弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年2月10日

中国共産党の歴史(2)

中国


(霧山昴)
著者 高橋 信夫 、 出版 慶應義塾大学出版会

国共内戦で、紅軍は初めのうち後退を余儀なくされていた。蒋介石の国民党軍のほうが最新鋭の武器を持っていたから。そこで、毛沢東は、紅軍部隊に指示した。
「勝利が確信できなければ戦闘を避ける。チャンスがあれば攻撃対象を速やかに殲滅せよ」。「敵軍より少なくとも3倍の兵を終結させ、砲兵隊の大半を集中させて、敵の陣地の弱点をひとつ選び、猛烈に攻撃して確実に勝利する」
国民党軍の将軍は、最後にはアメリカ軍が助けてくれると期待していたので、懸命さに欠けていた。兵士の多くは、農村から強制的に連れてこられた男たちなので、はじめから戦闘精神をもっていなかった。そのうえ、兵士たちには十分な給料と食事が与えられていなかったので、村々を頻繁に略奪してまわった。これに対して紅軍兵士は相対的に士気が高く、略奪にもめったに手を染めなかった。
これでは、人心が国民党から離れて、紅軍に傾くのは当然ですよね。
国共内戦に勝利した毛沢東は、1950年夏に台湾解放作戦を考えていた。しかし、朝鮮戦争の勃発により消えてなくなった。それに、ソ連へ海軍と空軍(パイロット)の参加を求めていたが、スターリンはきっぱり断った。
毛沢東が1950年夏に台湾への武力侵攻を考えていたことを初めて知りました。
朝鮮戦争は1950年6月に始まりましたが、金日成がスターリンの攻撃同意を取りつけたのは1月30日のこと。毛沢東は、同年5月に金日成と北京で会ってスターリンの開戦同意を取りつけたことを知らされ驚いた。というのも、1950年の段階では、中国の沿海部分は蒋介石の空軍による爆撃にさらされていて、国共内戦はまだ終結していなかったから。
中国共産党の指導部内部でも、朝鮮戦争に参戦することには消極意見もあった。
中国の政治で驚き、かつ恐ろしいと思うのは、1950年10月ころの反革命鎮圧運動のすさまじさです。このころ開かれた全国公安会議において、中国の全人口の0.1%を殺害することが決議され、各地で、実行に移されていったということです。対象となる人物の行動から反革命分子と認定して殺害するというのではなく、まず「0.1%」を目標人数として、その分だけの氏名を特定し、そのうえで、「事実」を発見して、殺害する。
まことに手荒い、信じられない乱暴なやり方です。これで、3年間に70万人が「反革命分子」として殺害された。いやはや大変な人数です。過去のAB団、そして文革中の弾圧とその体質、手法は共通しています。
このあと、中国の農村社会では人民公社運動がまき起こり、そして、その失敗から大量の餓死者を生み出すわけですが、それでも集団化に対して大々的な抵抗運動は起きなかった。それは、「反革命分子」を鎮圧・除去していたから、共産党に抵抗する用意のある人々は除去されていたことによる。そのうえで、ソ連と違って、農村部にまで党組織が確立していたからだ。
1056年2月のフルシチョワによるスターリン批判は、中国共産党に対しても大変ショックを与えた。このとき、中国共産党はスターリン批判の大合唱に加わらず、むしろスターリンを弁護した。なぜか...。中国共産党は、当時、政権を握ってまだ日も浅く、権力基盤が盤石ではなかった。スターリンを一途に礼賛してきたのに、急に犯罪者だと決めつけようものなら、人々が共産党に背を向ける危険性がある。スターリンの偶像を簡単に破壊するのは難しかった。
毛沢東は、1958年3月の会議で、自らに対する個人崇拝を解禁した。このころ、毛沢東は「大躍進」を打ち出した。これは、製鉄熱を生み、また人民公社をつくりあげることになった。
「大躍進」は華々しく大成功をおさめた。1958年夏から秋にかけて、毛沢東は得億の絶頂にあった。しかし、実際には、深刻な飢餓が各地にあらわれはじめていた。
(2021年7月刊。税込2970円)

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