弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年3月17日

西南戦争のリアル、田原坂

日本史(明治)


(霧山昴)
著者 中原 幹彦 、 出版 親泉社

1877(明治10)年の西南戦争で最大の激戦地だった田原坂の戦いについて、現地の発掘状況も踏まえた本です。92頁と薄い冊子ですが、写真や地図が豊富で、よくイメージをつかむことができます。
まず名称ですが、戦争とは、国家間の武力による闘争をさすコトバなので、本当は西南戦役(せんえき)か西南役(えき)と呼ぶのが正しいとのこと。この本は通例にしたがい、西南戦争といいます。そして、英訳は「薩摩反乱記」となっていることが多いそうです。これも、「西南内戦」が適切だとされています。いずれも知りませんでした。
政府軍は熊本と福岡の境の豊前街道上野の南関に本営を置いた。ここから熊本城に至るコースは3つあったが、北の山鹿コースと南の吉次峠コースは、熊本まで数十ヵ所の難所があるのに、田原坂は抜けたらもう一つ向坂の難所があるだけなので、田原坂コースが選ばれた。
当時は自動車がありませんので、馬や牛に頼れないところでは人力しかありません。そして、重たい大砲を運び上げるには、この田原坂を人力でのぼっていくしかなかったのです。
田原坂の戦いは3月4日から20日までの17日間。この17日間のうち6日間、雨が降った。そして最終日の3月20日は大雨だった。「雨は降る降る、人馬は濡れる」という歌のとおりでした。
動員した兵力は薩摩軍が5万人、政府軍は全国から集められた8万人。政府軍の戦費は4157万円で、国家予算の7割に匹敵する巨額だった。
そして田原坂の戦いに政府軍はのべ最大8万人を動員し、死傷者が3000人、戦死者1700人だった。これは政府軍の前線死者の25%で、1日あたり100人だった。薩摩軍のほうは数千人規模で、実数は不明。
政府軍は田原坂の戦いで、548万発、1日32万発もの銃弾(砲弾ふくむ)を消費した。薩摩軍のほうは無駄撃ちせず、政府軍10発に対して1発と、銃弾を惜しみ、必要に応じて猛射した。
薩摩軍が17日間も持ちこたえて激戦になったのは、第一に地形、第二にその将士が一丸となって決死の覚悟で守り抜く気魂があったから。
田原坂は険しい坂道で、トンネルのようであり、細く曲がりくねった険しい山道で、兵略上、守りやすく攻め難い地勢である。薩摩軍は、私学校党の精鋭とここにそろえて死力を尽くし、堅固な陣地を両崖の十数ヵ所に築いた。両軍の距離は、わずかに5、6メートルとか20メートルというほど近接していた。
そして、薩摩軍は150人の集団抜刀で攻撃してきたので、政府軍は当初たちまちやられていった。政府軍は狙撃隊で対抗したが、1週間で全滅。その後、東京警視抜刀隊200人が活躍した。この抜刀隊には元東北諸藩士で構成されたというイメージがあるが、必ずしも正しくない。出身地が判明している45人のうち東北地方出身者は14人、薩摩藩出身者も16人いた。
この本には、薩摩軍にいた兵士のうち政府軍に投降した兵士のみからなる政府軍部隊(231人)が存在していたとのこと。途中から、薩摩軍は集団投降者が続出していたようです。田原坂の現地には何度か行ったことがありますが、この冊子を読んで、もう一度行ってみたいと思いました。
(2021年12月刊。税込1760円)

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