弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年2月18日

朝鮮通信使の道

朝鮮


(霧山昴)
著者 嶋村 初吉 、 出版 東方出版

江戸時代は鎖国していたということになっているけれど、実際には海外に向かって4つの口をもち、朝鮮と琉球とは通信の関係を保持していた。4つの口とは、琉球、出島(長崎)、対馬、松前(北海道)。江戸には、朝鮮通信使、琉球使節、出島の阿蘭陀(オランダ)カピタンが参府し、徳川将軍に海外の情報をもたらした。
江戸時代の朝鮮通信使は、薩長12(1607)年を皮切りに、文代8(1811)年まで12回、来日した。そのうち3回目までは回答兼刷還使(さっかんし)といって、秀吉軍によって日本に拉致・連行された朝鮮人を連れ戻すことを主目的とした。
通信使一行は漢城(ソウル)の王宮で国王から励ましの言葉をいただき、江戸城での図書交換のため8ヶ月から1年2ヶ月をかけて往復した。
通信使一行は、三使(正使、副使、従事官)を筆頭に300人から500人、国内一流の人材が抜擢された。迎える幕府側は年間予算100万両をこえる巨額を投入した。
朝鮮通信使が来日すると、宿泊先には求画求援の人波が押し寄せた。朝鮮の先進文化を学ぼうとしたのだ。また、庶民のあいだでは、「朝鮮人の家を得ておけば願い事が必ずかなう」という噂がたち、人々が宝を求めるように集まった。
通信使は、異文化に接触できる江戸時代最大の外交イベントで、使節が行く沿道には、人垣ができた。異国の風俗、音楽、舞踊を縁日を楽しむように民衆は鑑賞した。その影響は、牛窓(岡山県瀬戸内市)の唐子踊り、三重県の分部町や東玉垣町の唐人踊りなど、現在も継承されている。
そして、朝鮮通信使は、日本の技術の優秀さを認め、評価した。
著者は、この朝鮮通信使のたどった道を実際に歩いたのです。
ソウルが外国軍によって占領されたのは史上2回ある。豊臣秀吉の朝鮮侵略と中国・清軍の侵攻の2回。
朝鮮で開化思想をもっともはやく受け入れたのは中人階級だった。医術・天文・通訳のような技術職の人々である。両班でも商人でもない。官職についても一定以上の昇進はできず、四・六品以上には昇れなかった。
両班(やんばん)とは、高麗、朝鮮王朝時代、官僚を出すことができた最上級身分の支配階級。両班の本来の意味は、朝廷で儀式があるとき、そこに参席しうる現職の官僚を総称するものだった。両班は婚姻関係を通じて結合するとともに、学問を通じて結びつきを深めた。
釜山には「草梁倭館」があり、対馬藩士が交代で400人から500人も詰めていた。その面積は10万坪で、これは長崎・出島の25倍もの広さ。江戸の中期には、雨森(あめのもり)芳洲(ほうしゅう)、後期には、小田幾五郎が倭館につとめた。
秀吉の朝鮮侵略のとき、朝鮮軍のほうに投じた日本人の武将がいました。降倭と呼ばれています。そのなかでは「加藤清正の鉄砲隊長」だった沙世可(さやか)が有名ですが、その14代目の子孫がいるというのには驚きました。全在徳さんです。慶尚道の大邱(てぐ)に住んでいます。
朝鮮通信使が日朝交流の点で果たした役割はとても大きかったと改めて思いました。
(2021年11月刊。税込1980円)

 水曜日の午前中、雪がチラホラ降ってきましたが、すぐにやみました。
 いま庭は紅梅が満開です。今年はなぜか隣の白梅が咲いてくれません。
 庭のあちこちに白い水仙が咲いています。ところどころ、正月に植え替えた黄水仙が可憐な花を咲かせています。私はキリっと自己主張する黄色の黄水仙がお気に入りなのです。

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