弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年8月 7日

江戸藩邸へようこそ

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 久住 祐一郎 、 出版 インターナショナル新書

江戸の市街地の7割は武家地が占め、残る3割を町人地と寺社地が半分ずつ分けあっていた。武家地の55%は大名屋敷。江戸の市街地全体の4割弱を大名屋敷が占めていた。
屋敷は大名家に与えられるもので、領地に付随するものではない。江戸藩邸の持ち主が変わることは頻繁だったが、それは国替えとは無関係。
江戸藩邸に暮らしていたのは、大名とその家族だけではない。一つの大名家につき、数百から数千人の家臣が働いていた。
江戸で勤務する家臣には2種類あって、国元から単身赴任でやってくる勤番と、家族とともに常時江戸で暮らす定府(じょうふ)があった。
江戸の武家人口は60万人と推定されている。各藩の財政支出のうち6割以上が江戸で費やされていた。大名は複数の江戸藩邸をもっていた。上屋敷(居屋敷)は江戸城に近く、江戸滞在中の大名が住む、大名の正室(妻)もここで暮らし、藩の行政機構もここに置かれた。中屋敷は上屋敷のスペアで、隠居した大名や大名の世継ぎが暮らした。下屋敷は、江戸城から離れたところにあり、上屋敷が火事にあったときの避難場所となった。
幕府からの拝領屋敷であるが、実態は貸与であって、幕府から屋敷替えを命じられたら、明け渡さなければならなかった。屋敷の持ち主同士での交換もあり、相対替(あいたいが)えといった。これは事実上の売買だった。
松平伊豆守家のように、幕府の要識についた譜代大名は頻繁に屋敷替えをしていた。
松平伊豆守の谷中下屋敷のうちには、長屋が24棟も立ち並んでいた。そして、191年間に42回も火事にあっている。4年半に1度という頻度だ。
藩主の起床時間は通常なら午前7時半ころ。しかし、予定があるときには、午前4時半ころや午前5時半ころには起床した。ええっ、これって早すぎますよね...。藩主の起床時間は、家臣たちの仕事もあるので、好き勝手に早起きして、動きまわることはできなかった。
食事は、1日3食。午前9時半ころ、着替える。それも、近習たちにしてもらう。
江戸城への登場行列で混雑が予想されるときには、いつもより早く屋敷を出る。老中は、午前10時に登城して、午後2時には退出した。藩主の就寝中は、当番の近習が不寝番をつとめた。
江戸藩邸には、武士だけでなく町人(商人)や百姓も出入りした。吉田藩の江戸藩邸に出入りする御用達商人のなかで特別扱いされたものを「御三階下町人」と呼ぶ。そのメンバーは12人前後で推移した。その多くは、藩財政の不足を補うために才覚金(御用金)を負担していた。別に、江戸を代表する米問屋の兵庫屋弥兵衛も特別扱いを受けていた。このほか、多くの町人が出入りしていて、「惣出入町人」と呼んでいた。
江戸藩邸の吉田藩士の半分は定府藩士だった。藩邸内の居住者は1000人を優に超えていた。吉田藩には家老が常時4人か5人いて、そのうちの2人が江戸家老をつとめた。
江戸における藩の役職のなかで、特に重要なポストが「留守居(るすい)」だ。留守居は江戸城に登城して幕府との折衝、上書の提出を担当し、他藩の留守居と交流して情報交換した。外交官の役割を果たした。
江戸時代も後期の吉田藩の江戸藩邸には250人前後の武家奉公人が働いていて、まとめて「中間(ちゅうげん)」と呼んでいた。給料は1年で4両ほど。家臣の武士が藩を抜け出して浪人になることを脱藩といったが、実は脱藩者は多かった。60年のあいだに184件の脱藩者が出たと記録されている。
江戸藩邸で働く奥女中は、20人から30人ほどいたようだ。奥女中は、一代限りか年季奉公だった。奥女中の給金は、最高の老女が150万円、最低が15万円。10代半ばで採用され、10年間の年季を終えて20代の半ばで夜下がりした。
江戸藩邸の実際がよく調べてあって、イメージをつかむことができました。

(2022年6月刊。税込880円)

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