弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2022年1月20日
小説・ムッソリーニ(上)
イタリア
(霧山昴)
著者 アントニオ・スクラーティ 、 河出書房新社
ヒットラーについては最近の中公新書をふくめて何冊も評伝を読みましたが、イタリアのファシスト党のドゥーチェ(総統)のムッソリーニについては初めて読みました。ただ、小説と銘うっていますし、「ファシズムの側から反ファシズムを描いた小説」ということなので、イタリアの戦前・戦後の歴史に詳しくないと、なかなか没入できない本です。それでも、なんとかガマンして読みすすめていくうちに、ファシズムというのは、むき出しの暴力をともなうものだということがよく分かりました。
私の大学生のころ、全共闘という学生集団があり、暴力肯定でむき出しの暴力を行使し、大学を支配下におこうとしました。東大では、その野望は結局、挫折しましたが、全国の大学のいくつかで暴力支配が実現してしまいました。その暴力支配は、絶えず内ゲバをともない、多くの死傷者を出しました。今でも全共闘を賛美する人が少なくありませんが、暴力肯定論は浅間山荘における日本赤軍の大量殺人に行きつくものだという真摯な反省が欠けていると私は考えています。
ムッソリーニは、ファシストになる前は、労働者を大切にしようと主張する社会主義者の新聞『アヴァンティ―』の主幹として活躍していた。知りませんでした。
ムッソリーニは、梅毒に冒されていたものの、屈強な体格の持ち主だった。
ムッソリーニは、プロレタリアート(労働者)の精神を把握し、解読することにかけて、その右に出る者はいないと仲間たちは公言していた。
ムッソリーニは、真摯で熱烈な絶対的中立論者だったのに、ほんの数週間のうちに真摯で熱烈な参戦論者に転向した。それで、ムッソリーニは社会党から除名され、プロレタリアートの兵隊を失った。
手錠、牢獄、それでも足りないときは腹に打ちこまれる銃弾。民衆のために用意されているのはいつもそれだけ。そして、暴力の担い手は、ブルジョワ、地主、企業家だ。広場に集まった群衆は、暴力の犠牲者となることにかけては、もはや熟練の域に達している。
この上巻は1919年に始まり、1921年までのイタリアの状況を活写しています。
1920年12月、フェッラーラ県のエステンセ城前の戦闘で3人のファシストが社会主義者に殺された。この戦闘はファシストが仕掛けたものだったが、社会主義者の側も防衛のために爆弾を持ち込んでいて、それが警察に摘発されていたことから、ファシストは、社会主義者に責任を押しつけることに成功した。
1921年当時のイタリアでは、暴力について、尽きることなく議論していた。政治闘争に暴力を持ち込むなという点について、ムッソリーニの主張は明快だ。
ファシストは、そうせざるをえない場合においてのみ、暴力を行使する。ファシストは、そうするよう強いられた場合にかぎり、破壊し、粉砕し、放火する。それがすべてだ。
ファシストの暴力は騎士道精神にもとづいたもの。暴力は、個人的な復讐という性質ではなく、国家の防衛としての性質を有する。
どこでも、警察を軍が盾(たて)となって、ファシストの敵の労働者協会の拠点を蹂躙するファシストを援護した。警察権力はもう、投獄をちらつかせファシストを脅すようなことはしなかった。それどころか、ファシストは、軍の車に同乗し、120丁の小銃と3ケースの手りゅう弾を提供されていた。
社会主義者が真摯に武装解除するのであれば、そのときこそ、ファシストもまた武器を捨てるだろう。ファシストにとって、暴力とは異議申立であって、むごたらしく、だが不可避な営みとして、この一種の内戦を受け入れている。ムッソリーニは、このように語った。
いまや、ポレジネ地方の哀れな農村では、夜中に誰かが戸を叩き、「警察だ」という声が聞こえたなら、それは死刑執行を意味すると認識されている。
ファシズムとは、行き過ぎること。ファシストたちは、週末になると、近隣の農村に出かけていき、労働者会館、組合事務所、そして赤の役場を襲撃する。殴り、破壊し、広場で旗を焼いた。
ファシズムとは、教会ではなく訓練場であり、政党ではなく運動であり、綱領ではなく情熱である。ファシズムとは、新しい力である。暴力のスペクトルのなかに光の性質を正しく浮かび上がらせる。無差別殺人とは、ファシストではない者たちが、アナーキスト、共産主義者が行使する、暗がりのなかの暴力だ。ファシズムの暴力は光だ。
わずか2.3ヶ月のうちに、9つの労働評議会、1つの生活協同組合、19の農村同盟が破滅させられた。社会主義勢力の瓦解は、とどまるところを知らなかった。いまや各地で、農村の大衆は赤旗をおろし、ファシストの組合に加入していた。
農村運動の指導者たちは、すさまじい速度で進行する崩壊を前にして、なすすべもなく立ちつくしていた。そして、次のように呼びかけた。
「家から出てはいけない。挑発に応じてはいけない。沈黙すること。臆病にふるまうことは、ときとして英雄的な行為なのだ」
ひまし油の利用。ファシストの脅しに屈しない社会主義者を見つけると、その口にじょうごを突っ込み、通じ薬に用いられるひまし油を1リットル、無理やり胃に流し込む。そして、車のボンネットに縛りつける。それで屁をひり、糞をもらす姿を、村中の住人にさらすのだ。ひまし油を飲まされた人間は、殉難者になる資格を喪失する。恥辱が同情を吹き払ってしまうからだ。公衆の面前で糞をもらした人間に、崇拝の念を抱く者はいない。嘲笑にはすぐれて教育的な効果がある。その効き目は長く続き、人格の形成に影響を与える。排泄物は血よりも広く、国家の未来に拡散していく。
いやあ、これはひどい。ひどすぎます。こんなファシストの蛮行は絶対に許せません。
暴力が渦を巻き、新たな犠牲者の血が流され、家屋に火がつけられた。ファシズムは、暴力的であることをやめるやいなや、そのあらゆる邪悪な特権を、そのあらゆる力を失うだろう。
ファシズムの本質がよくよく分かる本です。
(2021年8月刊。税込3135円)