弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年1月13日

サラ金の歴史

社会


(霧山昴)
著者 小島 庸平 、 出版 中公新書

私が弁護士になって4年目ころから長く取り組んできたサラ金問題(やがてクレジットが主になりましたので、クレジット・サラ金問題、「クレサラ問題」と略称していました)が、今では戦後史の一つとして歴史問題になったんですね...、という感慨を込めて読みすすめました。
著者は1982年生まれの学者ですから、1985年9月(?)に福岡県大牟田市で全国クレジット・サラ金問題被害者交流集会が開催されたときは、まだ幼児だったのです。なので、クレサラ問題は自分の実感としてではなく、すべて活字による知識のようです。
しかし、そこは、さすが学者です。戦前には知人間の貸し付けでも意外な高利が動いていて、ちょっとした副収入になっていたというのを初めて知りました。同僚間での貸し借りに高利がついていたというわけです。
有名な賀川豊彦の『貧民心理の研究』(1915年)によると貧民街で、貧民への貸し付けが横行していたのでした。そして、それは、毎日返済する小口の日掛(ひがけ)金融だったのです。つい最近まで日掛けのヤミ金融が横行していましたが、今ではあまり聞きません。
そして、戦前、同僚に有利子でお金を貸すのは、当時のサラリーマンにちって、資産運用の有力な選択肢の一つだった。うひゃあ、それは知りませんでした。
40年ほど前、炭鉱を定年退職した人が、退職金を元手に小口金融を始めたけれど、たいていは失敗してしまったという話を聞かされました。失敗した理由は厳しい取立ができなかったからでした。血も涙もない取立ができないような心の優しい人は、借り主から踏み倒されるばかりだったというのです。
日本昼夜銀行というサラリーマン金融をしていた銀行があり、夜間に現金が入って来る商人や飲食店を取引相手としていた。
「昼夜銀行」なんて、ええっ、ウソでしょと、つい叫びたくなりますよね。戦前の話です。1943年に安田銀行に吸収合併されました。政府(大蔵省)は、1938年に庶民金庫を設立した。こちらは敗戦後の1949年に、国民金融公庫に再編された。
今も質屋はありますが、かつてのようにおカミさんが金策のために質物をもって駆け込む...なんて状況ではありませんよね。
家計のやりくりは妻の責任という夫、そして一般社会の「常識」から、妻は質物をもって質屋に駆け込んだのでした。もちろん、給料日になってお金が入れば、質物は受け出すのです。
サラ金の始まりは、団地金融でした。つまり、団地住民なら、一定の年収基準をみたしているはずなので、審査する必要がほとんどなく、その分、経費がかからないのです。
サラリーマン金融が始まったとき、団地金融でしていた自宅訪問はせず、勤務先が上場企業のときに限った。そして、団地金融でやられていた「現金の出前」はやらなくなった。
そして、「前向きな目的」のための借金申し込みに応じるようにした。たとえば、酒、マージャン、デートなどは、「健全資金」なのだ。
貸金業者については、貸すときの地蔵顔(エビス顔)、返すときのエンマ顔、という文句がある。
債務者に対して同情心や罪悪感を覚えるという人間的な心の動きは、債権回収業務にとってはノイズ(雑言)でしかない。顧客の自殺を「そんなことくらい」と片付けられる精神的な鈍感さが、債権回収の担当者には求められる。債務の返済に苦しむ顧客を自業自得であると決めつけ、「こいつら人生の負け組なんだ」と自らに言い聞かせる。そうすると、債務者を責め立てることには「面白味」さえ感じられるようになる。
朝から電話で督促するとき、ガンガン怒鳴りまくって、ストレスを発散させるという、いかにも非人間的な話を当時よく聞かされました。
サラ金業界は、被害者を増やしすぎたため、借金問題を扱う弁護士に安定した収入を与え、被害者運動を継続して支援することを可能にした。自己破産申立が有力な解決策となった。これは逆転の発想でした。
このころ、サラ金問題の第一人者は東京の木村晋介、大阪の木村達也という、二人の木村弁護士でした。そして、少し遅れて宇都宮健児弁護士が登場します。
この本に書かれていないことをあえて指摘すれば、クレサラ被害者へのカウンセリングの有効性を認めるかどうかで深刻かつ大激論があったこと、それは破産原因はすべて生活苦なのか、ギャンブル・浪費が借金の原因だったときにどうするのか、という問題と連動していました。著者には、このあたりの視点が残念ながら欠けているようです。とはいえ、大変よくまとめられていて、勉強になりました。
(2021年11月刊。税込1078円)

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