弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年11月15日

民衆とともに歩んだ山本宣治

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 宇治山宣会 、 出版 かもがわ出版

 この10月半ばに宇治にある山宣(やません)のお墓と、山宣の子孫の営む「花やしき」に行ってきました。前から、ぜひ行ってみたいと思っていたのです。宇治の有名な平等院のすぐそばでした。今度は平等院のほうにも行ってみたいと思います。
 山本宣治(やません)は、1989年に生まれました。両親は京都の心境極で「ワンプライスショップ」の屋号で輸入品にアクセサリーや化粧品を売っていました。店は繁盛していたようです。幼いころから身体の弱かった宣治の健康を案じて、環境の良い宇治に600坪の土地を買って別荘を建て、宣治をそこに住まわせました。広い庭に四季折々の花が咲くので、近所の人から「花やしき」と呼ばれるまでになったのです。そして、宣治少年は元気になり、日本を抜け出してカナダに留学したのでした。
 カナダで、山宣は必死に勉強しましたが、そのなかに、社会主義の本も入っています。
 日本に帰国して、東京帝大の動物学科に入学。そして、大学を卒業したあとは、民衆のための産児制限運動にも取り組みはじめました。そして、労働者教育の運動にも関わります。
 1928(昭和3)年2月に普通選挙が実施されました(女性は参政権がありませんでした)。このとき、山宣は、無産政党(労農党)から出て1万4千票あまりを得て、当選したのです。
 山宣が国会議員として、治安維持法で検挙された人々に対する拷問を国会で具体的に示しながら、政府の責任を鋭く追及しました。国会で治安維持法の改正が審議されるころ(1928年1月ころ)、山宣は親族に次のように言いました。
 「治安維持法に反対するのは自分ひとりだから、危険だ。こんどはひょっとしたら殺されるかもしれない」
 そして、1929年3月5日、神田の「共榮館」にやって来た右翼の男に短刀で切りつけられて命を落としたのでした。
 山宣の墓には、「山宣ひとり孤里を守る。だが僕は淋しくない。背後には多数の同志がいるから」と刻まれています。しっかり見てきました。山宣が殺されたのは39歳のときで、4人の子どもがいました。本当に権力とはむごいことをするものです。でも、山宣の思いは、その後も脈々と生き続けています。私も決して忘れません。
(2010年2月刊。税込1257円)

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