弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2021年7月 9日

帝国大学の朝鮮人

朝鮮(韓国)


(霧山昴)
著者 鄭 鍾賢 、 出版 慶應義塾大学出版界会

植民地朝鮮から日本の帝国大学に留学した青年たちのその後をたどった本です。人数にして1000人もいた彼らの多くは、日本の植民地支配機構にエリートとして組み込まれていったようです。
彼らは長い日本における留学生活を通して、日本式の近代化の理念を内面化して帰国し、植民地朝鮮と戦後の南北朝鮮で社会の中枢となった。
帝国大学の教授陣のなかにも、朝鮮留学生に厚意を示した良心的な知識人もいた。たとえば、吉野作造、河合栄治郎、河上肇、そして藤波鑑(私は、この人を知りません。すみません)。
植民地朝鮮にも1926年に開校した京城帝国大学があった。ところが、この京城帝大には日本人学生が多数であり、朝鮮人入学者が半数をこえたことはなかった。そもそも、この京城帝大は、当時の朝鮮人たちが自力で民立大学を建てようとするのを阻止する手段でもあった。
玄界灘を渡って日本へ行った青年たちは、「志士か、出世か?」の問いが投げかけられた。そして、帝国大学の卒業生は結果として、多数が「出世」を選択した。多くの学生が、日本での留学期間に、帝国日本が先に成し遂げた文明に圧倒されてしまった。
しかし、帝大出身のなかには、反日運動を展開し、労働運動を指導した青年たちも少なからずいた。その青年たちは検挙され、拷問を受け、そして獄死する人がいた。
京城帝大を卒業した朝鮮人青年は629人だったのに対して、日本内地の7つの帝国大学を卒業した朝鮮人留学生は784人、途中放棄などをふくめると1000人をはるかにこえる青年が帝国大学で教育を受けた。
これらの帝国大学の留学生は、朝鮮総督府の植民地統治を維持する官僚となり、官立・公立・私立の教育機関、植民地の言論、出版、そして経済界で中心的に活動した主要人物だった。そして、解放後には、南北朝鮮の国家建設の重要な人的資源となった。このように、帝国大学は、日本本土だけでなく、植民地および南北朝鮮においても国家のエリート育成装置だった。
東京帝大の朝鮮人留学生のなかには、日本帝国の民間有力者たちが設立した「自彊(じきょう)会」から奨学金をもらった人たちがいた。いわば「アカの正体を隠して」奨学金を「タダ乗り」でもらっていた。
帝国の奨学生のなかの少なからぬ人々が、解放後の南北朝鮮で、自らが習得した知識で各自の共同体に貢献する生涯を生きた。
河上肇は、自宅で毎週木曜日、雑誌「社会問題研究」を中心とするセミナーを行ったが、これには、日本人8人と韓国人学生3人が参加していた。
藤波鑑教授は京都帝大医学部の教授であり、朝鮮人留学生(尹 日善)の授業料を出してやったりした。藤波教授は、毎週水曜日の昼は、学生と一緒に昼食をとって歓談した。
うむむ、これはすごい教授ですね・・・。
ニックネームが「熊」だった朴英出は京都帝大経済学部で学ぶなかで反日運動の闘士となり、警察に逮捕された。知力も体力も強かったのに、激しい拷問にあって、その後遺症として4年の刑期を待たずして獄死した。
大変な労作です。少なくない前途有為な、志の高い青年たちが日本の特高警察による残忍な拷問で殺されてしまったことを知ると、同じ日本人の一人として大変申し訳なく思います。これらの人々が解放後に平和裡に個性を発揮したらどんなに素晴らしかったことでしょう...。もっとも、本人が一番残念だったでしょうね。
(2021年4月刊。税込3740円)

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