弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年8月16日

八路軍の日本兵たち

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 香川 孝志 ・ 前田 光繁 、 出版 サイマル出版会

 八路軍(戦前の中国共産党の軍隊)による百団大戦で負傷して捕虜となった日本兵たちのなかに八路軍に共鳴して、その兵士として活動するようになった日本人がいました。
 1940年8月、陸軍伍長だった日本兵(25歳)が戦闘で負傷して昏倒したまま八路軍の捕虜として、八路軍の前線司令部に連行されたのです。八路軍は捕虜を殺さないというのは知っていたけれど、日本軍は中国で聖戦を遂行していると思い込んでいたので、八路軍を容易に使用できなかったのでした。
 戦前の日本軍兵士にとって、生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けるなと叩き込まれていたので、日本軍に戻ることは危険だった。
 そこが米英軍の兵士との大きな違いですよね。彼らは捕虜となって助かる道を選ぶのは当然のこととされていました。ところが、日本軍は自ら捕虜にならないというだけでなく、敵の兵士を捕虜としたとき、簡単に殺害していました。手間がかかるうえに、食糧確保の問題もあったからです。
やがて八路軍の言っていることのほうが正しいことが分かると、延安で日本労農学校を設立し、そこで学習を重ねるのでした。この状況を、アメリカ軍代表部からも視察に来ていました。このアメリカ軍将校は、アメリカ本国への報告のとき、蔣介石の軍隊より八路軍の方が断然良いとしたら、左遷されてしまったようです。
 八路軍の幹部兵士には、日本に留学して日本語ペラペラの人が何人もいて、捕虜となった元日本兵と親密な交流をしました。
 陸軍伍長としては死亡し、別の名前の人間として八路軍の兵士に生まれ変わったのです。八路軍の兵士となった元日本兵たちは、日本軍との最前線に出かけていって、日本兵に投降を呼びかけています。最前線にマイクなんてありませんから、メガホンを使った肉声です。50メートル先は敵(日本軍)の陣地。実際、元日本兵2人が戦闘中に死亡しています。
 7年間に捕虜となった日本兵は2407人、自発的に投降してきた日本兵は115人いた。
このなかから、のべ300人が延安の労農学校に入って教育を受けた。
 反戦兵士が日本軍の部隊に慰問袋(石けん、タオル、日記帳、下着類)を送ると、返礼として、みそやコンブが送られてきた。そこで、さらに酒やニワトリを送ったこともあるという。日本兵から慰問袋のお礼状が3通届いたとのこと。中国の戦場の最前線で、そんな交流があっていただなんて・・・、信じられませんね。第一次大戦中、最前線のドイツ軍とフランス軍の兵士がクリスマス停戦して、交歓していたのは映画にもなりました。
 日本敗戦後、野坂参三は随行員3人を連れて長春(新京)に入り、ソ連軍中佐と少佐の肩章をつけたソ連軍将校の軍袋を着用したので、ソ連軍からそれなりに処遇された。
 そして、野坂参三ともどもシベリア鉄道でソ連に行き、モスクワに1週間ほど滞在した。その後、朝鮮経由で日本に帰国した。博多港に入港したのは、1946年1月12日だった。
 貴重な体験記だと思いました。
(1984年6月刊。税込1320円)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー