弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年1月 9日

シルクロードとローマ帝国の興亡

世界史(ローマ)


(霧山昴)
著者 井上 文則 、 出版 文春新書

ローマ帝国にとって、シルクロード交易のメインルートは陸路ではなく、海路だった。海のシルクロードが活躍していた。
いやあ、これには驚きました。もちろん陸路のシルクロードがあったことは間違いありません。しかし、大規模交易は陸路ではなく、海路だったというのです。ローマからインドへ行くのにも、陸路ではなく海路のほうが大規模交易に向いていた。なるほど、そうなんですね...。
交易品のリスト。布類とガラス器、金属、金属加工品、ローマの貨幣(金・銀・銅)、ブドー酒、オリーブ油など...。ガラス器はローマ帝国の特産品だった。ブドー(葡萄)酒もローマ帝国を代表する輸出品だった。当時の葡萄酒は今のワインとはかなり異なっていて、アルコール度は高く、たいてい水で割って飲み、蜂蜜や香料を加えていた。
地中海で揺れていた珊瑚も輸出品だった。乳香は、樹木の樹液の塊で、半透明の乳白色をしていた。加熱すると、香気を発する薬種としても用いられた。没薬は、同じく樹木の樹液が固まったもので、色は黄赤褐色。絹はぜいたくの象徴であり、価格は非常に高かった。
ローマ帝国は交易について、25%もの高額の関税をかけていたので、交易が盛んになればなるほど、関税収入が増え、帝国はもうかる仕組みになっていた。
ローマ帝国の国家予算は、軍事費が6~7億セステルティウスだったので、関税収入が4億セステルティウスだと、軍事費の大半がまかなえたことになる。
ローマ帝国の繁栄とは、都市の繁栄にほかならなかった。そして、都市の自治に関わる役職は無給でしかなかった。
ローマ帝国は、紅海に艦隊も配備していた。
ローマのシルクロード交易は、1世紀の後半にピークを達し、五賢帝時代の始まる5世紀末には早くも衰退しはじめていた。
中国人がローマ帝国について、「大秦国」と呼んだのは、「多くの中国人にとって、山の向こうに自分たちと同じような世界があると信じていたが、そのローマ人は背が高いと聞いて、背の高い自分たちと同じ中国人の国」という意味で「大秦国」と呼んでいた。
このころ、西方は東方より貧しかった。東方の諸地域は古くから文明が栄えていた。
ホント、世の中は知らないことだらけですね。
(2021年8月刊。税込935円)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー