすることで、葉内細胞を紫外線の影響からガードしている。常線性の高山植物では若葉が緑色をしていないものも多い。赤い色の正体はアントシアニンという色素で、紫外線を吸収する作用がある。
十分に耐寒性を獲得した冬モードの植物では、マイナス196度の超低温にさらされても細胞が壊れずに生存している。
高山環境で乾燥ストレスは日常的。
葉の表層に花がきれいなのは、花粉を運んでくれる動物を引き寄せるため。その証拠に風媒花には花弁がない。
高山帯には、1年生植物がほとんどいない。
多くの高山植物の受粉を支えているのは、ハエ類とハチ類。ハエ類は高山生態系でとても重要なポリネーター。高山植物を訪れる昆虫の6割はハエ類で、3~4割がハチ類。
ハナアブはハナアブ科とハラハエ目の昆虫。マルハナバチは、ミツバチ科の昆虫。
ニュージーランドの高山植物が地味で目立たないのは、ハナバチがいないことと関係している。優れた色覚能力をもったハナバチがいないから、カラフルな色の花が進化する必然性がなかった。その代わり、目立たない花たちは、テルペン系化学成分に由来する、かなり強い匂いを出す。それはハエをおびき寄せるため。
蜜量が花によって違うのは、ポリネーターに長居させないため。
ウコンウツキという低木の高山植物は、開花期間中に花の色が変わる。オレンジ色はポリネーターに蜜のありかを教えるが、赤色に変わると、ハチには見えなくなる。
厳しい環境に生きる高山植物は、他家受粉を成功させるためのさまざまな方法を編み出してきた。
北海道の大雪山では高山植物の生育期間は7月中旬から9月半ばまでの2ヶ月足らず。この間に、芽吹いて、成長し、花を咲かせて、実を結ばなくてはならない。残り10ヵ月間は、雪の下で冬眠している。
マルハナバチは、ミツバチのようにコロニー(巣)をつくり、そこでは女王バチと働きバチが分業している。卵を産む女王、コロニー内で子育てをする働きバチ。蜜と花粉を集めてくる外勤の働きバチ。夏の短い高山帯では、コロニーが存在するのは、わずか2ヶ月足らずのみ。それ以外の季節は、女王バチだけが孤独に暮らしている。
日本の高山植物相はベーリンジア起源のものが多い。極地植物は、オホーツク海の両脇の2つのルートをたどって北海道にたどり着いた。日本にいる高山植物は、山域によって移住してきた時期が異なるグループで構成されている。
高山植物の研究というのは、夏も冬も高山に一人でのぼって、そこにテントを張って観察するということですよね。ヒグマの心配はないのでしょうか。一人でいることの孤独感にどうやって耐えられるのでしょうか...。学者になるって、本当に大変なことですよね。でも、そのおかげで、こうやって美しい高山植物の生態を居ながらに知ることができるわけです。感謝しかありません。
(2022年9月刊。税込1320円)
2023年2月 7日
聞く技術、聞いてもらう技術
人間
(霧山昴)
著者 東畑 開人 、 出版 ちくま新書
いま売れている話題の本だけあって、とても実践的な本です。すぐにでも生かせる「技術」が盛りだくさん紹介されています。
話を聞くには眉毛が大事、つまり話を聞くためには、反応がオーバーであったほうがいい。
聞くために必要なのは、沈黙。黙って、間(ま)をつくる。そして、返事は遅く、5秒間待つ。7つの相槌をうつと、話が聞かれている感じを与える。うーん、ふーん、なるほど、そっか、まじか、だね、たしかに。
ぼくらの社会に今もっとも欠けているのは、「聞く」こと。
うまくいっているときには存在を忘れられ、うまくいかなかったときだけ存在が思い出される。それが、「環境としての母親」。
心の中で一人ポツンといるためには、外の現実で手厚く守られている必要がある。それは、電車の中で本を読んでいるみたいな感じ。本当は周囲に人がいるけれど、それでも一人でいられる。孤独の前提は、安定した現実。
安心というのは、予想外のことが起きないという感覚のこと。日々の生活で予想と同じことが起きる。変なことをしても誰もこない。
いじめが深刻に心にダメージを与えるのは、この反対。今日、学校に行って、何が起きるか予想もつかない。これはとても恐ろしいこと。この指摘は私にもぴったり、よく分かります。
信頼とは、時間の経過によってしか形づくられないもの。
誰にでも、複数の心がある。ぼくらの中には相矛盾した気持ちが両方あって、それらが押したり引いたりしながら、日々の暮らしが営まれている。だから、その人の心を見ることは、同じ人の中で複数の心が綱引きをしているところを見ること。
完全に理解したわけではありませんが、なんとなく、よく分かる指摘です。
年齢(とし)をとると、良いこともある。何より、少しだけ他者のことを理解しやすくなること。
カウンセラーの仕事は、通訳。誰かが話を聞いてくれて、「そりゃあ、ひどい」とか、「よく耐えられるね」という返しがあると、ほっとする。
(2022年12月刊。税込946円)
2023年2月 8日
転生
日本史(戦前)・中国
(霧山昴)
著者 牧 久 、 出版 小学館
愛新覚羅溥儀は、清朝最後の皇帝「宣統帝」そして日本がつくり関東軍が支えた満州国の皇帝「康徳帝」となり、日本敗戦後は、中国共産党による思想改造教育を受けて植物園で働く北京市民として過ごした。その弟・薄傑は日本の貴族である嵯峨侯爵家の娘・浩(ひろ)と結婚し、二人の娘をもうけた。長女は学習院大学で学び、天城山で日本人青年と心中したことで有名。
この二人の一生を詳しく明らかにした本です。「転生」というのは、溥儀が三つの人生を生きたことを指しています。
日本は溥儀と密約を結んでいた。
「皇帝溥儀に男子が生まれないときは、日本国天皇の叡慮によって関東軍司令官の同意を得て、後継者を決定する」
溥儀の皇后はアヘン中毒で、側室には寄りつかないので、溥儀に子どもができないことを知る関東軍は、弟の溥傑の子どもを次の皇帝にするつもりがあり、ともかく後継者の決定権は関東軍が握っていた。
袁世凱(えんせいがい)には自らが皇帝になるという野望があり、ついに1916年1月に皇帝となった(洪憲皇帝)。しかし、内外の反発が大きく、わずか83日間の在位で退任。同年6月、56歳で病死した。
溥儀は快活で理解も早かったが、その気質には、真面目な面と軽薄な面があった。常に分裂したものがあり、二つの人格が存在した。心の中で、思っていることと、口に出していう言葉が正反対なことがしばしばあった。
溥儀は、もともと女性に関心がなかった。それは、幼年のころ、周囲の女官たちからもてあそばれたことにもよる。
溥儀は北京から天津に行き、そこで日本の庇護を受けて生活するなかで、日本が清朝を復活させるには第一の援護勢力であることを実感していった。
1932年2月に発足した満州国は民主共和制であり、国主は執政となっていた。3月9日に溥儀の執政就任式が長春(新京)で開かれた。
3月10日、関東軍司令官(本庄繁)と満州国執政(溥儀)、国務総理(鄭孝胥)とのあいだで秘密協定が結ばれた。
満州国は日本に国防と治安維持を委任する。日本人を満州国の参議、そして各官署に任用し、その選任・解職は関東軍司令官の同意を必要とする。いやあ、これでは満州国とは日本のカイライ国家だというのは間違いありませんよね。
このあと、満州国の中央と地方の官庁に日本人官僚を送り込む作業がすすめられた。
満州国の建国が宣言されたのは3月1日で、その前日の2月29日に国際連盟が派遣したリットン調査団が東京に到着した。関東軍は植民地経営に精通したリットン調査団が満州に入る前に既成事実をつくりあげようとした。
溥儀は弟の溥傑の妻となった浩を関東軍が送り込んできた特務(スパイ)だと思いこみ、毒殺される危険すら本気で心配した。
日本敗戦後の8月19日、溥儀たちは日本に亡命するつもりで飛行機に乗り、通化から奉天へ行ったところ、ソ連軍に捕まった。関東軍総司令部がソ連軍に溥儀一行の奉天到着を知らせ、身柄を引き渡したとみるのが自然。
溥儀たちはソ連内の高級捕虜収容所で優遇されて過ごした。元日本兵のシベリア抑留の過酷な生活とは別世界だった。1950年7月に中国に移され、撫順戦犯管理書に入った。朝鮮戦争が始まると、ハルピンに移ったが、1954年3月には再び撫順に戻った。
そして、1959年12月4日、溥儀は釈放された。そして周恩来総理の斡旋で「北京植物園」の一作業員として働きはじめた。花のとりこになった。
満州の皇帝となった溥儀が転変はなはだしい波乱にみちた人生を送ったことがよく分かりました。
(2022年12月刊。税込3300円)
2023年2月 9日
日本インテリジェンス史
社会
(霧山昴)
著者 小谷 賢 、 出版 中公新書
公安調査庁という役所があります。かつて、私のいる町にも検察庁の支部庁舎に公安調査官が部屋を構えていました。なぜ知っているかというと、そのころは年2回、三庁対抗ソフトボール大会をしていて、その公安調査官も出場しようとしたからです(出場はしていません)。名簿に載った気がします(うろ覚えです)。聞いて驚いたことを覚えています。
共産党対策を専門とする役所ですが、共産党が暴力革命を目ざしていないことがはっきりして、盲腸のような存在だとされて、無駄な公金支出はやめろと、廃止論が有力になったとき、それを救ったのがオウム真理教でした。でも、オウム真理教事件の解明に公安調査庁が役に立ったとはとても思えません。
今、ときどき問題になっているのは自衛隊幹部の情報漏洩事件です。いったい、誰に情報が漏らされているかというと、必ずしもロシア、中国、北朝鮮ということでもないようです。どうやら、軍事ビジネスの企業への情報漏洩らしいです。もちろん、そんなことは公表されていませんから、憶測でしかありません。
最近では、北村滋という警察庁出身の内閣情報官が突出して有名です。それにしても、アメリカを始めとして多くの国の情報機関がこの北村滋を頼りにして、オーストラリア政府は北村滋の退官後にインテリジェンス功労賞を授与したとのこと。これって、日本の情報をオーストラリアに売り渡していたということではないんでしょうか...。
上が上なら、下も見習いますよね。つい、先日も幹部自衛官が複数名、逮捕されたと報道されました。でも、その背景も本質的問題も何ら続報がなく、明らかにされませんでした。
日弁連も反対した特定秘密保護法が規定されていますが、その運用状況は、まったく秘密のままです。日本政府は何でも秘密、秘密のまま、国民をあらぬ方向(政府の都合のいい方向)にもっていこうとする傾向が昔からとても強く、そのことについてマスコミが牽制的な働きかけをほとんどせずに、権力仰合あるいは追随して、そのうち国民が忘れ去るのを待つ、そして、次の話題に移っていくということが、あまりにも多い気がしてなりません。
安保三文書の意義と問題点を国会で議論することなく岸田首相はアメリカに飛んでいって逐一報告する。統一協会と自民党議員との結びつきを解明することもなく、不十分な立法をしてこの問題が終わったことにしてしまう。許せません。日本学術会議の6名の任命拒否の理由を明らかにすることもなく、この会議自体の抜本的改組を急ぐ。本当に今の自民・公明政権のやっていることは、ひどすぎます。国民に対する説明責任を果たそうとする気持ちがまったく欠如しています。にもかかわらず、NHKを初めとして、マスコミのほとんどはそれを問題としないままです。
日本のインテリジェンスにもっとも欠けているのは、コモンセンス(常識というか良識)ではないでしょうか...。
(2022年8月刊。税込990円)
2023年2月10日
私はヒトラーの秘書だった
ドイツ
(霧山昴)
著者 トラウデル・ユンゲ 、 出版 草思社文庫
映画『ヒトラー、最期の12日間』はみていますが、それの原作とでもいうべき本です。
ヒトラーが結婚式をあげたばかりの妻・エーファ・ブラウンと2人、ベルリンの首相官邸の地下で自死(ヒトラーは青酸カリを飲み、ピストルで自殺)し、部下たちが爆撃で出来た凹地に2人の遺体を入れてガソリンで焼いた状況をすぐ近くにいて見聞していた秘書です。
ヒトラーは、いまだにこの地下防空壕で影法師のごとく生きている。落ち着かず、部屋から部屋へさまよい歩く。
「私は、もう肉体的に戦えるような状態ではない。私の手は震えて、ピストルが握れないくらだ。...どんなことがあっても、私はロシア人の手にだけはかかりたくないんだよ」。ヒトラーは、ぶるぶる震える手でフォークを口に持っていく。歩くときは、床に足を引きずってゆく。
ラジオは、ヒトラーが不運な街にとどまって運命を共にし、自ら防衛を指揮していると繰り返している。しかし、ヒトラーがとうに戦闘から身を引き、自分の死をだけを待っていることは、総統防空壕にいる少数の側近しか知らない。
突如、銃声が一発、ものすごい音をたてて、うんと近くで鳴った。たった今、ヒトラーが死んだ。やがて、肩幅の広いオットー・ギュンシェが戻ってきた。ベンジンの臭いがむっと立ちこめる。若々しい顔が圧にまみれて、しょぼしょぼしている。酒瓶をつかむ手が小刻みに震えている。
「僕は総統の最後の命令を実行した。ヒトラーの死体を焼いたんだ」
死んだヒトラーに対して、憎しみとやり場のない怒りみたいなものが忽然(こつぜん)と湧きあがってきた。我ながら、びっくりだ。
戦後、著者(トラウデル・ユンゲ)は、『白バラ』グループに入って活動して、ナチスからギロチン刑に処せられたゾフィー・ショルを知りました。同じくドイツ女子青年連盟に入り、ゾフィー・ショルのほうが1歳下。そして、次のように考えた。
ゾフィー・ショルは、ナチス・ドイツが犯罪国家なのだということをちゃんと分かっていた。自分の言い訳はいっぺんに吹っ飛んだ。
「私は間違った方向に進んでいった。いいえ、もっと悪いことには、決定的な瞬間に自分で決断を下さず、人生をただ雨に降られるままにしておいた...」
「知ろうとすれば知ることができたはずだ。知ろうとしなかったから、自分は知らなかった」と自覚した。
最晩年のヒトラーがこれほど生々しく描かれている本はほかにありません。ヒトラー暗殺未遂のときも、その現場近くで秘書として生活していましたし、山荘そして首相官邸でのヒトラーの私生活を伝えている貴重な手記です。
ヒトラーは酒を飲まず、食事は菜食主義者、そして薬漬けの日々でした。女性との浮いた話も意外なほどありません。犬は可愛がっていました。やっぱりヒトラーは異常人格だったと言うべきなのでしょうね...。
(2020年8月刊。税込1320円)
2023年2月11日
黒田孝高
日本史(戦国)
(霧山昴)
著者 中野 等 、 出版 吉川弘文館
黒田官兵衛、また如水(じょすい)として有名な戦国武将の実像に迫った歴史書です。なので、あまり面白いという本ではありません。小説ではないので、ハラハラドキドキ感はないのです。
官兵衛といえば、土牢に閉じ込められて1年あまり、よくぞ助かったもの、でも、出てきたときにはまともに歩けなくなっていた...、というエピソードがまず有名です。
この本は、孝高(官兵衛)が信長に謀叛(むほん)した荒木村重の説得に向かったこと、摂津有岡城内に拘留されたことは事実としています。ところが、このエピソードは明治に刊行された『黒田如水』にはなく、大正5年の『黒田如水伝』に初めて出てくる話とのこと。江戸時代の書物には出ていないそうです。
天正6(1578)年11月から翌7年11月まで1年間の拘束があったことは事実。しかし、「土牢」とかではなく、それなりの処遇だったようです。この本は、「極端に劣悪な状況下で幽閉されていたとも考えにくい」としています。
そして、「3年」の幽閉によって歩行困難になっていた、脚に障がいを負ったというのは一次史料で確認できないとのこと。なーるほど、ですね。
孝高は父親が亡くなった天正13(1585)年ころ、40歳のとき、キリシタンとして洗礼をうけた。洗礼名は、ドン・シメオン。このことはルイス・フロイスのイエズス会総長あての報告書に書かれているから間違いない。
孝高が小西行長の受洗のきっかけをつくり、実際に洗礼に導いたのは高山右近と蒲生(がもう)氏郷(うじさと)だった。いやあ、これには驚きました。そして、蒲生氏郷と高山右近は、千宋易(かの千利休です)の高弟ですから、キリシタン人脈は茶道ネットワークと大きく重なっていたというわけです。これまた、知りませんでした。
孝高は慶長9(1604)年3月に、59歳で、京都の伏見で亡くなります。
辞世の句は、
思ひ置く 言の葉なして ついに行く 道は迷わじ なるにまかせて
死に臨んで達観の境地に至ったようだとされています。
死の前、息子の黒田長政に自分の遺体は博多の教会まで運んで埋葬するように頼み、教会の建築のため1千クルザードを寄付した。宣教師のロドリゲスがローマのイエズス会本部への報告書に、このように書いている。
孝高の遺体は筑前(福岡)に運ばれ、キリスト教による葬儀が行われた。もっとも、さらに20日後には、仏式による葬儀も営まれたとのこと。
秀吉は天正15(1586)年に「伴天連追放令」を発してイエズス会の布教活動を禁止した。秀吉はキリシタン大名にも棄教を迫り、これに応じなかった高山右近は居城を没収され、追放された。高山右近はフィリピンに向かったのですよね...。
孝高も秀吉の不興をかったものの、なぜか棄教を求められなかったようです。
それどころか、孝高は嫡子の長政(洗礼名はダミアン)が末弟の直之(同ミゲル)も洗礼を受けさせている。また、孝高は、豊後の大友義統(コンスタンティン)や筑後久留米城主となった小早川秀包(シモン)にも入信を勧めた。このように、高山右近が追放されたあと、孝高は国内のキリシタン勢力の中心的存在と目された。いやあ、これまた知りませんでした。
孝高40歳代の初めころは、毛利一門と深く結びついていたようです。
秀吉の二度にわたる朝鮮出兵のころ、孝高も長政とともに朝鮮に渡っていますが、秀吉の不興をかっていて、名護屋城に戻ったとき対面を許されなかったほどでした。
このとき、石田三成が孝高を恨んで秀吉に訴えたことが原因だというのは、後年になって黒田家が石田三成をおとしめるために創作した話であって、史実ではない、としています。
黒田家は、徳川将軍家にとって警戒の対象であり続けたというのは事実のようです。いずれにしても、男系、女系とも、黒田本家において、孝高の血統は早々に絶えています。
歴史を知ると、物語のように面白い話ばかりではなくなるけれど、また、史実のほうが意外だったりすることを知りました。著者は福岡県生まれの九大教授です。
(2022年9月刊。税込2640円)
2023年2月12日
江戸にラクダがやって来た
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 川添 裕 、 出版 岩波書店
江戸時代、2頭のラクダが日本にやって来て、西日本一円を巡業していたというのです。
文政4(1821)年にオランダ船に乗ってラクダがやってきた。これは、オランダ商館のカピタンから江戸の将軍家への献上品のはずだった。ところが、将軍家は献上を認めながらも出島に留め置くようにと指示した。その理由は分かりませんが、ラクダを養うことの大変さを考えてのことだったのではないでしょうか。
江戸時代の日本にラクダがやってきたのは、実は、これが3度目。ただし、1回目は将軍家光への献上品となって庶民は見物できなかった。2回目は、アメリカ船が運んできたものだったので、すぐに戻された。
江戸では3年後の文政7(1824)年8月から両国広小路でラクダの見世物が始まり、半年間も続いた。見物料(札銭)は32文。これは、歌舞伎の最安の入場料の4分の1なので、安い。つまり、庶民が楽しめた。
2頭は、5歳のオスと4歳のメス。夫婦ではなかったかもしれないが、世間は仲の良い夫婦をラクダにたとえるようになった。
ラクダを見て狂歌師たちはたくさんの句(狂歌)をつくり、また、絵師たちが写生してラクダ絵図として売り出した。
ただ、ラクダ見物は1回目こそ熱狂的に人が集まったものの、2回目は、不入り、不評となった。というのは、ヒトコブラクダは人に馴(な)れた、おとなしい動物であり、何か芸が出来るわけでもなかったから。それで、日本人が唐人風の装いをして、ラクダの周囲で太鼓を叩いたり、「かんかんのう」を歌い踊ったりして、その場を盛りあげた。
ラクダが運べるのは長距離だと160キログラム、近距離でも最大300キログラム、そして、平均的な1日行程は48キロメートル。ところが、ラクダ見物を誘うチラシには900キログラムを運べるとか、100里つまり390キロメートルも行くなどと、「白髪三千丈」式の誇張した表現がなされた。まあ、広告とは、そういうものでしょうよね、昔も今も...。
ラクダを見ることで、悪病退散の効能を庶民は期待したようです。江戸時代も、今のコロナ禍以上に何度も感染症などに襲われて、大量の死者を出していました。
それにしても、12年間もラクダが日本各地を巡業してまわっていたなんて、知りませんでした。鎖国といっても、日本人は世界への目はもっていたのですね...。
とても面白い本でした。
(2022年9月刊。税込3190円)
2023年2月13日
病原体の世界
生物
(霧山昴)
著者 旦部 幸啓 ・ 北川 善紀 、 出版 講談社ブルーバックス新書
ウィルスは、生物の特徴の一つにあげられる「細胞構造」をもたない。ウィルスは他の生物とはまったく異なる独自の感染・増殖様式をもっている。宿主となる生物の細胞に侵入し、その機能をジャックして「ウィルス生産工場」に変えてしまう。ウィルスは一度に大量の子孫をつくり出す。
ヒトの体には、いろいろなタイプの病原体や状況に対応できるよう複数の異なる仕組みが備わっていて、それらを組み合わせることで、防壁の一つを突破されても、別の防壁で食い止めるという「多段構え」になっている。
日本では1899年から1926年までの間にペスト患者が2905人発生し、うち2420人が死んだ。その後は、北里柴三郎らの尽力によって国内発生はない。
インフルエンザについて、平安時代の歴史書『日本三大実録』(862年)にあるのが最初。インフルエンザウイルスに感染すると、1~3日の潜伏期のあと、38度以上の発熱や全身倦怠感、頭痛、筋肉痛などの症状が現れる。その致死率は、世界平均で0.1%以下、日本では0.001%以下。ただし、患者が多数にのぼれば、決して軽視できない。
最近、梅毒にひそかに流行しているようです。潜伏期があるので、まさか自分が梅毒だと思わないというケースが少なくない。それに、梅毒は百面相と呼ばれるほど、症状が多様。
エイズは、これまで3200万人が死亡したと推定されている。結核、マラリアと並ぶ、世界三大感染症の一つ。しかし、今ではエイズの薬は、完全に治せなくても、進行を止めて一生発症させないようにすることができる。
大腸菌の大部分は、非病原性の無害な腸内細菌。
コロナウィルスは、2022年6月までの感染者が世界に5億4千万人をこえた(うち死亡者は633万人)。100年前のスペイン風邪に匹敵する。
ワクチンを5回接種したのにコロナ陽性になった人が身近にいます。また、PCR検査が陰性だったので帰省してきた子どもからコロナをもらった家族もいます。まことにコロナ禍は厄介な存在です。いったい、いつになったら終わるのでしょうか...。
それにしても岸田政権の「5類移行」はひどいものです。要するに、公費負担はやめる、あとは自己責任だというのです。軍事予算のほうは5年間で43兆円も使うというのに、国民の健康と生命を守るのは国の仕事ではないというのです。本当に許せない自民・公明政権です。黙って、投票所に行かなかったら、自公政権から殺されてしまいます。怒りの声を投票所に足を運んで一票であらわしましょう。
(2022年8月刊。税込1100円)
2023年2月14日
寒い国のラーゲリで父は死んだ
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 山本 顕一 、 出版 バジリコ
映画『ラーゲリより愛を込めて』には本当に心うたれました。映画の主人公・山本幡男の息子たちが戦後の日本を母親とともにどう生きてきたのかを知りたくて読みました。
山本幡男の遺書を同じラーゲリにいた仲間6人が完全に丸暗記して日本に帰り、家族に伝えるシーンは思い出すだけでも涙が出てきます。そして、その遺言の内容が、これまた泣かせます。
「子どもたちへ、君たちに会えずに死ぬことが一番悲しい。成長した姿を写真ではなく、実際に一目みたかった。.........きみたちは、どんなに辛い日があろうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するという進歩的な理想を忘れてはならぬ。偏頗で驕傲な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道にもとづく自由、博愛、幸福、正義の道を進んでくれ」
「4人の子どもたちよ、お互いに団結し、協力せよ。とくに顕一は、一番才能に恵まれているから、長男ではあるし、3人の弟妹をよく指導してくれよ」
この本の著者は、その長男です。山本幡男がシベリア送りになったとき10歳。戦後、島根県の松江高校に入り、島根県一番の成績で東大に入り、フランス文学を学びます。渡辺一夫という高名なフランス文学者に師事し、立教大学で教授として学生を教えます。ですから、客観的には父の遺書にあった「人類の文化創造に参加し」ているのですが、著者本人は、父の遺言を果たせなかったかのような思いです。
二男は東京芸大の建築科に入り、今も新建築家集団の代表として活躍しているとのこと。
三男は2浪して東大の経済学部に入り、大学院まで行ったものの、精神的な病いをかかえ、大学講師で人生を終えた。
著者と同じときの東大仏文科には、私も名前を知る人が何人もいます。まず何より、大江健三郎です。そして、高畑勲の名前があって驚きます。小中陽太郎や蓮実重彦も同じころのメンバーです。
父の山本幡男は、少年の著者にとって「まったく恐ろしい存在」、「父が家にいるだけで、絶えず緊張でビクビクしていた」。
1940年当時、32歳の若さで父は満鉄社員として、妻子をかかえるほか、母親と妹2人も同居して生活の面倒をみていた。
東京外国語大学の学生のとき、3.15で共産主義者として逮捕されて大学を中退して満州に渡り、満鉄調査部で働いていた父は、酒が入って酔いが悪く回ると、大声で軍部の悪口を言って、家族を心配させた。
家の中に神棚はないし、日の丸を掲揚することもなかったので、子どもたちを困惑させた。
そして、ついには包丁の刃を小学生である著者の首に押し当てた。いやあ、たしかに、これは怖いですね...。
山本幡男がソ連に抑留されて生きていることが初めて日本の家族に知らされたのは1947年の暮れのこと。翌1948年11月にもシベリアから帰ってきた人が生存を知らせてくれた。
そして、1952年11月に4ヶ月かかって手紙(往復葉書)が届いた。1953年5月からは1ヶ月に1回、往復葉書が届くようになった。ついに1955年4月、帰国の知らせがあったかと思うと、実は、1954年8月に死亡していたという電報が届いた。
著者の母モジミは1992年10月に83歳で死亡。
立派な父をもち、すばらしい遺書を前にして、子どもとして生きることの重圧がひしひしと伝わってくる本でもありました。
(2022年12月刊。税込1980円)
2023年2月15日
ある行旅死亡人の物語
社会
(霧山昴)
著者 武田 惇志 ・ 伊藤 亜衣 、 出版 毎日新聞出版
古ぼけた、風呂もないアパートで病死しているのが発見された74歳の一人暮らしの女性。部屋の金庫の中には、なんと現金3400万円が入っていた。しかし、本人の身元を確認できるようなものは何もない。尼崎市は、とりあえず行旅死亡人として扱うことにした。
行旅(こうりょ)死亡人とは、病気などで亡くなった人が、住所、氏名などの身元が判明しないため、引き取り人不明の死者をあらわす法律用語。死亡場所を管轄する自治体が火葬し、官報に死者の身体的特徴や発見時の状況、所持品などを掲載(公告)して、引き取り手が現われるのを待つ。
市町村別行旅死亡人数のランキングでは、あいりん地区をかかえる大阪市が一位で、市町村人口比でみると、自殺の名所・富士の樹海をかかえる山梨県鳴沢村が一位になっている。
この話の端緒(たんちょ)は遊軍記者が何か記事のネタになりそうなものはないかと、喫茶店で新聞を読んでいて見つけたもの。3400万円という大金がありながら75歳くらいの身元不明の女性とはいったいどういうことだろう...。記者の勘に訴えるものがあり、尼崎市へ電話してみると、相続財産管理人の弁護士に連絡してもらうことになった。やがて弁護士から「折り電」があった。この太田吉彦弁護士は前に久留米市で活動していました。
「この事件は、かなり面白いですよ」
年金手帳があり、労災事故にあっていることが判明していて、そしてアパートに40年も住んでいるというのに住民票は職権消除されていて、本籍地も不明なので、死亡届が出せないという。なので、相続財産管理人の弁護士は私立探偵にも依頼して調べてもらったが、結局、警察のほうでも捜査はしたようだが、これまた判明しなかった。
星形のマークのついたロケットペンダントが遺品の中にあり、韓国1000ウォン札があったことから北朝鮮とのつながりも想定された。
記者が沖宗のハンコを手がかりとして検索すると、沖宗の家系図をつくっている人がいることが判明したので、直ちにアタック。そして、広島へ現地取材。さすが記者ですね。この行動力がすごいです。
沖宗家の先祖は福岡藩士の武士ということです。
女性の部屋には大型の犬のぬいぐるみがありました。「たんくん」と名づけられていました。
サン・アロー社がつくった「サンディ」というものだと判明。ぬいぐるみは、可愛がっていないと、すぐに朽ちてしまう。でも、大切に可愛がると、30年でも40年でも保(も)つ。なーるほど、そういうものなんですね...。
そして、広島の沖宗氏より、記者へ母の妹だと連絡があったのです。すごいですね。まさしく大当たりでした。
そして、その結果、生年月日が判明すると、なんと74歳と思われていた女性は、本当は86歳だったのです。なんということでしょうか...。いくらなんでも、本人は12歳もサバを読んでいて、それがまかり通っていたとは...、信じられません。
新聞記者たちは、広島県呉市で「コミ」を始めた。「コミ」を始めた。「コミ」とは、「聞き込み」と略語。関東では警察と同じく「地取り」と呼ぶ。そして、死亡人の生家や同級生にもたどり着いたのでした。
結局、北朝鮮とも犯罪とも無縁だろうということになり、何らかの事情で、人づきあいを絶ち、現金を貯めながらも一人暮らしをしているうちに86歳で病死したということのようです。
いろんな人生があるのだと実感させられるルポタージュでした。電車のなかで一気に読み上げました。だって、いったい、このあとの展開はどうなるのか、知りたかったものですから...。
(2023年1月刊。税込1760円)
2023年2月16日
シベリア抑留秘史
ロシア
(霧山昴)
著者 ロシア最高軍事検察庁 、 出版 終戦史料館出版部
元日本兵60万人がシベリアに抑留され、その1割が死亡するという悲惨なシベリア抑留は、スターリンが北海道の北半分を占領することを求めたのに対して、アメリカのトルーマン大統領が拒絶したので、その代わりとしてバタバタと決まって実行されたという説があることを最近、初めて知りました。でも、私は懐疑的です。
8月16日、日本軍(関東軍)総司令官山田乙三大将と停戦交渉にあたっていたソ連軍のワシレフスキー元帥に対して「日本軍の捕虜のソ連領への移送は行わない」などとする指示がモスクワから来ていた。モスクワというのはスターリンの指示です。
同日、スターリンはトルーマン大統領に対して北海道の北部(釧路と留萌を結ぶ線より北側)をソ連軍が占領することを認めるよう求めた。しかし、トルーマンは8月18日、千島列島についてはソ連領とすることは認めつつ、北海道北半分の占領は拒否した。
8月20日、モスクワはワシレフスキー元帥に対して北海道への上陸・占領作戦を準備するよう指示した。この指示には、同時に、「本部の特別司令によってのみ開始すること」という条件がついていて、その特別司令は結局、発されることはなかった。
8月23日、スターリンは、強い口調で不満を表明したが、結局、北海道上陸は断念した。
この本は、以上の経緯を明らかにして、「北海道占領の断念が転じて捕虜の(シベリア)強制抑留に連なった」としています。
しかし、私は、この説には賛同できません。なぜなら、すでにスターリンはドイツ軍捕虜300万人をソ連領内の都市の復興に「活用」していた実績があるからです。シベリアを含む極東の都市等の再生に日本兵捕虜を「活用」することは、スターリンが北海道北半分を占領してかかえこむことになる「苦労」よりはるかに上回るメリットがあることは明らかです。「シベリア抑留」と「北海道北半分の占領」とをスターリンが天秤に考えていたなんて、私からすると、あまりに非現実的です。
この本には瀬島龍三という戦後日本で大きな役割を果たした人物、ソ連のスパイになったのではないかと疑われている人物について、好意的に紹介しています。
また、近衛文麿首相の長男である近衛文隆の死亡に至る経緯も明らかにしています。
1992年9月に発行された本を古書として求めました。
(1992年9月刊。税込3000円)
2023年2月17日
満州難民、祖国はありや
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 坂本 龍彦 、 出版 岩波書店
いま、中国脅威論がしきりに叫び立てられています。それに備えて、石垣島などの諸島に自衛隊が大増強され、莫大な軍事費が投下されつつあります。
しかし、少し頭を冷やして考えてみてください。石垣島そして沖縄に住んでいる人々は、中国軍と自衛隊が戦闘状態になったとき、どうしたらよいのでしょうか。全員が逃げられるはずは、それこそ絶対にありえません。民間人を乗せた飛行機は飛ぶはずがなく、船だって海上をいくら速く走っていてもミサイル攻撃されたら撃沈してしまいます。いえいえ、飛行機にも船にも、ほとんどの住民は乗れるはずがないのです。ミサイル避難訓練のとき、机の下に潜っている光景がありました。戦前の消火バケツリレーと同じで、気休めにもなりません。戦場になったら、ほとんど全員が座して死を待つしかないのです。ミサイルは一本だけ飛んで来るなんてことはありません。戦争になるのです。
政治は、私たちが支払う税金は、そうならないために使われるべきです。戦争が始まってからでは遅いのです。シェルターを買おう、売りつけようという人たちがいます。どこに地下室をつくるのですか...。水や食料はどうするのですか...。日本の自給率はとっくに半分以下です。海上封鎖されたら、日本人は食べるものがなくなり、飢餓が待っているだけです。タワーマンションの人々はどうなりますか...。電気も水もあるのがあたりまえ。でも、日本のどこかで戦争が始まったとき、すぐに電気も水も止まってしまうでしょう。タワーマンションで生活しながら自民・公明政権を支持し、維新を支持して軍備拡張策に賛成するということは、明日の生活と生命の保障を喪うことを意味しているということに一刻も早く気がついてほしいと私は切に願います。
その典型的な見本が、戦前の満州に開拓団として移住した日本人のたどった運命です。満州の開拓団に渡った日本人は三度も日本(国)に捨てられた。一度目は、ソ連軍が8月9日に進攻してきたとき、関東軍は張り子の虎になっていて守ってくれないどころか、真っ先に逃げ出していた。二度目は、引き揚げのとき、対策は不十分だったし、中断したりして捨てられた。多くの日本人が帰国できずに残留孤児となった。三度目は、なんとか日本に帰国しても、生活の保障がなく総合的な対策も援護措置もなく見捨てらえた。
開拓団の応募者が減って確保できなくなると、世間知らずの純真な青少年をおだてあげて満蒙開拓青少年義勇軍という勇ましい名前をつけてソ連との国境地帯に送り込みました。あまりに過酷な生活環境のなかで、軍隊式の上命下服そして指導者の無能と腐敗のもとで、虫ケラ同然に扱われ、それに反発した青少年の反抗、抗争そして暴走が頻発したのでした。見るに耐えない惨状です。あげくに一部は徴兵され、また、残りはソ連軍の進攻下での辛い逃亡生活を余儀なくされたのです。悲惨すぎます。
軍隊は「国」を守るものであって、国民を守るものではない。しかし、ほとんどの国民は最後の最後までそのことに無知のまま幻想を抱いている。終戦時に起きた満州難民は決して昔の話ではなく、下手すると、今、これから起きることなのです。クワバラ、クワバラ...です。
(1995年74月刊。税込1000円)
2023年2月18日
青年家康
日本史(戦国)
(霧山昴)
著者 柴 裕之 、 出版 角川選書
NHKの大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当している著者による本です。
家康はその少年時代、今川氏の人質としてみじめな日々を余儀なくされていたという通説を真向から否定しています。
家康(竹千代)は6歳のとき、織田信秀へ人質として差し出された。そして、今川軍が織田勢を攻めたて、城将の織田信広を捕まえ、竹千代と交換することになり、家康は今川氏の本拠地である駿府で過ごすこととなった。
竹千代が岡崎松平家の当主であったことから、今川義元は、駿府で竹千代を庇護することによって、松平家の上に君臨する上位権力者としての正統性を得た。
今川義元は岡崎の松平家を解体して、岡崎を直轄領地とはせず、今川氏の政治的後見と軍事的な安全保障のもとに、松平家重臣による政治運営のもとで岡崎領の支配をまかせていた。
駿府での家康(竹千代)の生活は、今川義元の師でもあった太原崇孚により学問の師事を得たというように、義元の庇護のもとで大事に養育されて過ごしていた。それは決して苦難の人質時代、忍耐と惨めなイメージで語られるような日々ではなかった。
すなわち、家康は単なる人質ではなかった。それは、すでに西三河の有力な従属国衆である岡崎松平家の当主であったことによる。
竹千代が14歳になって元服したとき「元信」と名乗ったのは、今川義元の「元」の1字をもらったものであり、これによって元服した家康(元信)が今川家の政治的、軍事的な保護を得た従属国衆・岡崎松平家の当主であることを世間に確認させた。
今川義元は桶狭間で敗死したとき、42歳だった。そのあと、家康は織田信長とも手を結んだのでした。それは義元亡きあとの今川家とはキッパリ縁を切って、むしろ敵対し、抗争することを選んだとうことです。今川家が力をなくしたことによる選択でした。
さあ、家康どうする、とても考えさせられるタイトルですよね。
(2022年9月刊。税込1870円)
1月に受けたフランス語検定試験(準1級)の合格証書が送られてきました。待ちに待った証書です。合格基準店23点のところ、28点でした。実際には、思うように話せず、冷や汗をかいたのですが...。
なぜ、諸外国ではデモもストライキもやっているのに、日本はストライキをやらないのかと尋ねられました。みなさんだったら、何と答えますか?そして、それをフランス語で、どう表現しますか。とつとつと答えてしまいました。それでも、頭のほうは少し若返りました(と思っています)。
2023年2月19日
読切り・三国志
中国
(霧山昴)
著者 井波 律子 、 出版 潮文庫
「三国志」と「三国演義」と二つあるうちの史実を中心とする「三国志」をベースとしながら、小説の「三国演義」にも目を向けて話を補足した本です。
「三国志」の世界は、後漢王朝(25~220年)が乱れたところに始まる。
後漢王朝は皇后の一族である外威と、後宮(ハーレム)を支配し、皇帝に近侍する宦官(かんがん)との争いに明け暮れた。そして、黄巾(こうきん)の乱れが起こり、董卓の乱となり、そのあと、群雄割拠の時代となった。
「三国演義」は小説として、蜀を正統視し、劉備を正義派・善玉に、曹操を敵(かたき)役、悪玉に仕立てあげた。私にも、それは、すっかり刷り込まれています。
ところが、この本では曹操について、権謀術数に長(た)けていたが、決して邪悪の権化というような単なる悪玉ではない、超一流の軍事家であり、政治家であり、おまけにすぐれた詩人だったとしています。そして、劉備や孫権とは段ちがいの傑物だと高く評価しています。これでは、考え直さないといけませんね...。
曹操の周囲には、強力な頭脳集団、ブレーンが存在し、曹操のほうも彼らの意見に真剣に耳を傾けた。
劉備は曹操より7歳下。劉備は勉強嫌いで、派手な服装を身につけ、堂々たる風格の持ち主だった。
曹操が大胆かつ豪快な性格、切れ味鋭い頭脳の冴えとうらはらに風采のあがらない貧相な小男だったのに対して、劉備は身長180センチ、目立つ偉丈夫だった。ひと目見るなり、人を惹きつける魅力があった。
劉備は、謙虚な人柄で、人によくへりくだり、口数は少なく、喜怒哀楽を表に出すことがなかった。天下の豪傑を好んで交わり、大勢の若者が競って劉備に近づいた。周囲の人物を奮起させ、輝かせる不思議な力が劉備にはあった。関羽や張飛という荒くれ武者が劉備のために死力を尽くしたのは、劉備の人柄の魅力だろう。
元はワラジ売りだった劉備がのしあがっていく過程においては、右往左往し、戦いに明け暮れる日々があった。
関羽は忠義一徹、一度たりとも信義に違うことはなかた。関羽も張飛も、いつどんな状況になっても、主君である劉備との間に、決して裏切ったり、裏切られたりすることのない、絶対的な信頼関係が成り立っていた。
そうなんです。ここに「三国志」の大きな人気の秘密があると私は思います。
私は小学生のころは、図書室で世界の偉人の伝記に読みふけりました。中学生のころは山岡荘八の『徳川家康』に没頭しました。そのころ、同じく『水滸伝』と『三国演義』の世界にはまったように思います。読書に楽しさ、深さをじっくり堪能し、以来、今日に至ります。
昨年1年間で読んだ単行本は440冊です。コロナ禍前の年間500冊には達しませんでしたが、これは、ZOOMのせいです。こちらは出張したくても、来るな、行くなというプレッシャーがかかって身動きとれませんでした。移動の車中・機中を主とする読書タイムを確保できなかったのです。今ようやく少しずつ本調子に戻りつつあるところです。
関羽は、単純明快、何の駆け引きもなく、うらやむべき健康な精神をもっている。同世代の人間が関羽にやっかんだのも、ある意味では当然のこと。ところが関羽は、商人の信仰の対象になった。不思議なことです。ないものに憧れるということなのでしょうか...。久しぶりに中国の古典の世界に没入して、楽しむことができました。ありがとうございました。
(2022年8月刊。税込1210円)
2023年2月20日
へんてこな生き物
生物
(霧山昴)
著者 川端 裕人 、 出版 中公新書ラクレ
カラー版なので、カラー写真がたくさんあって、見ても楽しい新書版の生き物図鑑です。
哺乳類なのに、花の蜜と花粉しか食べない小動物のハニーポッサムは、花の中に突っ込む長い「クチバシ」をもった不思議な格好をしている。
ハリモグラは、モグラの仲間ではない。卵を産んで、母乳で育てる。赤ちゃんは、母親の腹の袋の中で守られながら、母親のお腹からにじみ出る母乳をなめるようにして飲んで成長する。ハリモグラにはREM睡眠が観測されないので、夢を見ない(はず)。
ヒロバナジェントルキツネザルは竹を主食にしている。パンダみたいですね。食事の9割以上が竹。この竹は有毒なシアン(青酸)化合物を非常にふくみ、そのうえ猛烈に苦い。なので、地元民は絶対に、この竹は食べない。なのに、このキツネザルは美味しそうにかじる。哺乳類の平均的な致死量の50倍近いシアン化合物を消化できる、つまり毒を分解する腸内細菌をもっているようだ。
屋久島にすむヤクシマザルは本土のニホンザルより一回り体が小さく、ずんぐりしている。
ヤクシカはいつもサルの群れの近くにいる。サルが樹上で果物や葉を食べるとき、枝ごと落としてしまうことがある。また、サルの糞もシカが食べる。なので、いつも一緒に行動している。
チンパンジーは、常時、にぎやかだ。騒々しい大型類人猿だ。
テングザルは、他の動物が好むであろう糖分の多い、熟した果実はあえて避けている。
ジンベエザメは、サメと言っても、プランクトンを主食とする「優しい巨人」。人を傷つけたという話はない。
アマゾンマナティーは、アマゾン川の固有種で、植物だけを食べる。
カカポは、世界唯一の飛べない鳥。
ミナミシロアホウドリは体重が9キロもある。威風堂々で、気品あふれる鳥だ。
サバクトビバッタは、その研究者である前野ウルド浩太郎が詳しい。『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書)は、まことに面白い本なので、読んでいない人には超おすすめの本です。
いやあ面白い本でした。世の中には、こんな奇妙奇天烈な生き物がたくさんいるのですね...。
(2022年8月刊。税込1320円)
2023年2月21日
北アイルランド総合教育学校紀行
イギリス
(霧山昴)
著者 姜 淳媛 、 出版 明石書店
同じキリスト教を信仰しているはずなのに、しかも同じ民族なのにカトリックとプロテスタントで殺し合うという状況が生まれるのは、とても私には理解できないところです。ともかく、北アイルランドでは1970年代まで暴力とテロが横行していました。私もいくつか映画をみて、その悲惨な状況を少しだけ察していました。この本は、そんな殺し合いの状況を抜本的に変えるため、子どものころに両派を混ぜこぜにして教育し、交流体験によって争う必要なんて何もないことを実感させようという取り組みがすすめられていることを、韓国人の学者が現地に出向いて視察してきたのをレポートしたものです。
北アイランドでは1970年代から2000年ころまで、武力的対立があり、それは軍人や民兵団だけでなく、年寄りも子どもも区別なく攻撃の対象となった。そして暴力的テロは、公共の場所、街路、民家を問わず、いつでもどこでも起きた。
アイルランドの人口350万人のうち96%がカトリックで、北アイルランドでは120万人のうち40%未満がカトリック。暴力的テロの犯人たちを逮捕して刑務所に送っても、そこがさらに暴力の温床になる。
北アイルランドは、内戦に近い激しい試練の時期が続き、死傷者は15万人を超える。人口150万人のうち1割が紛争の犠牲になった。
北アイルランドでは40%がイギリスの市民権を、25%がアイルランド市民権、そして21%が北アイルランド市民権を取得している。その他の市民権は15%に近い。
ベルファストの西側は、住民の9割がカトリックで、南側は8割がプロテスタントというように、住居地も分割されている。
カトリックとプロテスタントを対話への道に導いたのは「コリミーラ」という市民団体だった。このような北アイルランドの平和を志向して活動する団体に対して、2回もノーベル平和賞が授与された。
北アイルランドでは、名前を聴くだけで、「あの人はアイルランド人だな」、「この人はブリトン人だ」ということが分かる。スポーツ、歌、食べ物が、すべて宗派分離主義文化の色に染まっている。だから、互いに共存できる統合教育が切実であり、これは早ければ早いほど、いい。それは、そうでしょうね。
統合学校が原則をきちんと守って成功し、それを拡散し、全社会に適用して初めて北アイルランドが健やかに生き返る。常に子どもたちを尊重する。それによって、学力伸長の問題は事前に解決する。自身が欲する方向へ成功する可能性を高めるためのロードマップを一緒に創るので、生徒たちは一人でなく、教員たちも生徒たちの成功を通じて自分の成就感を味わう。
統合学校のひとつ、シムナ校では、生徒指導のひとつは体罰禁止、放課後の居残り禁止、罰として宿題を与えることの禁止、休み時間や昼食時間の取り上げの禁止というものも定められた。いやぁ、いいことですよね。
テロで息子や娘を喪った親が平和と和解運動に立ち上がったのでした。そして、その取り組みのひとつが、統合教育をすすめる学校づくりだったのです。たとえば、エニスキレン校では、子どもの宗派構成は、カトリック44%、プロテスタント42%、その他16%となっている。一つの宗派が50%を超えないように配慮している。子どもたちが、自らコントロールすることができる能力をもつようになると、学力が事前に向上した。学校の成績が上がると、多くの待機者が入学順番を待つようになり、定員も次第に増えていった。
アイルランドでは11歳のとき選抜試験を受けさせるシステムがあるようです。これに落ちた子は11歳で早々に社会的落伍感を味わされることになります。11歳というと、小学5、6年生ですから、その時点で進路を選択させるというのは、少し酷すぎますよね。
そして、北アイルランドでは、学校に教科書がなく、自分の授業は教師が自分で開発し実践するもののようです。これまた、たいしたものです。日本のように文科省検定の教科書がないというのにも驚きました。
かつて暴力と混乱の社会だった北アイルランドは、今ではEU内でも安定的な社会として認められているとのこと。そして、カトリックとプロテスタントだけでなく、10%を超える移民集団も国内には存在する多文化社会になっているとのこと。
統合教育は、単一の教育の場で多様な教授法を通じて子供たちが自身の社会的アイデンティティを形成していけるようにすることであり、究極的に現在の社会の争いのある状況を克服し、態度の変化と、許し、そして和解をすることができるように教育しようとするもの。
統合学校出身の人は、ほかの文化的な背景を持った人たちに対する接し方をうまく習得すると同時に、カトリックとプロテスタントのあいだの否定的固定観念もほとんどなく、対立する集団との意思疎通に対する認識も肯定的になる。
このように、統合教育は、ユネスコをはじめとする国際社会が追及している民主的包容性を志向する教育を実現している。統合教育は、北アイルランドに京の平和と和解をつなげてくれる橋になっている。
大阪の渡辺和恵弁護士の実姉である米沢清恵さんが翻訳した本です。2月半ば、事務所にいて待ち時間ができたので、420頁あまりの大部な本ですが、論文集ではなく、ルポルタージュ中心なので、一気に読了することができました。ありがとうございました。
暴力によって分断された社会を統合するには、子どもたちの力を借りる、そのために統合教育が有効だということを実感することのできる本でした。大変勉強になりました。
(2023年2月刊。3700円+税)
2023年2月22日
クレムリン秘密文書は語る
ロシア
(霧山昴)
著者 名越 健郎 、 出版 中公新書
ソ連がなくなったのが1991年ですから、もう32年にもなります。ソ連時代の秘密文書が公開されて、だんだん歴史の真実が明らかになってきました。
私が1995年3月に発行された本書を読んだのは、元日本兵のシベリア抑留に関連して、その真相を知りたいと思ったからです。
スターリンの極秘指令によりソ連が元日本兵をシベリアに送って強制労働させたのは、北海道の北半分をソ連が占領することをスターリンがアメリカのトルーマン大統領に提案したのをトルーマンが拒絶したので、その腹いせに元日本兵をシベリアに送ることにしたという仮説(有力説という表現もあります)があるのです。
6月26日、クレムリンで対日参戦問題をめぐる重要会議が開かれた。このとき、メレツコフ第一極東方面軍司令官が北海道占領を提案し、フルシチョフが支持した。モロトフ外相やジューコフ元帥は反対。ジューコフ元帥は北海道を占領するなら、戦車と大砲を完全充足した4個師団が必要だとスターリンに説明した。
スターリンは8月9日の満州進攻作戦の直前、北海道北半分の占領に備えて4個師団を北海道に投入する計画を策定したうえで、8月16日付の書簡で、トルーマン米大統領に北海道北半分の占領を認めるよう要求し、同時にサハリン南部に対して北海道上陸の出発準備をするよう通達した。しかし、8月25日にサハリン南部の解放(占領)が終了したあとも、北海道上陸作戦の出動命令は出されなかった。
このように、ソ連軍が北海道北半分の占領を目ざして準備し、進攻しようとしたのは事実のようです。もし、そうなったら、朝鮮半島で起きた紛争、とりわけ朝鮮戦争のような事態が北海道で起きたかもしれません。ぞぞっとしますよね...。
しかし、ソ連の国防委員会が8月22、23日に開かれ、元日本兵のシベリア抑留が決められた。8月16日の時点では、満州に19の収容所が設営され、そこに武装解除された元日本兵が集められて、そこから日本に送還する予定だった。それが1週間後の8月23日にシベリア抑留が決定された。
しかしながら、スターリンの極秘指令文書をみると、ソ連への全10地域47収容地を列挙し、投入する人数から移送・収用条件まで綿密に描かれていて、ソ連当局はかなり前から元日本兵の抑留と強制労働を決め、周到な準備をすすめていた。
私も「1週間で大転換があった」という説には乗りません。というのも、元ドイツ兵の捕虜を100万人以上も使役してソ連の都市の復興に役立たせていたわけなので、それをスターリンが知らない、忘れていた、なんてということは考えられないからです。
歴史の真実を知るのは容易なことではないことが、しっかり伝わってくる本でした。
(1995年3月刊。税込720円)
2023年2月23日
平安貴族サバイバル
日本史(平安時代)
(霧山昴)
著者 木村 朗子 、 出版 笠間書院
摂関政治とは、藤原氏が権力の中枢を牛耳る体制のこと。この体制は2百数十年も続いた。
『枕草子』や『源氏物語』が書かれたころは、藤原摂関家が政界を席巻し、同母腹の兄弟間での権力争いがくりひろげられていた。
平安宮廷社会は、権力奪取をめぐる熾烈(しれつ)な闘争の場だった。ただし、権力者は天皇の位をめぐって争っていたのではない。天皇は権力者ではなかった。天皇の後ろ盾となる摂政・関白の座をめぐって争っていた。
天皇の後見である摂政・関白は、天皇の外祖父であることを根拠とした。
天皇の寵愛(ちょうあい)を受け、妊娠し、しかも男子を産むというのは、賭博に等しい。
天皇の愛情を勝ちとるためにサロンには、教養才気あふれる女房たちを集めた。
大学寮は男だけのものだったので、女たちの才芸は家庭の教育によって形成される。
「女にて見たてまつらまほし」
これは、あまりに素敵な男性に対する褒(ほ)め言葉。女にしてみてみたいほど美しいということ。『源氏物語』のなかに何度も出てくるとのこと。知りませんでした...。
髭(ひげ)づら、日焼け肌は醜男(ぶおとこ)。
上流貴族は、昼日中に出かけることはめったにないから、日焼けしようもない。日焼けしているというのは、身分の低さを示している。
美の基準は女性性にあった。風流人たる帝の遊びに機知をもって応えられる必要があった。宮廷サロンの女房たちは、少なくとも漢詩と漢文で書かれた歴史を学んでいた。
紫式部は漢学者の娘。清少納言も紫式部も、学問の力で自立する女性だった。貴族の女性は、結婚していても、子が生まれても働いていた。天皇家に入内(じゅだい)するというのは、実際には宮中で働く一員になること。
天皇の母は女院と呼ばれた。この地位の創出は、藤原摂関家を確立するための、とんでもない戦略だった。
藤原氏は、一介の臣下の階級にありながら、天皇の妻の座、母の座を獲得したことで、いわば天皇そのものになってしまう方法だった。そして、この位は、もっぱら藤原氏の娘によって支配されていた。
平安時代、女たちは、夫以外の別の男と会うことができた。一夫多妻は一妻多夫でもあった。
貴族の女性たちの実態に改めて目が大きく開かされる本でした。
(2022年9月刊。税込1650円)
2023年2月24日
満蒙開拓、夢はるかなり(上)
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 牧 久 、 出版 ウエッジ
茨城県水戸市に「日本農業実践学園」があるそうです。全寮制で、学生数は全体で100人ほど。戦前の満州に満蒙開拓青少年義勇軍を送り出すのに大きく貢献した加藤完治の孫が学園長(六代目)をつとめている。
戦前、加藤完治は「満州開拓の父」と崇(あが)められていたのが、戦後になると一転して、「中国侵略のお先棒を担(かつ)ぎ、侵略の先兵を育てて満州に送り込んだ」と厳しく糾弾された。しかし、本当に侵略軍だったのかと、反論したいようです。
でも、青少年義勇軍の実態についてのレポートを読むと、そこに参加した青少年たちが、いろんな意味で虐待されたこと、内部ではリンチがひどく、外部に向かっては乱暴・狼藉がひどく、あげくの果てにソ連軍進攻のなかで多くの犠牲者を出しているという現実から目をそらすわけにはいきません。「侵略の先兵」となった青少年は哀れな犠牲者でもあったというのは事実でしょう。すると、それをあおって推進した加藤完治の責任はきわめて重要であることは明らかでしょう。決して美化できるはずはありません。
この本を読んで、昭和14(1939)年6月7日、明治神宮外苑競技場で2万人を集めて満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会が盛大に開かれたことを知りました。主催したのは、なんと朝日新聞社です。朝日新聞社は戦前、戦争賛美のキャンペーンを張っていました(他の新聞もみな同じですが...)。この点も朝日新聞社は戦後、反省しているのでしょうか...。これは、学徒出陣式よりも前のことです。
満蒙開拓青少年義勇軍を加藤完治とともに強力に推進していた東宮(とうみや)鉄男(かねお)は、張作霖爆殺事件の実行犯のリーダーでもあった。そして、1937年11月に第二次上海事変後の杭州上陸作戦のなかで戦死した(中佐から死後、大佐に昇進)。
この本は、青少年義勇軍に参加した青少年たちが、貧農出身なので、大きな夢と希望を抱いて満州に渡ったことから、「彼らの思いや志まで、すべて一括(くく)りにして日本帝国主義の侵略行為として非難できるのだろうか」と問いかけています。
そこには、明らかに論理のすりかえがあります。貧しい青少年の「思いや志」をうまく利用して過酷きわまりない農場へ送り込み、何らフォローすることもなく、ソ連軍進攻の矢面(やおもて)に立たせてしまった軍部や当局を免罪することが許されるはずはありません。
満蒙開拓移民がもてはやされたのは、1930(昭和5)年ころ、日本には失業者が150万人もいて、悲惨な状況にあったからです。
日本全国の都市や農場に失業者があふれ、その日の食事にも事欠く国民の不安や不満が頂点に達しようとしている中で、満州事変は勃発した。多くの国民が、そんな状況で、戦争を待ち望んでいた。
満州国が建国された1932(昭和7)年は、日本経済が悪化の一途をたどり、貧困問題が拡大し、地方や農村の荒廃はひどく、出口の見えないくらい雰囲気が社会全体を覆っていた。
下巻では、加藤完治らの責任が明らかにされることを願います。
(2015年7月刊。税込1760円)
2023年2月25日
イノチのウチガワ
生物
(霧山昴)
著者 ヤン・パウル・スクッテン、アリー・ファン・ト・リート 、 出版 実業之日本社
通常のX線よりも波長が長く、透過性が弱いため、骨などの硬い物質ではない、ちょっとした薄い皮膚でもうつるものを軟X線という。この軟X線撮影装置で撮った生物の写真。これまでのX線では採れなかった貴重な写真が満載です。
要するに、生物のウチガワをうつし出すのですから、すごいものです。コンピューターで調整せず、歯も骨も、そっくりそのままの姿で撮られています。
X線写真の撮影では、照射するX線量を調整する。照射線量が多いほど、X線は簡単に物を透過する。硬い物質のX線写真を撮りたいときには、照射線量を多くする。柔らかい物質や薄い物質を撮るには少ない量で足りる。
サソリは、クモに近い節足動物。クモの脚は8本だが、サソリも実は同じで8本、前の大きな「はさみ」は、実はあごから伸びた触覚(触肢)。
トンボには超強力な胸筋がある。これを使って、4枚の翅をそれぞれ個別に動かせるので、空中でどんな曲芸も演じることができる。そして、あらゆる飛び方をするあいだ、まっすぐなしっぽでバランスをとっている。一匹の大きなトンボは、1日で数百匹の蚊を食べている。
イモムシがチョウになるとき、羽化のあと、翅脈の管に体液がたくさん送られてチョウの翅をぴんとさせる。
タツノオトシゴは、食べた物を蓄える胃がない。食べたものは、そのまま腸へ向かう。タツノオトシゴは、小さな口で吸いこむだけ。常に食べていないと、十分なエネルギーが得られなくなる。
カメは、新陳代謝がものすごく低い。新しい細胞をつくり出すのに必要なエネルギー消費が少ない。
セキレイ(鳥)の骨はストローに似ていて、重さもほとんどストロー並み。中身はほとんどスカスカの状態。
鳥は腕の筋肉はほとんど使わず、胸筋を使って胸をはって飛んでいる。
コウモリは骨を細くすることで、できるだけ体を軽くしている。コウモリの翼は、手のひらが大きく進化したもの。コウモリの4本の指は非常に長く、親指だけが短い。
ノウサギとアナウサギは似ているが、少し違う。ノウサギは単独で暮らし、アナウサギは群れで暮らす。ノウサギはくぼみで、アナウサギは地中の巣穴で眠る。
モグラの手の指は各5本ずつのあと、6本目がある。
メンフクロウが実はやせた生き物であること、マルハナバチがくたびれた細い腰をもち、コウモリが大きな両手を使って飛ぶこと、シタビラメの全身の骨は、まるで芸術作品のよう。命の内側がこんなに本当は美しいのですね...。貴重な、未知のものへ誘(いざな)ってくれる大判の生物写真集です。
(2022年12月刊。税込2860円)
2023年2月26日
ボワソナード
日本史(明治)
(霧山昴)
著者 池田 眞朗 、 出版 山川出版社
「日本民法の父」だと私は思っていましたが、この本では「日本近代法の父」としています。
ボワソナード(当時48歳)が日本にやって来たのは1873年(明治6)年11月15日のこと。ボワソナードは、パリ法科大学のアグレジェ(正教授登用を待つ身分)だった。
日本でのボワソナードの活躍は、「法曹界の団十郎」と呼ばれるほどのものだった。
ボワソナードは次の三つの分野で日本に大きく貢献した。その一は、民法、刑法、刑事訴訟法(治罪法)の編纂(へんさん)。その二は、法学教育への貢献。その三は、外交交渉や条約改正への貢献。
ボワソナードは旧民法のうち、財産法の部分を起草したが、家族法は日本人が起草した。
旧民法典は1890(明治23)年に公布されたものの、施行はされなかった。しかし、日本人起草委員が集成して明治民法典が成立した。
ボワソナードは東京法学校(今の法政大学)でも講義していて、現在、法政大学にはボワソナード・タワーが建っている。
ボワソナードは来日してから、日本で拷問が続いているのを知ると、拷問廃止を政府に建白した。やがて拷問は少なくとも表向きは廃止されました。
ボワソナードは治罪法を起草し、施行されたが、草案では陪審制を提案していた。治罪法では、代言人による刑事弁護制度が確立した。
ボワソナードは大久保利通から信頼されていた。しかし、大久保利通は1878(明治11)年5月、暗殺された(享年47歳)。
ボワソナードが起草した民法典において、たとえば時効については援用することを要するとしたり、自然債務の規定を置いたことが注目される。また、売買契約における善意・悪意(ここでは道徳的意味は有しない)という概念も導入した。
ボワソナードは講義は下手で、社交的でもない。政治力とも無縁で、書斎にこもって研究を続けるタイプの人間。
旧民法典に対して、「民法出でて、忠孝亡(ほろ)ぶ」などという攻撃が加えられた。しかし、これは、観念論そのものの非難でしかなかった。
「フランス型のボワソナード旧民法典は葬り去られ、ドイツ型の明治民法典が制定された」という通説は正しくない。個々の民法の条文には、フランス民法系の旧民法典の規定が多数残っている。すなわち、ボワソナードの影響は今に残っている。
結局、フランス民法典とドイツ民法(草案)の影響は、ほぼ半々という評価が今日では定着している。たとえば、債権譲渡など、フランス民法型の規定の影響が優位である。
ボワソナードの旧民法典起草作業は、決して無に帰したのではない。
最近、配偶者居住権が新設されたが、これは130年ぶりのボワソナードの復権といえる。
ボワソナードは在日22年に及び、死ぬ前年に勲一等旭日大勲章を受けている。
日本におけるボワソナードの影響力の強さを再認識させられました。
(2022年3月刊。税込880円)
2023年2月27日
動物のペニスから学ぶ人生の教訓
生物
(霧山昴)
著者 エミリー・ウィリンガム 、 出版 作品社
オーストラリアのヤブツカツクリはペニスが非挿入性であるにもかかわらず、複数のパートナーと分け隔てなく交尾する。ペニスを持たないオーストラリアツカツクリは忠実に一夫一婦制を貫く。
挿入器を持ち、父親が熱心にヒナの世話をするダチョウやエミューは巣内に不義の子のいる割合が高く、育てているヒナの半数以上は、オスと血がつながっていない。
何が原則で、何が例外なのか、勘違いしないように...。
陰茎骨は、脊髄動物の歴史上、もっとも謎に包まれた骨のひとつだ。
マルミミゾウの求愛に関する観察によると、オスはメスを「愛撫」したあと、鼻を交差させ、先端をお互いの口の中に入れる。交尾の前に、オスはメスの協力のもと、メスの検体の化学検査をする。交尾が終わると、群れのほかにメンバーが周りを取り囲み、おのおのオスとメスから「検体採取」をして、幸せなカップルの交尾を祝う。ゾウにとって、情交は集団全体で育(はぐく)むもの。
ゾウアザラシのメスは、オス同士の闘争をけしかけ、配偶相手の候補者をふるいにかけ、選択している。
古代ギリシャでは、ペニスは小さく、きゃしゃであるのが良いとされた。大きく太いペニスは野蛮で、奴隷や未開人の特徴であり、ギリシャ人にはふさわしくないとされた。
著者は学者であると同時に、妻であり、母親でもあります。
「3人の息子たちと夫は、私のヒーローだ。生殖器づくしのこの本を私が芝居かかった調子で読みあげ、衝動の赴くままにダジャレを連発するのを、品よく我慢してくれた」と、あとがきに記しています。このように女性が男性のシンボルであるペニスについて研究して発表した本なのです。なので、とてもユニークな視点に満ちみちています。
(2022年8月刊。税込2970円)
2023年2月28日
カルトの花嫁
社会
(霧山昴)
著者 冠木 結心 、 出版 合同出版
統一協会(教会ではありません)の信者になったカルト二世の体験記です。その壮絶というべき悲惨な体験談を読むと、かけるべき言葉が見つかりませんでした。
集団結婚式で韓国の男性と2度も結婚し、DV夫と甲斐性のない夫とのあいだで子どもをもうけます。何しろ、韓国では統一協会の信者勧誘のチラシの見出しは「結婚できます」、そして日本の賢い女性と結婚できるというのです。信仰しているふりをした男性が信者として結婚の相手になります。その男性を信仰の力で変えようとします。もちろん、そんなことができるわけもありません。貧しい山村の掘っ立て小屋、風呂どころか便所もないようなところに幼い子どもと住んで生活するのです。いやはや、信仰とは恐ろしいものです。
著者が目が覚めて統一協会と縁を切るようになったのは、教祖の文鮮明が肺炎にかかって、あっけなく死んだことからです。文鮮明が死んだのは2012年9月3日。不死身、神に守られているはずの「メシア」が、いともあっけなく肺炎で死んだのを知り、激しく動揺したのです。文鮮明はメシアなどではなく、ただの人間だった...。これを境に、洗脳は解けていった。
幼いころから信じていた絶対なるものが偽りであると分かったときの恐怖。受け入れがたい苦痛であると同時に、今までの人生をも否定しなければならない、それまでの人生が「無」になってしまうような恐ろしさがある。この瞬間を受け入れるには、とてつもない勇気がいる。いやぁ、本当にそうだろうと思います。これは大変なことだと察します。
親の力を借りなければ生きていけない年齢の子どもからしたら、それを拒否することは、生死にかかわる大問題だ。親から愛されたい、親の願いをかなえたい、そう思うのは当然のこと。宗教二世の子どもたちは、親からの愛情を求めてカルトを選択するしかない。高校生のころは、自分のすべてを犠牲にして信者となった母の言うことを聞いてあげることが、美徳であり、親孝行であると勘違いしていた。ずっと「良い子」を演じていた。
合同結婚式の前に、文鮮明は「日本人には、選民であるうら若き韓国の乙女を従軍慰安婦として苦しめた過去の罪があるため、韓国の乞食と結婚させられたとしても感謝しなければならない」と言った。選ばれた著者の結婚相手が、まさしく、そのような人物だったのです。著者は統一協会の信者時代をふり返って、こう書いています。「私は、ちょっとやそっとのことでは驚かなくなっていた。わざと心を鈍感にすることで、自分の精神が崩壊するのを防いでいた」。うむむ、なーるほど、そうなんでしょうね。
統一協会は家庭を大切にしようと叫んでいます。それで、それを自民党も受け入れています。しかし、現実は統一協会の信者の家庭はほとんどボロボロになってしまいます。だって、お金はとりあげられ「勤労」奉仕させられて、子どもたちとゆっくりすごすヒマもなくなってしまうのですから...。
この本の最後に、統一協会を抜け出せたら、「めでたし、めでたし」で終われるということではないとしています。安陪元首相を殺害した山上容疑者の母親は、今なお信者であり続けているようです。何千万円ものお金を統一協会に差し出し、生活保護を受けながら細々と暮らしているようです。一家の中に2人も自死した人をかかえて、平穏な生活が送れるとは思えません。なにより、腹を割って話せる友人がいない状況が一番つらいのではないでしょうか...。宗教(カルト)二世のかかえる問題点がよく理解できる本です。
(2022年11月刊。1400円+税)