弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年9月10日

アウシュヴィッツのお針子

ドイツ


(霧山昴)
著者 ハーシー・アドリントン 、 出版 河出書房新社

 アウシュヴィッツ収容所の所長の妻などが、自分たちの服を見栄えよく仕立てるために、アウシュヴィッツ絶滅収容所に収容された若いユダヤ人女性たちを働かせていた実話です。彼女らはアウシュヴィッツ収容所から生きのびて、長寿をまっとうした人もいたのでした。
 アウシュヴィッツ収容所にファッションサロンがあり、このサロンのお針子の大半はユダヤ人。他に、政治犯で裁縫のできる女性もいた。これらのお針子たちは、友情とまごころの強いきずなでナチスに抵抗し、生き永らえることができた。しかも、親衛隊幹部夫人のために立派な服を仕立てるだけでなく、レジスタンス活動に加わり、なかには逃亡の計画を立てる女性たちもいたというのです。成功したケースも、失敗したケースもありました。
ナチス上層部の女性は、ナチスと同じく衣服を重要視していた。たとえば、ゲッペルス宣伝相の妻マクダ・ゲッペルスは、ユダヤ人のこしらえた衣服を臆面なく身につけていたし、国家元帥ヘルマン・ゲーリングの妻エミー・ゲーリングも同じくユダヤ人から略奪した豪華な衣服をまとっていた。
 アウシュヴィッツに婦人服仕立て作業場を設けたのは強制収容所のルドルフ・ヘス所長の妻ヘートヴィヒ・ヘス。このサロンのお針子の大半はユダヤ人。そのほか占領下フランスから送られてきた非ユダヤ人のコミュニストもいた。彼女らは、ヘス夫人をはじめとするナチス親衛隊員の妻たちのために型紙を起こし、布を裁断して縫いあわせ、装飾をつけ、美しい衣服をつくっていた。お針子たちにとって、縫うことは、ガス室と焼却炉から逃れる手段だった。
このサロンには総勢25人の女性が働いていた。サロンを指揮するのは、1942年3月に入所したハンガリー出身のマルタ・フフス。人気のファッションサロンを経営していた一流の裁断職人。お針子の大半は10代後半から20代はじめ。最年少はわずか14歳。サロンには十分な仕事があり、ベルリンからの注文でさえ、6ヵ月待ちだった。注文の優先権は、もちろんヘス夫人にあった。
 ファッション業界と被服産業からユダヤ人を追い出すことは、ユダヤ人主義が偶然もたらした副産物ではない。明確な目標だった。両大戦間のドイツでは、百貨店とチェーンストアの8割をドイツ系ユダヤ人が所有していた。また繊維製品卸業者の半数がユダヤ系だった。衣服のデザイン、製造、輸送、販売に携わる被雇用者の大きな役割をユダヤ人労働者が占めていた。ユダヤ人実業家の実行力と知力があったからこそ、ベルリンは1世紀以上ものあいだ女性の既製服産業の核とみなされてきた。
 ゲッペルスの妻マクダは、ユダヤ人のファッションサロンが閉鎖されたことを嘆いた。「ユダヤ人がいなくなったら、ベルリンからエレガンスも失われるってことを、みんな分かっているはずなのに...」
 戦後、生き残ったユダヤ人たちに対して、「なぜ抵抗しなかったのか?」と尋ねたときに返ってきたのは...。「起きていることが信じられなかったから」
 アウシュヴィッツ収容所から幸運にも逃げ出した人が外の世界で収容所内で起きていることを伝えたとき、人々の反応は「まさか、そんなこと、信じられない」というものでした。人間は、想像外の出来事については、まともに受けとめることができなくなるようです。
 衣服は人を作る。ぼろ切れはシラミを作る。衣服は尊厳と結びついている。後者はシラミが不潔な環境で湧くこととあわて、ぼろ切れをまとった人はシラミ扱いされることも意味している。収容所の外でも中でも、見た目がすべてなのだ。清潔で、まともな衣服は、人間であるという感覚を回復させてくれた。
 収容所の中では、ハンカチ、石けん、歯ブラシは、とくに重宝された。薬は金(きん)よりも貴重品だった。
 ファッションサロンの責任者である親衛隊女性エリーザベト・ルパートは驚くほど親切な看守だった。お針子たちに好意的に接したら、仕事の合間に、無料で服を縫ってもらえた。ただ、ほかの親衛隊女性隊員から不満の声が上がってビルケナウへ異動させられた。そして、異動先では威張りちらす残忍な人間と化した。場所によって、人間は良くも悪くも変わるのですね。
 お針子のノルマは、最低でも週に2着は注文のドレスを仕立てること。すべて無料でありながら、高級服仕立て作業場の仕事はきわめて質が良く、マルタの品質管理の目が行き届いていた。
 親衛隊の顧客は、その見返りとして、食べ物の余りやパン、ソーセージをもってきた。
 病気すると、レモン、リンゴそして牛乳が届けられることがあった。
 アウシュヴィッツに関する本はそれなりに読んできたつもりでしたが、このジャンルは欠落してしまいました。関心のある方に、ご一読をおすすめします。
(2022年5月刊。税込2475円)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー