弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年5月20日

文学で読む日本の歴史  田沼政権

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 五味 文彦 、 出版 山川出版社

 田沼意次(たぬまおきつぐ)の台頭は、郡上(ぐじょう)一揆をきっかけとしていたことを初めて認識しました。
 田沼時代は九代将軍・家重の時代に始まりますが、八代将軍・吉宗の政権末期の政治的停滞を吉宗将軍の近くにいて見ていたというのです。
田沼時代の始まりは、明和6(1769)年に、側用人(そばようにん)から老中格になって始まった。意次は、御家人から側用人、老中になった初めての人物だった。
 美濃の郡上一揆は宝暦8(1758)年に始まったが、家重将軍の命により意次も評議に加わった。というのも、老中が郡上藩と結びついていたので、評議が混沌として収拾つかなかったから。ただし、このとき意次が目覚ましい動きをしたというのではない。郡上一揆は、百姓らの獄門、老中の罷免、若年寄の改易(かいえき)、郡上藩主の改易で収拾された。
 田沼政権の経済政策は、民間の経済活動を後押しし、その利益にもとづく運上金によって幕府財政を好転させようとするもの。また、田沼政権は、財政部門を担当する勘定方の権限を拡大して、長崎貿易を強化することを狙った。
 京の絵画として著名な伊藤若冲も、この田沼時代の画家なのですね。円山応挙(まるやまおうきょ)もそうです。
 百姓一揆が起きると、その経過を示す実録がつくられた。久留米藩大一揆(17万人参加)の顛末は、二つあるのですね。『筑後国郡乱実記』と『南筑国民騒動実録』。現代文で読めるのであれば、ぜひ読んでみたいです。
 そして、この実録をもとにして、講釈師が一揆物語を語ったのです。百姓一揆が『太平記』の世界に移され、その正当性が語られ、明君が一揆の主張に応じて仁政をしいて太平の国になるという物語が語られた。
 このような一揆物語を講釈する講釈師の存在が宝暦期に目立った。その中で、馬場文耕は郡上一揆を語り、幕政を悪政と批判したため、獄門に処されてしまった。
 百姓一揆と講釈師との関わりについては、まったく認識不足でした。
 薩摩の殿様である島津重豪(しげひで)は、蘭学に興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向き、オランダ船に搭乗した。いやぁ、これまた知りませんでした。オランダ商館に殿様本人が出向いていたんですね...、驚きます。
 田沼時代に、天明の大飢饉が起きました。天明3(1783)年は、寒気が厳しく、長雨と冷気のため作物が生育しなかった。大風霜害によって、未曽有の大凶作となった。
 天明4(1784)年4月、田沼意次の子で若年寄の田沼意知(おきとも)が、城内で旗本に切りつけられ、まもなく死亡した。意次が、人脈を通じて党派を形成し、大奥を掌握し、幕閣の人事を独占し、次代にも継承されるようにしていったことへの不満とみられている。
 天明6(1786)年に将軍が亡くなると、田沼意次は最大の庇護者を失うと、失脚し、所領は没収された。
 村の文書が宝暦年間から全国的に残されているが、これは村が持続・存続するようになったからである。なーるほど、そういうことだったのですね。
 江戸時代の実情は、知れば知るほど奥が深いと思いました。
(2020年7月刊。税込3960円)

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