弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2021年12月15日

第七師団と戦争の時代

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 渡辺 浩平 、 出版 白水社

北海道にあった第七師団の生い立ちから敗戦のときに解放するまでを追跡した労作です。
北鎮という言葉を初めて知り(聞き)ました。北方の脅威から自らを護るという意味だそうです。北とはロシア(ソ連)を指します。
第七師団は屯田兵を前身とし、中国・満州に渡ってノモンハンで戦い、また沖縄でも戦っています。師団というのは1万人あまりの兵力をもち、聯隊(れんたい)は2千人ほどの将兵がいる。師団長は中将があたる。
第七師団の歩兵第二十五聯隊は屯田兵を母体とし、1896(明治29)年に札幌の東の月寒(つきさむ)の地で誕生した。そして、この第二十五聯隊は、1945年8月17日に樺太の逢坂で聯隊旗が焼かれて消滅した。
第七師団の本来的任務は一貫して北方の護り。
屯田兵は、正式名称は屯田憲兵。ええっ、これまた初めて知りました。憲兵だったのですか...。屯田兵は、シベリアのコサック兵を模して、黒田清隆が進言してできた制度。
第七師団の用地は540万坪。そこに3個の歩兵聯隊(26、27、28)と騎兵、工兵、野戦砲兵、輜重(しちょう)兵がそれぞれ1個聯隊、師団司令部、病院、監獄、憲兵隊、兵器廠や官舎、それに火力発電所もあった。もちろん、練兵場や演習場も。
日露戦争のときの旅順港を見おろす203高地の攻略戦にも第二十五聯隊は出動しています。このとき、63人のアイヌ兵がいて、うち51人が戦功により勲章を授与された。この戦闘で、第七師団は、3割強、6206人の死傷者を出した。
ロシア(ソ連)の二コラエフスク市(尼港)における日本人虐殺事件にも第七師団は関わっている。1917年にロシアで革命が起こり、ソビエト政府が誕生した。そこへ、英仏、米日がシベリアに出兵して内政干渉を試みた。その名目は、チェコ軍団の救出ということだった。1918年8月に第七師団がシベリアに派兵された。
尼港事件は、1920(大正9)年5月24日に発生した。
尼港の日本軍守備隊はわずか300人。包囲するパルチザンは2000人。日本軍の救援は遅れ、日本の将兵と市民はパルチザンに処刑された。このころの日本人居留民は500人。うち、天草・島原出身者を主体とする娼妓が90人いた。また、パルチザンのリーダーは、直後の7月に赤軍によって処刑されている。
シベリア出兵したのは、当時21個師団のうちの10個師団。24万の兵力を送り出し、死者5千人、負傷者2600人、戦費は9億円にのぼった。日本はシベリアの資源を開拓して得ようとしていた。
ノモンハン事件のときにも、1939(昭和14)年5月から9月にかけて、満州(チチハル)にいた第七師団が出動した。
その第26聯隊長だった須見新一郎は、火焔瓶によってソ連軍の戦車と戦った考案者として名高いが、ノモンハン戦記のなかで、「御粗末なる作戦屋」として日本軍高官たちを痛烈に批判している。関東軍の植田謙吉司令官、辻政信らの参謀、そして小松原道太郎・第23師団長らを激しく非難した。
ノモンハン事件では、ソ連軍も莫大な被害を出したことが今では判明していますが、ジューコフ将軍が最大限の物量を集中させて日本軍を圧倒したこと自体は事実です。この戦果によってジューコフ将軍はスターリンに認められて、ソ連赤軍のトップにのぼりつめました。
そして、第七師団は沖縄に渡ってアメリカ軍と戦い、また樺太ではソ連軍と8月15日のあとまで戦ったのでした。
第七師団の歩みは、日本軍の歩みでもあることがよく分かる貴重な労作だと思いました。
(2021年11月刊。税込2750円)

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