弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2021年11月10日

暁の宇品

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 堀川 惠子 、 出版 講談社

日本軍が兵站を無視して精神論ばかりで戦争をすすめていたのは有名ですが、それは兵員・物資の輸送の面でも顕著だったことを本書で知りました。
アメリカは原爆を日本に投下するにあたって、「目標検討委員会」を設置して、議論した。そこであがったのは17都市、それを4つにしぼった。京都・広島・横浜・小倉。
京都(古都)を破壊すると、日本人の反発が強まり、占領後の統治が難しくなるとの懸念から京都は外された。広島は一貫して目標の筆頭にあがり続けた。それは、広島の沖に日本軍最大の輸送基地・宇品があったことによる。
宇品は広島の軍港の名。宇品地区の中心にあったのは、陸軍船舶司令部。暁部隊として知られる。
太平洋戦争中に撃沈された輸送船は、小型船まで含めると7200隻以上。出征した船員の2人に1人が戦死している。
なぜ、広島の宇品が戦争の玄関口となったのか...。理由の一つは、鉄道。日清戦争(1894年)のころ、東京を起点とした鉄道は広島まで開通したばかりだった。全国から集めた兵隊や物資を戦場に運ぶには、出航する港に鉄道がつながっているのが好都合。
宇品港は岸壁の際まで最大10メートルの深さがあり、港のすぐ近くまで大型船をつけることができた。周辺の島々が風をさえぎってくれるため、波も穏やかで、使用できる海面も広い。港の周辺に最大200隻もの船舶を碇泊させて作業することができた。
陸軍は、宇品地区に陸軍糧秣支厰を置き、精米工場や缶詰工場、糧秣倉庫を建設した。
海上輸送なのに、陸軍が船を動かすことになったのは、海軍が陸軍の部隊を船で外地へ運ぶ輸送任務を拒絶したから。陸軍船舶司令部は、船と船員をもたない海運会社のようなもの。
陸軍は戦争が起きるたび民間から船と労働者を必死にかき集め、日清戦争のとき24万人、日露戦争では109万人の将兵を宇品から朝鮮半島や大陸へ運んだ。陸軍部隊の輸送業務、乗船、搭乗、陸上への携陸は、すべて陸軍が計画・遂行し、海軍はその護衛のみを担当することが法令上、明記された。
最初は工兵の一分科にすぎなかった船舶工兵は、次第に増大し、独立した工兵連隊となったあと、船舶兵という兵種として18万人を擁した。
宇品港(広島港)に陸軍船舶輸送司令部が置かれ、田尻昌次・陸軍中将が司令官となった。配下の軍人・軍属は10万人、年間予算は2億円。
ところが、圧倒的に船舶が足りなかった。遊覧観光に使われていた古いプロペラ船までひっぱってきた。このため船舶不足によって国内物流が停滞しはじめた。その結果の石炭不足から、非鉄金属の生産にまで影響が出はじめた。船が足りないので新造しようとしても、世界的に鋼材が値上がりしていたため、造船業に鋼材がまわされてこなかった。
島国から軍隊を運ぶのは船しかない。軍隊が外征すれば、そこへ軍需品や糧秣を届けるのも船。資源を入手するために南方に進出するために兵を送るにも船がいるし、資源を運んでくるのもまた船。一にも二にも船が必要。日本は、その船が圧倒的に不足した。
田尻中将は、57歳で司令官の座を追われた。諭旨免職だった。それは船舶不足の現実をふまえて中央に意見集中したことへの報復措置だった。残った司令部では、表面上の強気が支配した。弱音を吐いたら、最前線に飛ばされ、命の保障がなくなってしまう...。
陸海軍部も政府も、船舶の重要性は十分に知っていた。しかし、その脆弱性に真剣に向きあう誠意をもたなかった。圧倒的な船舶不足を証明する科学的データは排除され、脚色され、ねじ曲げられた。あらゆる疑問は保身のための沈黙のなかで、「ナントカナル」と封じ込められた。
いやはや、今はやりの忖度の世界ですよね、これって...。
よくぞ、ここまで調べあげたものだと驚嘆しながら、息を呑みつつ最後まで一気に読み通しました。
(2021年7月刊。税込2090円)

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