弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2022年1月28日
ヒトラー
ドイツ
(霧山昴)
著者 芝 健介 、 出版 岩波新書
私と同世代(団塊世代)の大学教授によるヒトラー論です。私もそれなりにヒトラーについて書かれた本は読んできたつもりですが、この新書には知らなかったことも多く書かれていて、その評価など、目を見開いて考えさせられることの多い本でした。さすがはナチス・ドイツ研究の第一人者と言われている学者だけのことはあります。
ヒトラーが実際に何をやったのか少しでも知った人ならヒトラーの再評価なんて絶対に考えられませんが、ヒトラーは悪い面だけでなく、良い面もあったという「バランス感覚」の乗りで考えている人が、今日ではドイツも含むヨーロッパでも日本でも少なくないとのこと。本当に歴史教育の大切さを実感させられます。
ヒトラーは人間の姿をした悪魔(サタン)の化身だ。条約を破って戦争を遂行し、民間人の女性や子どもを傷つけないと確約しながら、今やヨーロッパ中に何千という巨大な墓穴を掘り、ゲスターポ(秘密国家警察)による何百万という犠牲者たちの遺体をそこに埋めている。
これは11歳のユダヤ人少年が1943年9月に日記に書いていた文章。この少年は隠れ家を襲われ、絶滅収容所に送られる寸前、青酸カリを飲んで自殺した。
ヒトラーは生粋のドイツ人ではなく、オーストリア生まれのオーストリア人。ヒトラーは、1032年になったようやくドイツ国籍をとった。ドイツではプロテスタントが圧倒的だが、ヒトラー自身はカトリック教徒のままだった。ヒトラーの父アロイスは、婚外子であり、父方の祖父が誰なのか、今も不明のまま。
ヒトラーの名前は、実は、その前はミックグルーバーという、「下品で野暮ったい」苗字だったのを、父がヒトラーに改姓してくれた。
ヒトラーには、怠惰な生活スタイル、誇大妄想狂、規律に欠け、計画的に物事が進められない傾向がある。ヒトラーは首相になってから、討議をしだいに開かなくなっていたが、これも青年期以来の怠惰な生活スタイルによっているのではないか...。
ヒトラーは、十分な食糧と衣類と宿舎を提供してくれる場として、軍隊に入った。軍隊では、上等兵となり、連隊司令部つき伝令兵になった。これは前線の兵士に比べたら、より安全だった。
ヒトラーの演説の声は、ちょっとくぐもった調子のしゃべり方なのだが、よく聞きとれる声で、合点のいく気のきいたことを誰にもわかる生き生きした言葉で言いあらわす才能に恵まれている。これはヒトラーの演説を実際に聞いたジャーナリストの評価だった。
ヒトラーの演説が集会の呼び物になった。党の財政も左右した。
ヒトラーはミュンヘン一揆に失敗したあと逃亡し、一時、身を隠していたが、ついに逮捕され、裁判にかけられた。ヒトラーは、当初は沈黙し、食事も拒否した。しかし、裁判官はヒトラーに同情的で、ヒトラーが法廷で何時間にもわたって自分の政治的見解を披露するのが認められるという異例の厚遇だった。そのうえ、反逆罪なので、本来なら死刑判決しかなかったはずが、禁固5年という異常に軽い判決が宣告された。これはヒトラーが執行猶予中の身であったことも考慮すれば、まったくありえないほど軽い判決だった。なので、著者は、この判決の違法性は明白だと強調しています。
ヒトラーは要塞監獄に入れられたが、ヒトラー35歳の誕生日は、監獄なで盛大な祝賀パーティーが開かれた。いやはや信じられません。
ミュンヘン一揆前のナチス党の党員は5万5000人(1923.11)だったのが、一揆後は5千人ほどとなり、1926年に3万人超、1927年に6万人近くになった。
ヒトラーの個人的大スキャンダルとして、1931年9月に、同居中の若い(23歳)女性がヒトラー所有の拳銃で胸をうち抜いて自殺したことが紹介されています。ヒトラーは、交際相手の女性として20歳も若い女性をいつも選んでいたことも知りました。最後に結婚して共に死んだエーファ・ブラウンもヒトラーより23歳も若かった。
1932年7月の国会選挙で、ナチ党は230議席、得票率37.4%を占めた。
ブルジョア中道政党は、ナチスに支持基盤を奪われ消滅状態になった。他方、共産党は77議席から89議席(14.6%)と着実に上昇した。
1932年11月の選挙で、ナチ党は大敗した。ナチ党は、第一党の地位は保ったが、34議席を失い196議席となり(得票率33.1%)、ブルジョア政党が少し回復した。
また、社会党は12議席を失って121議席(20.4%)、共産党は12議席を増やして100議席(16.9%)の大台に乗せた。とりわけ、交通スト真最中の首都ベルリンで共産党は45万票(37.7%)を獲得し、第一党を占めた。
1932年12月、ドイツ国会はナチスの指示により、無期休会に入った。もちろん、社会党も共産党もこれに反対した。
そして、1933年1月にヒンデンブルグ大統領はヒトラーを首相に任命した。ヒトラーは首相になると、直ちに「ドイツ国民を防衛するための大統領緊急令」を発し、集会・出版の自由を制限した。また、政府転覆計画の阻止を口実として、ベルリンの共産党本部の家宅捜索を強行した。そのうえ、国会議事堂が炎上したことから、共産党員を一斉検挙し、社民党をはじめナチスの政敵2万5千人以上の身柄が拘束された。
3月5日、そのような状況下で国会選挙があり、ナチスは550万票ほど票を伸ばしたが、ナチ党単独では過半数をとれず、社民党が120議席(18.3%)と健闘した。さらに、ヒトラー政府は共産党の議席剥奪を宣言し、強制的に国会から排除した。
そして、3月に授権法(全権委任法)を制定し、政府が国会にかわって法律を制定できること、憲法に反してもよいこととされた。社民党は反対したが、賛成441、反対94で授権法は可決した。
憲法違反の法律を政府が国会にかけることなく制定できるというわけですから、まさに独裁国家です。ヒトラーの権力掌握過程は、私たち日本人も教訓として学んでおく必要があると思いました。
(2021年10月刊。税込1276円)