弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年12月 6日

韓国併合

韓国・日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 森 万祐子 、 出版 中公新書

 韓国は、1910年8月から1945年8月までの35年間、日本の植民地支配下にあった。
 朝鮮王朝は、1895年に日清戦争後の下関条約成立まで、中国とのあいだで中国皇帝を最上位に置いた上下関係にあった。朝鮮王朝は、中国の属国にして、自主、すなわち「属国自主」と称した。
 そして、1897年10月に、朝鮮王朝の高宗国王が皇帝に即位し、大韓帝国が成立した。高宗は日本の明治天皇と同じ1852年の生まれ。
 高宗の父の大院君(1820年生まれ、1898年没)が政治を取り仕切り、人事政策や官制改革をすすめた。外交では排外政策を堅持し、日本政府からの文書は一切受けとらなかった。
  1882年7月の壬午(じんご)軍乱ではソウルの日本公使館も襲撃された。高宗政権打倒のクーデターとなり、高宗は大院君に政権をまかせた。
 1884年12月、甲申政変が起きたが、三日天下に終わり、首謀者の金玉均などは日本に亡命した。
 1894年に日清戦争が始まった。1894年7月から1896年2月まで、甲午改革が続いた。近代化政策である。
 1895年10月8日未明、日本の三浦公使などが命じて王宮に侵入し、王妃である閔妃(ミンピ)を殺害した。
 1896年2月、高宗は宮殿を出てロシア公使館に避難した。露館播遷(ろかんはせん)という。
 1897年10月、高宗は皇帝に即位した。
 1897年11月、閔妃(明成皇后)の国葬があり、輿(こし)の西側にはロシア式の儀仗兵が並び、高宗の駕の四隅にはロシア人士官が4人ずつ護衛にあたった。露韓銀行が開業し、ロシアは旅順・大連を租借、ハルビンから大連までの南満州鉄道敷節の権利を獲得するなど、大韓帝国におけるロシアの影響力は強くなっていった。
 1904年2月、日本はロシアとの戦争を始めた。やがて、日韓議定書が調印された。
 日露戦争に勝った日本は、1905年11月に第二次日韓協約を締結した。このとき、大韓帝国政府も皇帝高宗も抵抗したが、列強が承認するなかで締結された。
 米・英・露は大韓帝国が日本の保護国となることを容認した。
 1906年6月、高宗皇帝は、ハーグに密使を派遣した。日韓協約の不当性を世界に広く訴えようとした。
 1907年8月、純宗皇帝が即位した。
 1907年7月、第三次日韓協約が結ばれ、日本政府が大韓帝国のなかの日本人官吏は2000人。財務では半数を占めた。
 1909年10月26日、ハルビン駅で伊藤博文が安重根に暗殺された。
 1910年8月、韓国併合条約が成立。日本は朝鮮人から統治に対する「合意」や「正当性」を無理やりに得ようとした。これに対して、多くの朝鮮人は日本の支配に合意せず、歓迎しなかった。
 日本の皇居に外国の軍隊が夜間に武装襲撃して、日本の皇后を殺害し、火を放って遺体を焼却したら、それを怒らない日本人はいないでしょう。それは天皇制を支持するかどうかとは別の次元になりますよね。朝鮮・韓国の人々が日韓併合に正当性はなかったと考えるのは当然のことだと私は思います。大変勉強になる新書でした。
(2022年8月刊。税込946円)

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