弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年12月 1日

満州天理村「生琉里」の記憶

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 エイミー・ツジモト 、 出版 えにし書房

 満州開拓に天理教が教団として進出していたというのを初めて知りました。国策に協力して、布教と組織の拡大を図ったのです。それは、その前に教団が当局から厳しい弾圧を受けたからです。弾圧をかわし、生きのびる方策として、当時の国策だった満州開拓に乗っていったわけです。
 そして行った先は、もちろん関東軍が指定したところであり、自由に選んだというわけではありません、七三一部隊のあるハルビン郊外に近いところでした。
 なんと、満州に天理村を建設した天理教団は、七三一部隊の建設そして運営の一部に協力していたのです。いやあ、これには驚きました。
 もちろん、七三一部隊に関わった人々は厳重な箝口令(かんこうれい)を敷かれ、戦後はしっかり口を閉ざしました。でも、やはり、いくらかは良心にとがめて自らの行為の罪深さから事実の一端を告白したのです。それは、恐るべき目撃談です。
 「ある日、薪(まき)運びを命じられた。壕の中に何百という死体(マルタと呼ばれていた人間の遺体)が放り込まれていた。そこに藁を並べて、重油をまく。その上にトタンをかぶせて、火をつけた。ものすごい煙で周囲は真っ黒になった」
 満州に天理教団がつくった開拓団は「生琉里(ふるさと)」と名づけられた。天理村の周囲は、鉄条網がはり巡らされていた。村の東西には頑強な城塞なみの大門が建設され、警備員が常駐した。満州人が自由に出入りできる環境ではなかった。
 関東軍の依頼によって、村の警備を満州人にあたらせていた。しかし、満州人たちは、いつ寝返りをうつか分からない。満州人たちの怒りに満ちた目を忘れることはできなかった。そして、自分たちが追い出した満州人を日本人は小作人のように使った。
 天理村への移民は1934年11月に始まり、最後は1945年5月の第12次移民まで総勢2000人近い。
 満州天理村の実情を丹念に掘り起こした貴重な労作です。
(2018年5月刊。税込2200円)

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