弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年6月18日

梅は匂ひよ 桜は花よ 人は心よ

人間


(霧山昴)
著者 野村 幻雪 、 出版 藤原書店

私は司法修習生のころ、狂言そして能を一度だけ本格的な能舞台で鑑賞しました。さっぱりコトバが聴きとれず、眠たくて仕方がありませんでした。正直言って、一度でコリゴリしてしまいました。
ところが、この本を読むと、私のこの反応は自然なものではあるが、あまりにも視野が狭かったと思わされ、無知な私を反省するしかありません。
著者は狂言の家に生まれ、能楽に転じたのですが、能の役者として人間国宝に指定されるまでになり、また、かの東京芸大で教授として教えていたこともあります。なので、さすがに本書にある著者のコトバには含蓄深いものがあります。
「能はむずかしい」...たしかに言葉は古典で、動きは何かとゆったりしてるので、想像力が求められる。言葉を聞きとって理解しようとするよりも、お囃子(はやし)のテンポの変化で場面転換を予想したり、役者の身振りや装束から、その役がどんな境遇に置かれているのかを想像したり、耳目に入るまま感じとるのが、能を楽しむ第一歩。
役者は何もない舞台に、演技の力だけで森羅万象を描き出す。
著者は、「いい香りのする役者になること」を目ざしているとのこと。薄暗い橋掛りにあらわれたとき、ふっとお香の匂いを感じさせる役者になりたい...。
年齢(とし)とともに体力は衰えても、経験や知力、好奇心がそれを補ってくれる。いくつになろうとも、常に自問自答し、初心と新しい発想をもって演技にのぞむつもりだ。
公演は一日限り。演者にとって、その役は生涯で今日が最後かもしれないとの思いがある。能の公演って、連日はないようです。
能を演じるときには、神にも女性にもなる。それが能。これに対して、狂言では、実際の出来事を架空の物語に仕立ててみる。このように表現方法が対照的な能と狂言だけど、どちらにも人間の本質を主題とする点では共通している。
能役者の服装は赤系の装束は若い女性、中年以上の女性は赤系の色を使わず、「紅無(いろなし)」とする。
内弟子の大切な仕事の一つに舞台拭きがある。まず舞台のチリを払う。そして、板目にそって固くしぼった雑巾で拭く。新しい舞台には豆乳を使い、表面に油をしみ込ませる。このとき、柱の下部の色にムラができないよう、舞台と柱とが同化して自然に見えるように、柱に接する板を拭いたら、そのまま柱にはわせて、垂直にずり上げる。このとき、いりぬかの袋で研いてつやを出す。
この舞台拭きによって、舞台空間を身につける。三間四方の空間で、どう構えるのか、どの位置に居るのか、常に存在が問われる。これを、舞台を一所懸命に磨くなかで身に着ける。
能舞台で、物言わずまっすぐ立っている四本柱に囲まれると、四人の師匠に厳しいまなざしでにらまれている気分になり、体に緊張感が走る。
能役者は、日常を明るくすることで、舞台では逆に哀しみをただえる表現ができる。チャップリンとは真逆で、なるべく日々を明るく生きることによって、その裏が表現でき、深く演じることができる。
これについては、私も長い弁護士経験をふまえて、ぴったり実感にあいます。
著者は、若いころは芸の「重み」を重視していた。しかし、今では「軽み」を芸の目標としている。
「伝統」には、過去・現在・未来という時系列がある。そこに未来が入っていないときには、重厚ではないけれど、感動的な軽み、何かそこに魅力がある。
重苦しくなく、みている方に負担がなく、感動がある。こんなものが日本式「軽み」。
能についての偏見を改めようと思いました。
(2022年2月刊。税込3520円)

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