弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年9月30日

満映秘史

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 石井 妙子 ・ 岸 富美子 、 出版 角川新書

 このところ、ずっと満洲のことを調べています。応召して中国・満州に渡った叔父が日本敗戦後、8年間も八路軍に技術員として協力していた事実を裏付けようとしているのです。なので、満州で日本と日本軍が何をしたのか、大いに関心があります。
 満映は、かの悪名高い甘粕正彦が理事長をつとめていたことで有名です。「満州国」の首都の長春(新京)郊外に東洋一の大撮影所を構えていました。 岸富美子は、この満映で兄たちとともに映画製作の現場で働いたのです。
 甘粕理事長は、社員に出社時刻を守らせようとした。そして、ルーズだった金銭面をきちんと管理し、給与も大きく改められた。 社員の交流のため、春の運動会が大々的に行われ、社員同士のクラブ活動が奨励された。 甘粕理事長は満映社員の知的レベルを上げ、団結力を強めて、組織力を高めることを狙ったのだろう。
 満映の設立は、1937(昭和12)年8月のこと。盧溝橋事件の直後である。満映の資本金は500万円で、満州国と満鉄が半額ずつ出資した。つまり、日本軍部の影響を強く受けた国策会社だった。満映のつくる映画は、抗日ではなく、親日を訴えるもの、それによって中国人を宣撫(せんぶ)、感化しようとした。
 甘粕正彦は、元陸軍憲兵大尉。1923(大正12)年に関東大震災が起きたとき、混乱に乗じて、無政府主義者(アナーキスト)の大杉栄と、その妻・伊藤野枝そして、大杉の甥(おい)の3人が憲兵隊によって虐殺されたときの首謀者。懲役10年の判決を受けたが、3年後には恩赦で出獄してフランスに渡り、満州にやってきた。
 1939(昭和14)年に満映理事長となり、日本敗戦直後に青酸カリで服毒自殺した。
新京駅前のヤマトホテルで暮らした。この同じホテルに、日本人でありながら中国人女優として売り出した李香蘭も生活していた。甘粕は家族を大連に置いて、新京には単身赴任していた。そして、宴席では、異様な乱れぶりで、周囲を困惑させた。
 満映の社員は千人ほどで、日本人と中国人の割合は6対4。ただし、子会社まで入れると社員総数は2千人にもなった。
満映のつくる映画は満州で暮らす現地の人々に見せるものなので、俳優は李香蘭を除いて、全員が中国人。しかし、監督やカメラマンなどは全員が内地からやってきた日本人。しかし、それでは中国人の心に響く映画にならないので、中国人の監督・脚本家・技術者の養成も満映は積極的にすすめていた。
満映には、大塚有章のような元共産主義者や左翼的傾向をもつ人間が多数いた。
日本敗戦前から、ソ連軍が進攻してきた。そして、満映もソ連軍が支配するようになった。
満映の社員には日本敗戦の時点で、全員に会社から5千円の退職金が支給されていた。いやあ、さすが国策会社ですね。これは、現地の貨幣ではなく、内地の日本円でしょう。
ソ連軍が1946年4月に撤退すると、すぐに八路軍がやってきた。このとき、撮影機械(アイモ)が30台近くも残っていて、延安から来た中国共産党の幹部は心底から驚き、快哉を叫んだ。満映にあったアイモは50台。ソ連軍が20台を持ち去ったが、日本人技術者が隠したので、30台近く残っていた。
このあと、八路軍とともに映画製作で苦労する話が続きます。そして、中国共産党が中国全土を支配したあとにつくられた映画『白毛女』の編集に従事した。当時は中国人の名前で、そして、その後は日本人の名前(岸富美子)で、記されている。それは知りませんでした。すごいことですね。なにしろ、『白毛女』は国民的映画として、10年間で1億5千万人以上の中国人がみたのです。
岸富美子は、2019年5月、98歳で亡くなっています。
(2022年7月刊。税込1320円)

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