弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年6月24日

中国の現代化を担った日本

中国


(霧山昴)
著者 西原 哲也 、 出版 社会評論社

私の叔父(父の弟)は日本の敗色濃いなか、丙種合格だったのに徴集され、25歳の2等兵として中国・満州に送られました。トンネル掘りなどをさせられているうちに日本敗戦となり、やがてやってきた八路軍(パーロ。中国共産党の軍隊)に招かれて、紡績工場で技術員として働くようになりました。満州に進軍してきたソ連赤軍は引き揚げるとき、大量の日本人元兵士とともに工場内の機械・設備類を根こそぎソ連に運び去ったのでした。なので、満州の工場を再建するのに、中国は日本人技術員の力を借りなければいけなかったのです。といっても、叔父は日本では百姓をしていましたので、根っからの技術屋ではありません。ところが、八路軍の将兵に文盲が多く、叔父は貴重な存在だったのです。高給優遇されました。といっても、生活に困らなかったというレベルで、貯金して、それを日本に持って帰ったというのでもありません。戦後8年たった1953年6月に帰国し、それからは農業一筋に生き、98歳過ぎてもすこぶる元気でした。
現代中国では、現在の経済的繁栄を支えている産業そして技術は中国が独自に開発し、発展させたものということになっていて、その開発・発展に日本が大きく寄与したことがまったく没却・無視されている。ここを調査・発掘した貴重な成果が本書で紹介されています。
中国側で、日本企業を受け入れたときに活躍したのが、戦後の日本に留学し、日本語ペラペラという中国人が実は中国に多数存在していたのです。一番の大物は、早稲田大学に留学していた廖承志。そして、それを周恩来が背後からリードしていた。
はじめは、中国特産三品目しか日本は中国から輸入できなかった。漢方薬、生漆そして甘栗。
日本の大手商社はダミー商社をつくって、中国との取引をすすめた。それは、台湾との取引を続けるためにも必要だった。
中国は、日本企業の一貫生産プラントをそのまま発注せず、基本設計を導入して自前でつくろうとした。しかし、それはどれも失敗した。ボーイング七〇七を分解して、見よう見まねで同じような旅客機をつくってみたものの、それが空を飛ぶことはなかった。そんなエピソードが紹介されています。ありえることですが、これって本当なのでしょうか...。
そして1966年ころから文化大革命の厳しい大波に中国はさらされ、日本企業もさんざんな目にあうことになります。日系商社マンも次々に逮捕されました。
やがて文革がおさまり改革開放がすすむなかで、新日鉄を中心とした宝山製鉄所の建設が始まった。
ガマン強く、誠実に対応した日系企業はついに生き残り、中国経済の復興に大きく寄与した。これは本当のことだと私も思います。
売った商品に欠陥があれば、無償できちんと直すという態度を多くの日本の商社・メーカーがとった。このことが日系企業への中国側の信用を積み重ねていった。
なるほど、そういうこともあったんだよね、そう思いながら、誠実そのものだった叔父を偲びつつ読みすすめました。
(2022年1月刊。税込1980円)

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